【短編小説】雨のあとには【5759文字】
八月の終わり、雲の切れ間から、ようやく光が差していた。
あの雨の日から、一週間と少しが過ぎた。
尚は、いつものように由香里の家を訪れていた。
ミルに会うため、なんていう言い訳は、もう必要なくなっていた。
二人の間には、すでに言葉にはならないほどの時間の積み重ねがあったからだ。
二人が猫のミルと出会ったのは、小雨が降る梅雨の昼下がりだった。
ミルは、小さな箱に入れられて捨てられていた。
ミルの兄弟たちは、もうもらわれていったのかもしれないし、それとも、一匹だけ捨てられてしまったのかもしれない。
ミルは雨に濡れ、寂しそうに鳴いていた。
最初にその鳴き声に気がついたのは、尚の方だった。
通りがかった家の軒先を揺らす小雨の音に混じって、小さな鳴き声が聞こえた。
初めは何の音なのかを認識できなかった。
猫は見かけたことはあったが、近づいたことはない。
母親が動物嫌いだったからだ。
音の正体を追うと、そこには小さな小さな猫がいた。
どうしよう、と尚は思った。
捨て猫であることは一目でわかった。
箱に「もらってください」と一言だけ書かれていたからだ。
放っておけない、と思った。
だが、どうしていいかわからず立ち尽くすしかなかった。
傘の縁からぽたぽたと滴る雨が、アスファルトに水紋を広げていた。
猫は尚の存在に気づくと、頼るような眼差しで見上げた。
まるで何かを言いたそうに。
雨は降り続いていた。
それは、沈黙のような雨だった。
ひとつぶ。またひとつぶ。
屋根に落ちる音が、呼吸のように一定のリズムで世界を包む。
尚はただ、そこにいた。
猫に傘を掲げ、ただこの一瞬だけでも雨を避けれるように、と。
それで精一杯だった。
由香里は、濡れたアスファルトの向こうに、傘を斜めに掲げ立ち尽くす男子高生の姿を見つけた。
雨は糸のように細く、まるで音もないかのように思えた。
その静けさの中に、か細い声が聞こえた。
猫だ、と由香里は思った。
少年の目はどこか遠くを見ているようだったが、確かにこの子猫に向けられていた。
由香里は思った。
この人は優しい。
だけど、どこか不器用な優しさ。
手を伸ばせずにいるその姿が、雨の匂いと混ざって、静かに心に残った。
彼の傍らにだけ、時の流れが緩やかだった。
雨音が彼と猫を包み込み、言葉のない感情だけをゆっくりと浮かび上がらせていた。
――まるで、彼自身が一つの詩の様だった。
ここから先は
¥ 200
この記事が参加している募集
よろしければサポートをお願いします。 生きるための糧とします。 世帯年収が250万以下の生活をしています。 サポートしてもらったらご飯のおかず代にします! お野菜買えるかも・・・ あと、ネコのクーラー代とかにもなるのでよろしくお願いします! 生きていく・・・
