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「対決より解決」という対決──国民民主党、まやかしの脱イデオロギー的プラグマティズム

と、タイトルで言い切ったけど、別に国民民主を批判するつもりではない。
その割に切りまくってはいるが(笑)

先日書いたこのNOTE「なぜ『中立系政治論』は保守論になるのか」に、思いのほか大きな反応をいただいた。

面白かったのは、コメント欄に集まった声が、右からも左からも同じ方向を向いていたことだ。

リベラル寄りの読者からは、
「ニセ中立を元凶の一つとして日本の極右化を追求してきた」
という声や、
「自称・中立のネトウヨだの権威主義みたいな手合いは履いて捨てるほど多い」
という指摘があった。

一方、明確に右寄りの読者からも、「なんちゃってリベラル、なんちゃって保守がおおすぎる」という、ほぼ同じ苛立ちが寄せられている。


普段は決して交わらないはずの二つの立場が、「中立を騙る不誠実さ」という一点でだけは、珍しく一致していた。

そのやり取りの中で、ふと気づいたことがある。

「これ、国民民主党のことじゃないか」


前回書いたのは、「中立」という外形を借りながら、特定の結論へと読者を誘導する言論についてだった。中立とは立場を持たないことではなく、自分の立場を明かした上で、その限界も含めて読者に示すこと。

同じ手口の不誠実さが、実は政党そのものにも当てはまるのではないか。今日はその話をしたい。

2024年の衆院選から2025年春にかけて、国民民主党は確かに「風」を摑んでいた。

「手取りを増やす」「103万円の壁を178万円へ」

──分かりやすいスローガンと、実際に自民・公明との協議で税制改正に反映させたという実績もあって、2025年春の世論調査では支持率が16%前後まで伸び、野党第一党級の勢いを見せた時期があった。

あれから二年。

今の支持率は、各社の調査でだいたい6〜7%あたりを行き来している。野党の中では依然として上位だが、あのときの熱量からすれば、明らかに落ちた。「国民民主、オワコン説」がSNSで囁かれるようになったのも、この数字を見れば無理もない。

なぜ、あの風は続かなかったのか。

私は、この党が自ら掲げてきた「対決より解決」「政策本位」という看板そのものに、失速の理由が埋め込まれていたと思っている。


「脱イデオロギー」は、支持を集めやすく、支持を留めにくい

「対決より解決」「どこと組むかではなく、何を成し遂げるか」──玉木雄一郎代表がずっと使ってきたこのフレーズは、一見、中立で誠実な態度に見える。

だがこれは、典型的な脱イデオロギー的プラグマティズムの語り口だ。

前回のコメント欄で、ある読者が言い当てていた。

「イデオロギーを『リアリズム』と呼び替え、誘導を『中立』と呼び替える手口」

──まさにこれである。実務重視こそが正しいという態度は、それ自体、立派なイデオロギーなのだ。

玉木氏自身、「中道は茨の道だ、右からも左からも批判される」と、自らの立ち位置の苦しさをたびたび語ってきた。
ここまでは、正直でいいんだけどねえ。

問題は、その先。
両側から批判されるという事実そのものを、「だから自分たちは正しい真ん中にいる」という証明にすり替えてしまう瞬間が、この党の言葉には時々あった。

この「無イデオロギー=公正」という自己認識こそが、ブームが去ったあとの脆さの正体だと思っている。


この振る舞いは、政党だけのものではない

話は逸れるが、これは政党だけの現象ではない。

「政治判断にイデオロギーを先行させない」ことを誠実さの証にする有権者は多い。「自分たちの思想のために現実を犠牲にするべきではない」というのは、確かに立派な心構えに聞こえる。
だが、「イデオロギーを先行させない」立場や人物を好意的に評価する一方で、強い理念を持つ側を「イデオロギー的だから」という理由で退ける。

この基準そのものが、実はダブルスタンダードになっていることに、本人が気づいていないことも多い。「無イデオロギーを好む」ということ自体が、既に一つの強い選り好みなのに。

同じ傾向は、インフルエンサーや言論人にも見られる。以前『ゲンロン』人の黄昏と終焉」という記事で書いたが、「私は右でも左でもない」を掲げた論客たちのポジションは、ある人物を除いて軒並みオワコン化した。
中道改革連合の惨敗も、根は同じだ。
「中立」を掲げること自体が一つの強いポジション取りであることに無自覚なまま、両陣営から都合よく消費され、飽きられていく。

