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potsuri01
「わからない」の海に飛び込め
先月から少しずつ読んでいたジョージ・オーウェルの小説「1984」を読み終わった。
20世紀世界文学の最高傑作、ディストピア小説の最高峰というような謳い文句で紹介されることも多い歴史的な作品である………が、正直なところ私にとってはよくわからない部分が多かった。
巨大な権力を持つ「ビッグ・ブラザー」率いる党が支配する全体主義国家の恐ろしさや、24時間常に行動だけでなく思想まで監視される超監視社会の異様さが、まるで執筆時点で未来を予見していたように現代社会との繋がりを感じさせる、というのはわかる。
2017年には、トランプ大統領就任に合わせてアメリカで「1984」がベストセラーに急上昇したというニュースもあった。そのことが象徴する意味はきっと大きい。
世界中でそれだけたくさんの人が読んでいる作品ではあるが、「たくさんの人が読んでいる=わかりやすい」という単純なことではないように思えた。
物語が進むにつれ、主人公のウィンストンが徐々に党に追い詰められていく様子は読んでいて息苦しくなるし、後半のウィンストンに対する拷問が続く場面は思わず目を背けたくなる描写も多かった。
それでも多くの人がこの本を求めるのは、「わかる/わからない」という二項対立ではなく、
「ここには私が考えるべき『なにか』がある」
と人に感じさせる有無を言わさぬ力があるということなのだろう。
本が与えてくれるものは「わかる」だけではない。
どこまでも果てしなく続く「わからない」の海に体ひとつで飛び込み、海底深くでわずかに光って見える『なにか』を必死に掴みに行くような読書体験というのもある。
