【海賊版】カリブを渡るリズムを刻む手段
※本記事は本田すのうさん主催「下書き再生工場」企画にてマイトンさんの手により再生された、コニシ木の子さんの下書き『カリブを渡るリズムを刻む手段』の海賊版です。
着床したときの記憶があるっていうと、だいたい嘘つき扱いされるから大っぴらにはしてないんだけど、尾てい骨のあたりにはやっぱりママの子宮内膜にぎゅっと抱きしめられた感覚が残っている。
いつからそうしていたかはっきりとはしないまま、暗くて狭苦しいトンネルをころりころり滑り落ちていく。滑り落ちながらうつらうつらしていたら、突然広い空間に放り出された。あ、墜ちる、と思ったし、実際墜ちたんだけど、やたらと分厚いクッションに受け止められた。体は弾むことさえなく、柔らかさにそのまま包まれる。
トンネルの旅が長すぎて疲れてしまっていたのもあって、薄らぼんやりとしたまま、そのクッションから動けない。ちょっと休憩しよう、そう思っているうちに眠ってしまったようで、意識を手放す寸前に体が優しい温度に静かに沈んでいくのを感じていた。気がついたら体はクッションにくっついていて、永遠にも思える時間を転がって過ごす旅は終わったんだ、って理解した。
踊り出したくなるような、甘く陽気なリズムが遠くで響いている。突き抜けて明るいその音色には、ほんの少しだけ憂いのようなものが混ざっていて、なんでか分からないけど泣きそうになりながらその調べを聞いていた。
これが、あたしの記憶のはじまり。
そんなことを初めて思い出したのは、あたしが三歳のときのことだった。
日当たりのいいアパートのリビングに置かれた、ぱっと目をひくターコイズブルーのソファー。
ママと並んで覗き込むiPadの液晶には、ディズニー映画の『リトルマーメイド』の一場面が映っていた。曲調ほどには明るくない青い画面のなかで、暗い赤色をしたザリガニみたいな生き物がノリノリで歌っている。
小さいその生き物はあまり可愛くなくて、声もおじさんのそれなのに、あたしはイントロを聴いただけでその曲に夢中になった。おじさんみたいな声の赤い生き物が好きだったわけじゃない。歌詞や曲に合わせて作られたアニメーションさえどうでもよかった。
あの歌のバックで流れている音とそのリズムに、心を奪われたのだ。特に、弧を描くように並べられた貝殻を、赤いザリガニみたいな生き物と青いエビが叩くのに合わせて鳴る、ぽわぽわした不思議な音があたしの心臓をぎゅっとつかんだ。
記憶のはじまりにあるあの音と同じだ、と思った。
「これ知ってる」
ソファーで隣に座っていたママの顔を見上げてそう言うと、ママは少しだけ驚いていたけど、すぐに赤く塗った唇の端っこを持ち上げてあたしの頭をなでた。
「どこで聞いたの?」
「ママのおなかの中」
ママは目をまんまるに見開いて、さっきより驚いた顔をして見せる。そして、あたしのことをぎゅっと抱きしめた。
その時から、あたしはEテレやプリキュアではなく、STEEL BANDやSTEEL ORCHESTRAと名のつくアーティストのCDや演奏動画で育つことになる。
それから少しずつ時間をかけて、その時々の年齢にふさわしいあたしが「できた」ときの物語を、ママはしてくれた。
あたしが「できた」とき、ママはトリニダード・トバゴという国にいたそうだ。かの地で生まれたスティールパンという楽器に魅せられ、演奏技術を学ぶために留学していたのだという。
「そこでとても情熱的な恋に落ちたの」
あたしの八歳の誕生日。
ママは重大な秘密を打ち明けるようにうっとりと言った。顔も名前も知らないパパが、トリニダード島でスティールパンを作っている職人だってことを知ったのも、そのとき。
そしてあたしは誕生日プレゼントにスティールパンをねだり、ママに演奏を教わる。小さいころからスティールパンのバンドに慣れ親しんでいたから、カリプソの弾むようなリズムや、スカの裏打ちにもすぐに馴染んで、ママを喜ばせた。