政党であれ、個人の言論であれ、この落とし穴から逃れられている例を、私はほとんど見たことがない。


「手取りを増やす」が効いたのは、敵が明確だったから


2025年春のあの熱気を、私はよく覚えている。物価高で生活が苦しいという肌感覚に対して、「壁を178万円に」という具体的な数字を出したことは、確かに効果的だった。

でもこれは、実は「脱イデオロギー」の効果ではない。むしろ逆で、「増税・負担増を続ける古い政治」対「手取りを増やす新しい政治」という、極めて分かりやすい対決の構図を作れたからこそ、支持が伸びたのだと思う。
誰と対決したのかというと、それは与党である自公政権でなく、古巣の立憲民主党との差別化というか対決姿勢だった。榛葉氏共にかつての仲間たちへの敵愾心が極端に強い。

あのブームを支えたのは「対決より解決」という看板ではなく、実際には裏側にあった立民との「対決」そのものだったのだろう。

与党との予算協議を重ね、政策の一部が実現し、他党までもが似たような「壁」の話をし始めると、この党にしかない差分は薄れていく。
「政策本位」を掲げる政党が、いざ自分の存在意義を差別化する段になると、頼れるのは理念ではなく実務的な微調整だけになってしまう。これでは、一度離れた岩盤支持層を作れない。

看板と実態のあいだ


ここからは、もう少し具体的な話をしたい。
「政策本位」を掲げる政党の、その政策と実態のあいだに、私はいくつか気になる隙間を見てきた。

まず、財源の話だ。
減税を訴えるとき、この党は常に「効果」と「速さ」を前面に出す。「早い、安い、うまい」という言い方まで使ったことがあった。

が、178万円までの引き上げが実現すれば数兆円規模の税収減の穴をどう埋めるのか、という議論からは、いつも逃げてきた印象がある。

財源をきちんと提示したうえで減税を語るべきだという批判は、他党からも繰り返し向けられてきた。「批判より提案を」と言いながら、自分たちの提案そのものへの批判には、あまり正面から向き合ってこなかった。

次に、玉木氏自身の不倫問題だ。

2024年11月、衆院選で躍進した直後に報道され、本人は「おおむね事実」と認めて謝罪した。ここまではよくある話だ。だが、代表を辞任することはなく、党内からも辞任を求める声はほとんど上がらなかった。
「政治とカネの問題を終わらせる」「誠実な政治」を掲げる政党の代表としては、ずいぶん身内に甘い。この「身内には甘く、外への看板は厳しく」という非対称は、実はこの後の話にも直結してくる。

前原誠司氏は代表代行の立場にありながら、2023年11月、玉木氏に事前の相談すらないまま離党し、新党を立ち上げた。2025年には、参院選への擁立が一度は内定した山尾志桜里(菅野志桜里)氏が、過去の不倫疑惑の再燃をめぐる党内対応の混乱の末に公認を見送られ、離党届を提出しながら「党の統治能力には深刻な疑問を抱いている」という言葉を残している。

そしてもう一つ、高橋茉莉さんの件がある。この件については、以前「玉木雄一郎と一人の女性の自死」という記事で、斎藤元彦氏をめぐる問題との手口の類似も含めて、すでに詳しく書いた。

「法的に正しい判断」と「人間として誠実な行動」は別のことだという話だ。ここで繰り返すことはしないが、今回のテーマである「対決より解決」という看板とも、地続きの話だと思っている。対決を避ける態度は、時に、守るべき人を守らない冷たさと表裏一体になり得る。

身内の不倫には甘く、公認候補の過去には厳しく。理念を語る代表代行の離党には無防備で、統治能力を問われれば「深刻な疑問」を残されて去られる。
並べてみると、一貫しているのは「政策本位」でも「対決より解決」でもなく、その場その場での都合の良さだけのように見えてくる、というのはさすがに意地が悪い言い方だろうか。


私が思うこと

「対決より解決」という言葉は、悪い言葉ではない。政治の現場で無用な対立を煽るより、実務的に前へ進める胆力は評価されるべきだと思う。

ただ、それを「イデオロギーからの自由」であるかのように語ってしまうと、いずれその欺瞞のツケを払うことになる。国民民主党の二年間は、そのことを図らずも証明してしまったのではないか。

イデオロギーを持つことは、恥ずかしいことではない。むしろ、自分の立場を隠さずに戦う政党の方が、私は信頼できると思う。

問題は、すでに一つの強い立場を選び取っていることに気づかないまま、それを「政策本位」や「解決志向」の名で語り続けることだ。

「対決より解決」という看板そのものが、実は一番したたかな対決の仕掛けだったのかもしれない。皮肉なことに、その仕掛けに一番気づいていなかったのは、当の国民民主党自身だったのだろう。


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