日記|2026.8.12
要するに、おそろしい乱雑さであった。一目見たところ、二人とも、その紳士も夫人も、ちゃんとした人たちだったのが、貧困のためにこんなにもひどい屈辱的な状態にまで追いこまれてしまったように見えた。そして、ついには乱雑さに圧倒されて、それと戦おうという気力すら消えてしまって、日に日につのるこの乱雑さの中に、何かしら復讐的な満足感を見いださずにはいられないといったふうな、苦い要求を覚えるところまでに立ちいたったものらしかった。
五時に起床。昨日、久しぶりにたくさん酒を飲んだからか、やけにリアルな夢を見た。人と集まって、酒をたくさん飲んでから帰宅して寝た日には、神経が高ぶっているせいか、やたらとリアルな夢を見る。夢というか、半分起きていて、もしかしたら妄想もまじっているのかもしれない。あのときああいえばよかったというひとり反省会も、夢のなかでしている。目まぐるしく色々な場面や言葉が次々と浮き上がってくる。
昨日は祖父母の家にいって、親戚で集まって飲んだ。ビールを何本分かわからないくらい飲んだ。スーパードライをまるまる一ケース、500mlが20本。いくら飲んでも飲み尽きることは無いだろうと思え、ケースのなかに規則正しく並んだ瓶ビールを見て、わくわくしていた。
今日は有休をとった。
朝食はもらったウニを白飯にのっけて食べる。まぎれもなくいいウニで、美味しかった。ご飯を食べながら、ボードレールの詩集を適当にぺらぺらとめくる。「秋の歌」という詩がたまたま目に入り、読んで、気に入った。失われた夏を青春に見立てて、過ぎ去った青春を偲んだ歌だ。青春、と呼べるような時間をまともに過ごしていないはずの自分が、どうしてこの詩に深く共鳴できるのかは、よくわからない。Ⅰのほうは身に染みるように共鳴したのに対して、女性のことについて語っているⅡについては、いまいちだと思った。やっぱり、嫉妬なのだろうか。
朝はスタレのマネーウォーズをした。モーディス主体のHPパーティと、黄泉主体の巡回レンジャーPTはどららも戦績はよかった。黄泉パは前衛は黄泉、後衛は千冶・刃と不死途を中心にしていたが、黄泉で初めて10億越えのダメージを出せた。それを初めて出したのが黄泉なのも嬉しい。黄泉やファイノンのように設定上強いはずのキャラクターは、ゲーム面の性能でも強くありつづけてほしい。
母が仕事に行ったあと、フェイトのコラボストーリーを最後まで進めた。個人的にはギルガメッシュがとても好きになった。スタレのキャラでいうなら、ケリュドラに似ている。現実で周りには絶対いてほしくないけど、物語のなかで見るなら、このうえなく魅力的なキャラ達だ。fateのことは全然しらないのだが、なんだかんだ二つのコラボのどちらも楽しんでやれた。昼ご飯に母が買ってきたセブンのポークカレーを食べながら、ギルガメッシュのキャラクターボイスを聞いたり、ストーリーを読んだりしていた。キャラストーリは、朽葉がギルガメッシュにインタビューをする、と言う形式で、ギルガメッシュの過去が語られていた。エルキドゥは、ギルガメッシュの秘技の名前だけど、このエルキドゥが、本編で語られたギルガメッシュの死したかつてのただひとりの親友。どういうストーリなのか。死んだ親友の遺産を引き継いた、という感じだろうか。もちろん、原作を観ればそこもわかるんだろう。
三時ごろ、湯を沸かした。風呂に入る前に自慰をした。たいして溜まっているわけではないのに、今日はやけに勃起しやすかった。欲求不満のときにはなぜか立たず、そこまで欲求不満を感じていない日になぜかすぐに立たさる。肉体と精神があべこべになっている。これも混合状態の症状?
28、29の妖艶な女性が、二十歳前後の、まだ性的なことになれていない男のそれを奥まで咥えるのを想像しながら、した。「喉あたってます?」と青年のほうが顔を赤くしながら聞き、それに対して、咥えたままの女性が涼しい顔で少し微笑んで、頷いてみせる。喉にあたってるのに、当たり前のようにちっとも苦しそうな顔をせず、ほとんどえづきもしない女性に青年は感嘆する。青年は、女性を求めて、というより、むしろ女性に成り代わって、女性の苦しみを想像して、というか、自分がその女性だったら苦しくてとても無理なことを女性が平然とやっていることに興奮するのだ。それがいつもの、僕の発情の仕方だった。けれど、その青年は僕ではない。僕はどこにいるともわからない第三者として、ただ、その場面を見ている。自分が性的な行為に耽っているところなんて、とても見れたものじゃないだろう。それは録音した自分の声を聞くときの生理的嫌悪を何十倍にもしたようなおぞましさであるはずだ。醜い自分の醜い行為の姿。猿を連想させる、醜い姿態。だからその青年は僕にはならない。僕よりいくらか整った容姿の、僕よりいくらかマシな男でなくてはいけないのだ。
湯舟に浸かりながら、『白痴』をぱらぱらとめくって、適当な箇所を読んだ。開いたのは、イポリートの告白の場面だ。初めて読んだ時、余り感銘を受けた記憶がないのは、多分その時は鬱状態だったんだろう。今改めて読んでみると、その濃密さに驚かされた。余命いくばくもない青年イポリートが、七十数年も生きながら何もなさず何も得られなかったような人たちを看破する。彼らはなぜロスチャイルドになれなかったのか? 七十数年もの時間を与えられながら、彼らが貧乏から脱出できなかったのはどういうわけか? それほど多くの歳月を、彼らは何をして過ごしてきたのか? どこまで無能なら、七十数年もの時間を与えられながら、何一つ成し遂げずにいられるのか?・・・イポリートの呪詛にも似た辛辣な批評には、現代の自己責任論に通ずる部分があると思う。もっとも一方で、ある家族を通して、貧乏が人間を本質的に蝕むというさまも、ドストエフスキーは描いている。それを端的に説明した個所は、特に印象的だった(この日記の冒頭に引用している)。無能なために貧乏にある場合ももちろんあるだろうが、その全く逆、貧乏なために後天的に無能になってしまう、と言う場合もままあるのだ。「貧すれば鈍ずる」ということを、ドストエフスキーほど突き詰めて描いた作家は、他にいないんじゃないか。
昨日は随分飲んだから、今日はさすがに休肝日にする予定。近いうちに、女友達とまた飲みにいくかもしれない。もしかしたら明日。それか明後日。今回の土日はどちらも休みだ。お盆休みがないのだけ残念だ。調子のいいうちに、また飲みに行きたい。
