【読切小説】君の物語を聞かせて【12393文字】
夕暮れの光が、書店の窓越しに静かに降り注ぐ。
オレンジ色の残照が床に長い影を落とし、棚に並ぶ背表紙を優しく染め上げていた。
静寂の中に、時折ページを捲る微かな音が響く。
周囲の静けさが心地よく、俺は少しだけ深く息を吸った。
俺がこの書店に足を運ぶ理由は、何も特別なものではない。
ただ、静かな空間で本を手に取り、ページを捲る瞬間というのがたまらなく好きだった。
ページを捲る、この微かな音が空間に溶け込んでいく。
それを耳で、肌で感じるのが好きなのだ。
昔から本が好きだった。
本には心を穏やかにしてくれる力が宿っている気がする。
俺にとってここは、「日常」の一部であり、また同時に「逃避」の場所でもあった。
本を選びながら、俺は毎回同じように感じることがある。
それは、書店の中に漂う、少し古びた紙の匂い。
その匂いが、まるで時間を遡るような感覚を与えてくれるのだ。
手に取った一冊の本が、その時代の空気を運んできて、ページを開いた瞬間に新しい物語が始まる。
そんな体験が、俺には何よりも大切だった。
「今日はどれにしようかな」
そう呟きながら、ふと視線を棚の奥に送った。
目を引いたのは、古書のコーナーに置かれた一冊だった。
どこか懐かしい雰囲気の漂う表紙に、俺は無意識に手を伸ばす。
本を選ぶというのは、ただ物理的に手に取る行為ではない。
俺にとって、それは心が求めるものに触れることだ。
過去の自分に何かを問いかけ、未来の自分に答えを見つけるような、そんな感覚だ。
俺はその一冊を手に取った。
インクの香りもどこか懐かしい。
パラパラと数頁捲ってみると、海外の詩集のようだった。
頁の装丁が、薄っすらと剥げかかっているのも、また風合いが良いと感じた。
俺はふと気になり、財布の中を覗いてみた。
忘れていた。
先日、高校で必要なテキスト代を払ったのだ。
かなり高額なことに、少し頭に来ていたのだが、喉元をすぎればという言葉通り、すっかり忘れていたのだ。
一瞬、取り置きをしてもらうかと頭をよぎったが、今日のところは棚に戻すことにした。
縁があれば、また手元に来ることもあるだろう。
本との巡り合いとはそういうものだ。
俺は軽くため息をつくと、それでもできるだけ目立たないところに、と本を奥に隠すようにして書店を出た。
♢
翌日は昨日より少し早い時間に書店へ足を運んだ。
昨日手に取った本がやはり欲しくなったのだ。
手に馴染む、あの装丁を思い出して、足取りが自然と軽くなる。
やはり、本はいい。
いつも違う世界へと俺を誘ってくれる。
書店へ到着すると、迷いなく古書のコーナーへと足を向けた。
だが、異変に気づいた。
コーナーの前に、女子高生が佇んでいる。
それは見覚えのある姿だった。
美咲、と呼ばれているのを、俺は知っている。
同じクラスだが、何となく派手なグループにいる美咲とは、挨拶すらまともにしたことがなかった。
嫌だな、と直感的に思った。
俺は、中学の時いじめに遭っていた。
大人しく、決して賢くはない俺は、運動神経もあまり良くなく、派手目なグループのいじめの対象としては、格好の餌食だった。
それもあって、俺は派手なグループに所属する子を、男女問わず避けてきた。
挨拶を交わすこともなく、ただ淡々と、「俺は関係ない」というスタンスを徹底的に貫いてきた。
それなのに、なぜ。
俺はハッとして彼女の手元を見た。
その手には、昨日気になったあの詩集が、馴染むように寄り添っていた。
声をかけようとして、思わず躊躇う。
だが、最悪なことに、彼女は俺が何か言いたげにしていることに気がついてしまった。
「何」
尖った目で俺を見やると、ぶっきらぼうな声で彼女は言った。
「その……詩集……」
美咲はハッとした表情になると、手に持っていた詩集を後ろ手に隠した。
「……読まないんなら……俺が昨日見つけて、買おうと思ってたんだよね」
思い切って、一気に吐き出した。
美咲にその詩集は似合わない、と素直に思った。
それは、渡るべき人の手に渡って読まれるべきなんだ。
美咲は苦虫を噛み潰したような顔をすると、ムキになった口調で言い返してきた。
「読むわよ!読むから買うんでしょう?好きなのよ!」
言い返してくると思っていなかった俺は、面食らってしまったけれど、彼女の意外な一面を見た、と思った。
「……読むの?」
「読むわよ。好きなのよ、詩集!何か文句あるの?」
しかし、俺はここで冷静になった。
借りればいいのだ。
