陽だまりの匂いを吸い込んで
ふとした瞬間に、鼻先をくすぐるようなやさしい匂いがある。
それは決して強くはない。だけど、確実に心の奥に触れてくる。
猫の匂いだ。
日向ぼっこを終えたばかりの、ふわふわに温まった毛並みに顔をうずめたときの、あのふんわりしたぬくもりと香り。
なんでこんなにも、ほっとするんだろう。
この匂いを嗅ぐだけで、胸のあたりがすっと軽くなる気がする。
肩に乗っていたはずの見えない重みが、そっとほどけて、どこかへ飛んでいく。
猫の匂いに、心をほどかれる理由には、きちんとした「脳のしくみ」があるらしい。
人間の嗅覚は、他の感覚とちがって、脳の中でもとりわけ原始的な領域とつながっているという。
においを感じとる嗅球は、感情を司る「扁桃体」や、記憶の貯蔵庫である「海馬」と直結している。
つまり匂いというのは、五感の中で最もストレートに、私たちの“心そのもの”に届く感覚なのだ。
たとえば、誰かの使っていた香水の匂いで過去の恋を思い出すように。
風にまじった土の匂いで、遠い夏の日の夕立を思い出すように。
匂いは、思い出や感情と深く結びつき、無意識のうちに私たちの記憶を呼び覚ます。
猫の匂いはどうだろう。
それは、日常のなかで繰り返されてきた、静かな幸福の象徴かもしれない。
やわらかな毛をなでた手の感触。
午後の光がカーテン越しに差し込む部屋の、静けさ。
小さな寝息の音。
そうしたすべてとともに、猫の匂いは記憶の中にそっとしまわれていく。
だから、今またその匂いを吸い込んだとき、私たちは自然と安心するのだ。
それは、過去の「安心」を無意識のうちに再生してくれる扉のようなもの。
何度でも開いてくれる、やさしい記憶の引き出し。
日向ぼっこを終えたばかりの猫は、ほんのり太陽の匂いがする。
あたたかい毛の中に残るその香りは、まるで干したての布団のよう。
実際、この匂いは皮膚から分泌される脂と日光の熱によってできるものだそうで、人はこれを「清潔」「母性」「安心」といった感情と結びつけて捉えるらしい。
さらには、その香りに触れることで、脳内にオキシトシンという「愛情ホルモン」が分泌されることもあるという。
オキシトシンは、ストレスを和らげ、他者との信頼を深める働きを持つ。
つまり、猫の匂いを嗅ぐこと自体が、私たちの心と体に穏やかな癒しをもたらしてくれる、ひとつの“セラピー”なのだ。
でも、たぶん私たちはそんなことをいちいち考えたりしない。
ただ猫がそばにいて、うとうとしている。
私も隣に座って、そっと顔をうずめてみる。
ふわふわの毛の間から、あの匂いがしてくる。
ああ、今日も大丈夫だな。
そんなふうに、ただ感じるだけ。
言葉も、説明も、証明もいらない。
猫の寝息と匂いだけで、すべてがまるくおさまる。
それはとても静かで、小さな奇跡のようなものだと思う。
猫はいつも、なにげない顔で、世界の真ん中に座っている。
そして私に、何度でも同じ魔法をかけてくれる。
「ここにいていいよ」「今日も、おつかれさま」
それを、匂いで伝えてくれる。
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