「あの人のスティールパンは、楽しげにキラキラしてるだけじゃないの。人の悲しみや苦しみをも包み込んだような、深くて広い音だった」
あたしがスティールパンを叩いていると、ママはときどきこんなことを言った。そして、その後に必ずつけ足す言葉がある。
「あなたに、彼のスティールパンを演奏してほしい」
それがママの口癖になった。声のはしっこに、寂しい気持ちが混ざっていたのをあたしは忘れない。その寂しさは、あたしではきっと埋められないことに気がついてしまったから。
四月。十八歳になった。
相変わらずスティールパンを叩いて生きている。ママの開いたドラム教室で週末だけスティールパンのクラスを開いたり、ときどきステージに立って演奏したり、TikTokやInstagram、YouTubeでライブ配信をしたり。
高校に入学したばかりのころ、どこからかあたしの噂を聞きつけてきた吹奏楽部の先輩にパーカスとして入らないかと誘われたけど、スティールパン以外の楽器には興味がなかった。
大型連休がすぐそこまで迫っているこの時期、札幌は季節外れの夏日になることがある。つい二週間前までは冬のコートをクリーニングに出して良いか悩むくらいに冷え込む日もあったのに、高気圧が気まぐれに張り出して、北国を覆う。
空の青が昨日より濃くなったのに比例して、アスファルトに落ちる影の色も暗くなった放課後、ブレザーを脱ぎ、ニットベストに白いブラウスの袖をまくった出で立ちで、あたしはママの病室を訪ねた。いちばん手前のベッドの横に看護師が立っている。あたしより少しだけ年上に見える体格のいい彼女は、ママにちょうど点滴を落とし始めるところだった。
「こんにちは。……桜の花びら、肩に」
彼女はあたしの顔を見るとツヤツヤした頬をほころばせて自分の右肩を指し示した。慌てて左肩に手をやる。しっとりしたものが指先に触れ、見ると淡いピンク色が数枚、向こうが透けそうなほどの薄さで背負ったままのリュックの肩紐にのっていた。
「きっと今日で一気に咲いたよね」
看護師は春みたいな声で言い、病室を出ていく。向かいのベッドのおばあさんが刺すような視線をこっちに投げ、カーテンを引いた。シャッ、と鋭い音がしておばあさんの姿が白い布の向こうに消える。何故か申し訳なくなり、見えるはずもないのに軽く頭を下げた。
あたしはベッドに横たわるママのくすんだ色の顔を見つめる。一緒に『Under the sea』を聞いたあの日、真っ赤に彩られていた唇に血の気はなく、薄茶色に沈んでいた。唇の縦じわが目立つこと、力なく閉じられた薄いまぶたが落ちくぼんでいること、もう消えないだろう黒いクマが眼窩を囲んでいること、などなどに気がついてしまい、あの頃のママはもう還らないんだって思い知らされる。あの看護師とは対照的に頬もおでこもあご先も、全部がかさかさに乾いている。古くなって波打ち、黄色く変色した新聞紙を思わせる肌だった。
肘の内側に点滴が刺され、掛け布団の外に出ているママの左手を握る。思わず制服の上着を脱ぐほどの陽気なのに、骨が直接感じられるほど細くなった指はびっくりするほど冷たい。その冷たさが火照った体に心地よいと一瞬でも思ってしまったことに後ろめたさを感じ、両手で包み込んだ。
かつてマレットを、ドラムスティックを握っていたママの手は、今は握り返してくることもない。
そして、二度とそれらを握ることはないこと、リズムを刻むことはないことを、あたしは知っている。
ママのくすんだまぶたがゆっくり開いて、あたしの顔をとらえる。来てたの、とほとんど唇の動きだけで力なくつぶやいた。
「あのね、昨日もYouTube観て習いたいって人が教室にメールくれたよ。土曜日に体験レッスン」