陽キャの塊のような、こんな女子に本を借りるなんて……とも頭をよぎったが、気になる本への興味には勝てなかった。
「その……さ。読んだら、それ、一回貸してくれない?」
勇気のいる一言だった。
渾身の力を込めた。
美咲の表情が一気に崩れた。
馬鹿にされるのだろう、と俺は拳をぎゅっと握りしめた。
「……いいわよ」
耳を疑った。
だが、美咲はもう一度繰り返した。
「いいわよ。読んだら貸す。本って、読みたい人が読む、運命のものだから」
見上げると、美咲は柔らかく微笑んでいた。
「そもそも、最初はあんたの手元に来たものだし、そういう運命なんでしょ」
俺はその時、初めて美咲の顔をよく見た。
派手な化粧の奥に、思いがけない素顔を垣間見た気がした。
♢
「……橘ってさ、その、よく本屋には来るの?」
恐る恐る聞いた俺に、美咲は意外なほど優しい声で答えた。
「そうね、本は好きなの。柄じゃないから、誰にも言ってないけど」
確かに、さっきの台詞を聞くまでは、本は似つかわしくないと思っていた。
今でも若干疑っている。
だが、彼女の「運命」という言葉に、どこか惹かれるものがあった。
「……実はね」
美咲は少し呼吸を開けて言った。
「少しだけど……ほんの少しなんだけど、詩とか小説とか、書くの、私」
「詩とか、小説?」
俺は思わず前のめりになった。
想像していなかった答えに、脳が追いついていないのだ。
「うん。ノートにこっそり書いてるだけ。まだ誰にも見せたことないけど」
その横顔は、今までのどこか攻撃的な印象とは違っていた。
静かで、少し寂し気で、けれど芯が強いような――そんな風に見えた。
「……意外だな。意外すぎる」
「そういうの、みんな言うのよ。”意外”とか、”似合わない”とか。だから誰にも言ってないの」
その声には、ほんの少し棘があった。
でも、それはすぐに消えた。
「でも、なんで俺に」
「……あんたなら、笑わない気がして」
俺は返す言葉を探しながら、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……うん、笑わないよ。むしろ、ちょっと読んでみたいかなって思った」
美咲は目を丸くして俺を見つめた。
俺自信、驚いていた。
こんな言葉が自分の口から出てくるなんて。
でも、それは嘘じゃなかった。
本当に読んでみたいと思ったのだ。
美咲がどんな世界を綴るのか、知りたくなっていた。
♢
翌日、書店の向かいにあるカフェで、俺と美咲は待ち合わせをしていた。
カフェに来ること自体稀だったし、かなり緊張していた。
放課後のざわめきが少しだけ残る街の中で、ここだけ時間がゆるやかに流れているように感じる。
それでも、俺は緊張していた。
俺は本は大好きだ。
だが、知り合いの綴った物語を見るのは初めてだったからだ。
俺が先に席に着いていると、美咲は数分遅れてやって来た。
制服の上に薄手のカーディガンを羽織っていて、昨日のような派手さは、幾分か抑えられているような気がした。
「ごめん、待った?」
そう言いながら美咲は、向かいの席に座ると、バッグから一冊のノートを取り出した。
見た目はごく普通のキャンパスノート。
でも、彼女にとってそれは、すごく大切なものなんだと思った。
彼女は少しだけ深呼吸すると、俺の前にそれをそっと置いた。
「……恥ずかしいから、絶対に声に出して読まないでね」
美咲は冗談っぽく笑ったが、その表情はどこか不安げにも見えた。
俺は頷き、ノートをそっと手に取った。
表紙には何も書かれていない。
ただ、それだけが、返って静かな覚悟を物語っているようで、俺は自然と背筋を伸ばした。
ページを捲る。
そこには、彼女の言葉が、まるでこっそりと話しかけるように並んでいた。
手書きの文字が、思ったよりも丁寧に整えられていた。
少しだけ丸みを帯びているが、美しい文字。
それは俺の知っている美咲のイメージ――教室の端で大声で笑っている、あの感じとはまるで違った。
『水面に映る月を、私はいつも本物より信じた』――
詩のような短い散文が、ぽつりぽつりと形を作っていく。
水に映る月――
それは、掴めないけれど、確かにそこにあるもの。
不意に、胸の奥がチクリとした。
その行間にあるものが、何故か自分の中にある何かと重なった気がして。
「……すごいな」
俺は思わず声を漏らしていた。
美咲は、少し身を竦めるようにして俺の顔を伺った。
「……変じゃない?」
「全然。むしろ、びっくりした」
彼女は口の端をほんの少しだけ緩めた。
