プロジェクト・ヘイル・メアリー 感想
当たり前だろうけど、本作は原作既読か否かで見え方がかなり変わるだろう。
未見の立場からでも、相当削っているであろうことは全編を通してはっきり伝わる。
原作の方が骨太だろうなというのは容易に察せられるし、原作未読勢は逆に初見で挑んだ方が楽しめる、映像化として大成功な作品のように感じる。
そもそも本作は、冒頭から観客に対して説明する気がほとんどない。
固有名詞や設定の提示は必要最低限に留め、バディ関係とドラマを前面にアピールする作りだからこそ、これを純粋なSFと呼ぶには少し躊躇いがある。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ作の「メッセージ」で主軸となった言語の壁や、ノーラン作「インターステラー」の結末やデザイン、ロジック主導な文脈が強く感じられる。
そのくせ、本作は固有名詞や設定等を掘り下げる気も、積み上げる気もなく、最終的にはバディとエモの部分に注力している。
その分、削ぎ方はかなり大胆なのかな。
地球滅亡までのカウントダウンをはじめ、コールドスリープによる筋力低下を当然のように無視している点、操縦士・技術士の死にも明確な理由が用意されていない点、さらには宇宙人(ロッキー)との意思疎通もめちゃくちゃ早いし、本作最もスリリングなプロットである「釣り」の作戦に至るまでの下準備も順風満帆、窒素への抗体を施す新細胞の開発や保管する容器なども爆速で完成させる。
本来なら山場になるはずのプロセスが、ことごとく初見向けに添削されているように感じる。
役割説明のみで咀嚼されている上記の点は、原作では時間をかけて展開している部分なんだろうし、初見が没入できるよう緻密に設計された映画なんだろうと感じ取ることは容易だった。
しかし、これらは決して欠点ではない。
秀逸な設計と感動のエッセンスがブラッシュアップされた、神がかり的なバランスの上に成り立っている。
フィクションのコーティングとして良い塩梅に補強の役割を担っているのが、コメディとバディ2人の友情で、SFはその関係性を裏付けるツールとして用いられている。
それにもかかわらず、サイエンス部分で今何が起こっているのかを何となく咀嚼できるのは、脚本がよく練られている証拠だろう。
確かに、アンディ・ウィアーの代表作である「オデッセイ」の構成にかなり近い。
ただの植物専門家がトラブルをゴリ押しで解決するような、苦労の総量を圧縮して結果だけをテンポよく繋いでいく構成を想起させる。
実際、中盤のロッキーが死んだ?と思われる展開以降はかなり駆け足で、復活以降の展開もやや作為的に見えてくる。
そもそも地球に残された時間は少ないと謳いながら、宇宙で過ごしている時間は全く推測できない。
意図的に経過する時間をぼかしているのだと思うが、例えば、主人公の宇宙船での目覚め→宇宙人との出会い→ロッキーを憂いて地球に帰るのではなく救いに行く、というストーリーテリングの中には、当然研究や実証や会議、各々の葛藤や苦悩、ロッキーと主人公のオリジン、地球の様子、などはすべて省かれる。
そのため、アストロファージの捕食者タウミーバとビデオメッセージが地球に到着するのは4年ほど、と言われても、物語終盤に至るまで経過している地球の時間は描かれないし、相対性理論にも言及がない。
科学の知識と友情を武器に、絶望的な状況を「科学的」にではなく「エモに包まれた不透明な時間」で進めるため、緊張感はやや希薄に感じられる。
しかしこれは欠点というよりも、本作の設計に由来するものだろう。
前述の通り、最初から説明を放棄している作品なので、鑑賞中に感じる大半の違和感や事象は「何となく」で解釈するしかないし、実際にそういう設計になっている。
フィル・ロード&クリストファー・ミラーであろうが、さすがに原作のストーリーテリングを大きく改変はできない。
ボリューミーなSF小説を約2時間半の映像作品にするために必要な取捨選択であり、映像だからこそできること・描けるテーマを突き詰めた結果が、ストレートなバディドラマに没入させられた要因だと思う。
ビジュアルはかなりクラシック寄りで、往年の金字塔SF映画に倣った点がいくつも見受けられた。
宇宙舞台で地味になりがちなところを、タウ・セチやペドロヴァ・ラインの表現でカラフルにしているのは見応えがあった。
個人的に最も好きなのは、タウセチeをエイドリアンと名付けるシーン!粋な心遣いが堪らなかった!
他にも、地球の疑似体験に誘うグレースの様子を見て、ロッキーが「彼は地球に帰りたいんだな…」と悟って献身性を見せるプロットは全て感動した。
傑作かと問われると判断に困るけど、思えば良かったシーンを上げるのはキリがないし、不快に感じる部分が全くなかったのは万人が楽しめる素晴らしい映画なのだろう。
原作への橋渡しとしても機能しているし、初見でみても楽しめる、隙のない映画でした👎