そろそろ土曜クラスだけでスティールパンバンドが組めそうだから、生徒さん増えるといいな。
あたしは返事をする代わりにそんな報告をする。ここのところ毎日病室を訪れているのは、会えなくなる日がそう遠くない気がしているから。
思えば、ママとは楽器を通じてしか対話らしい対話をしてこなかった。普通の親子の会話、といっても「普通の」親子が何なのかあたしの中でも曖昧なんだけど、普通の言葉での会話をもっとしておけばよかった。
このところママは眠っていることが多くなり、それさえもままならない。
「いつか、あたしと生徒さんとでスティールパンオーケストラ組んで、PANORAMAに出たいんだ。営業、頑張んないとね」
トリニダード・トバゴで開催されるスティールパンの世界大会の名前を口にしながら、あたしはあたしの後悔が表に出てこないよう注意した。気を抜くと「またママの演奏が聞きたい」とか、「ドラムも教えてほしい」とか、「もっと上手くなるから、一緒にPANORAMAに出てよ」とか、きっとそんな言葉ばかりが出てきてしまう。いなくなってしまうことを知っているよ、と何よりも雄弁に語る未来の言葉が。
ママの唇がまたかすかに動いた。視線と息遣いで何かを伝えようとしていることは分かる。
乾いた口もとに耳を寄せて、あたしはその言葉を受け止める。
卒業どころか夏休みを待たずに高校を退学し、あたしは今、新千歳空港にいた。
取得したばかりのパスポートとビザ、そして二十五万円の片道航空券の重みをミニショルダーの中に感じながら、まずは羽田行きの便に乗る。
七月の初め、平日の朝。空港は比較的空いていて、出張に向かうらしきサラリーマンが行き交うのを眺めながら、あたしはコンビニで調達したアイスコーヒーとパン・オ・ショコラで胃を満たした。
本当は、ANAの手荷物カウンターの近くにあるスープスタンドの豆乳クラムチャウダーが気になった。でも、これからの生活を思うとお金を少しでも残しておきたい。ママはあたしのために十分に貯えてくれていたし、あたしも講師として月謝を頂いていたけど、それでも向こうで演奏しつつ暮らしていくには心許なかった。
ゴミを捨てに立ち上がったとき、斜めがけにしたバッグの中でスマホが震えた。取り出して見ると、画面にはママのいる病院の番号。
あのとき、ママの口癖をあたしは初めてしっかりと受け止めた。ママが望んでいるのは、今、電話に出ることではないと確信をもって言える。
さよなら。
手の中で震え続けるスマホの電源を切り、ゴミを捨てて保安検査場へ向かった。
記憶のはじまりで聞いた甘く陽気なリズムと、憂いを帯びた突き抜けて明るい音色が、脳の奥底で響いている。
コニシさんの下書きに残っていたという不思議な言葉の羅列たちから妄想をふくらませ、再生工場産の正規品とは別に、闇ルート経由で海賊版を密造・流通させるという推し事に取り組む試み。
第一弾は『カリブを渡るリズムを刻む手段』。この呪文を目にした時、まっさきに浮かんだのはスティールパンの音色と、十六分音符と八分音符を組み合わせた2拍子、つまりカリプソのリズムでした。
スティールパンの音色は魔法みたい。『カリブを渡るリズムを刻む手段』という言葉を反芻しながらいろんなスティールオーケストラの音源を聞いていたら、ある女の子が「着床した時の記憶があるんだよね。この音をその時に聞いてさぁ」と話しかけてきました。
「なんのはなしですか」って聞いてみたら、こういうはなしでした。
『カリブを渡るリズムを刻む手段』技適マークのついた正規品、コニシさんが落とした物語はこちら。
正規品はこちらの工場で丁寧に再生されました。現在は閉鎖されています。
上記工場にて再生されたコニシさんの取り戻した正規品一覧はこちらから。
工場閉鎖後に跡地にて再生されたサードパーティー製品もございます。
正規品製造主による変態ひとり追いかけ再生工場の再生品はこちら。
