【中高生向け】なぜ、未来は自由にならなかったのか――かつてのエンタメ・TVコンテンツ大好きだった子どもとして、今の「表現の不自由」に思うこと
かつて子どものころ、僕はこう思っていた。
「今はうるさい大人が表現を規制してくるけれど、将来、大人になるのは自分たちなんだから、きっと表現の自由は広がっていく。ゲームやアニメ・マンガも、何も気にせず楽しめるようになるはずだ」って。
1990年代の中高生だった僕にとって、それは本気の希望だった。
あの頃のゲームや漫画には、時々「これは有害だから」と言われる作品があった。雑誌にモザイクがあったり、レンタルビデオのコーナーに年齢制限があったり、なんとなく「大人が決めたルール」に縛られている感じがした。
でも、大人になって驚いた。
2025年の今、表現の自由は広がるどころか、もっと“気を遣うもの”になっていた。
感情が、自由を縛る時代
今の時代、ある漫画のキャラの描き方に「これは不適切だ」と怒る人がいたり、アニメのワンシーンが「子どもに悪影響を与える」と批判されたりする。実際に過去には、宇崎ちゃんというキャラクターや、『月曜日のたわわ』という漫画が、そうした理由で話題になったこともあった。
もちろん、「これは嫌だ」「ちょっと気持ち悪い」という感情を持つのは自由だし、それを言うことも自由だ。
だけど最近は、「私は不快だ」という感情が、「これは社会的に許されない」という判断にまで直結してしまうことがある。
つまり、理屈じゃなく“気分”で物事が決まる社会になってきている。
母親は、なぜ不寛容に見えるのか?
こんな話がある。
昔の男子中学生なら一度は経験したことがあるんじゃないか、というエピソード。
ベッドの下に隠したエロ本が、ある日棚の上に置かれている。母親に見つかったという証。けれど何も言われない。怒られもしない。気まずいけど、少し笑えてしまう、そんな“あるある”だ。
これは、親が子どもに対して「見なかったふり」をすることで、“成長の一歩”をゆるやかに認めていた一つの文化だったと思う。
でも今はどうだろう。
子どもが見るテレビ番組、読む本、遊ぶ友達──なんでも“正しくあるべき”として、細かくチェックされ、管理されるようになっている。
母親だけを責めたいわけじゃない。むしろ、今の社会がそうさせているんだと思う。
子どもを守る=自分が責められないようにする
今の親たちは、昔よりも不安が多い。
SNSで「〇〇ちゃんの子育てはすばらしい」と言われる一方で、「そんなことを子どもにさせるなんて!」とすぐに責められることもある。
何か起きたとき、「お母さんのせいじゃないの?」と言われる時代なのだ。
だからこそ、「リスクをゼロにする」ために、子どものやることを先回りして止める。
でも、本当にそれでいいのだろうか?
子どもが感じる「なんか面白い」「ちょっとドキドキする」「なんかよく分かんないけど好き」という感覚を、大人が全部“正しく判断してから与える”ようになってしまったら──
子どもは、自分の感覚を信じられなくなってしまう。
いま、自由ってなんだろう?
誰もが表現できる時代になった。
けれど、本当の意味で“自由”になったとは思えない。
● 発言すれば炎上するかもしれない
● 描いた絵が誰かを怒らせるかもしれない
● 冗談を言えば、差別と言われるかもしれない
だから、「怒られないように」「叩かれないように」考え、何かを“表現しない”選択をする。 そしてだんだん、「なにかを言いたい」気持ち自体が萎えてしまう。
それって、自由な社会だろうか?
僕たちは、空気に負けたのかもしれない
かつての僕は、大人になれば自由を作れると思っていた。
でも、気がつけば僕たちは、「誰かが不快に思うから」と口をつぐむ側に回ってしまっていた。
自由って、勝手にやってくるものじゃなかったんだ。
誰かが「まあ、そういう考えもあるよね」と言うこと。
「私は違うけど、あなたはそう感じるんだね」と受け止めること。
そうやって、違う感情や価値観を、ぶつけ合わずに並べておける空気が必要だったんだと思う。
次の世代へ
今の中高生に伝えたい。
もし、君が「なんか言いづらいな」「これって描いちゃダメなの?」と思ったとき、それは君が敏感だからじゃない。
君の中に「表現ってなんだろう」「自由ってどうやって守れるんだろう」という、ちゃんとした問いがあるからだ。
その問いを、簡単に手放さないでほしい。
そして、自由を「正しさ」で測るのではなく、「違ってもいい」を広げることで守っていってほしい。
僕たちの時代は、その問いを途中でやめてしまったのかもしれない。
でも、今からでも遅くない。
「自由って、なんだろう?」ともう一度語り合うことで、未来は変わる。
その火を、次の世代に渡すために。