嬉しいけれど、嬉しいと素直に言うのは照れくさい、そんな表情だった。
「いつから書いてたの?」
「中学の時から。……ちょっと色々あって、誰にも見せてなかったけどね」
”色々”。
その言葉の奥にあるものが引っかかった。
確かに彼女にも、俺と同じ様に「逃げたいもの」があったのだと感じた。
だが、今はそれを聞き返さなかった。
「……何か、俺、本を読むのが好きでよかったって思った」
「え?」
「こういうの、読ませてもらったから。読めて、よかった」
美咲は僅かに瞬きをして、それからカフェの外へと視線をやった。
夕暮れが、じわじわと空の端から色を変えていく。
「……じゃあ、また書いたら、読んでくれる?」
その言葉は、まるでページの白い余白にそっと書き足されるように、静かだった。
「うん、読むよ。……というか、読ませて」
そう答えた瞬間、美咲の頬がほんの少しだけ赤く染まった。
それはきっと、夕陽のせいじゃなかった。
♢
その日を境に、俺たちは時々、放課後に会うようになった。
約束の場はいつも決まって、書店の向かいのあのカフェ。
大きな窓から見える街の風景と、淹れたてのコーヒーの香りが、二人の間の沈黙をそっと包んでくれた。
「今日もちょっとだけ書いたの」
そう言って、美咲は少し照れたようにノートを差し出した。
それを丁寧に受け取ると、ページの端に小さく書かれた日付と、数行の短い文章が目に入った。
『雨の音を聞いていると、心が透明になる。でも本当は、何かが沈んでいく音なのかもしれない。』
――沈んでいく音。
その言葉に、どこか胸が詰まった。
「ねぇ、どうして美咲は、そんな風に言葉を選べるの?」
思わず口にしてから、少しだけ後悔した。
彼女の中にある、触れてはいけない静けさに踏み込んでしまったような気がして。
けれど、美咲はノートを見つめながら、ポツリと呟いた。
「……音がない時って、怖いからかも。頭の中に声だけが響いて……それが一番、うるさいから」
俺は言葉を返せなかった。
その静かな告白のような言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでいくのを感じた。
美咲は言葉を続けた。
「……私ね、親とあんまりうまくいってないの」
その言葉に、息を呑んだ。
「過干渉っていうか……でも肝心なご飯の支度みたいなこととか、全然してくれなくてね。毒親っていうんでしょ、今流行ってる言葉だと」
俺はその告白に、胸の奥がひりつくような感覚を覚えた。
美咲の声は穏やかだったけれど、それが返って彼女の痛みを浮き彫りにしていた。
「……そうなんだ」
やっと出た言葉は、慰めにもならないほど陳腐なものだった。
それしか言えなかった。
「ごめんね、変な話して」
美咲はわざと明るく笑おうとした。
でも、その笑顔は少しだけ歪んでいた。
「……ううん。話してくれて、ありがとう」
俺は真っ直ぐに美咲を見つめて、そう言った。
それだけは伝えたかった。
「でもね、だからこそ、本があると助かるの。本の世界に逃げ込めるから」
「……わかるよ。俺もそうだった」
思わず口をついて出た言葉に、美咲は少し目を見開いた。
「俺、小学校の時……中学校でも少しだけど、いじめられてたんだ」
照明の温かな灯りの下で、俺は信じられないほど自然に話していた。
「だから、学校っていう場所が怖くて。逃げ場を探して、気がついたら、図書室とか書店とか、そういう場所にばっかりいるようになった」
美咲は何も言わず、ただ黙って俺の顔を見つめていた。
「本の世界の人たちは、
俺のことを否定しなかった。そこだけが、俺の居場所だった」
その時、美咲がそっと手を差し出した。
テーブルのノートの上に伸ばされたその手は、微かに震えていた。
俺もゆっくりと手を伸ばし、彼女の指先に触れた。
言葉じゃない何かが、あの瞬間、確かに交わった気がした。
「……なんかさ」
美咲がそっと呟いた。
「本を読むと、自分の中の何かが、少しだけ報われる気がするんだよね。誰にも理解されないって思っていた言葉が、そこにはちゃんとあるから」
「……うん。俺もそう思う」
それは、誰にも言ったことがない本当の気持ちだった。
しばらくして、美咲がふと視線を外しながら言った。
「……この詩、明日も読んでくれる?」
「もちろん」
明日という言葉が、こんなにも温かく響いたのは、きっと初めてだった。
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