女斎藤か、男高市か?──問題発言をごまかし他人のせいにする政治家がなぜ愛されるのか?
奇妙な光景だ、これが令和スタンダードなのか?
兵庫県の斎藤元彦知事と高市早苗総理大臣──。
職場も立場も性別も異なるこの二人が、驚くほど酷似した行動パターンを見せている気がするのだ。問題発言を繰り返し、批判されると責任を転嫁し、形式論で逃げ切ろうとする。そして不可解なことに、一定数の「熱烈な支持者」が彼らを擁護し続けている。
ほら、同じではないか?
問題①「法的に問題ない」という魔法の呪文
斎藤元彦知事が百条委員会で繰り返したのは「法的に問題はない」という言葉だった。
10件ものパワハラが第三者委員会によって認定され、告発者への対応が「違法」と断じられても、彼は「法的に適切だった」と主張し続けた。道義的責任を問われると
「道義的責任が何かわからない」
と答え、物議を醸した。
高市早苗総理もまた、同じ手法を使う。
政治資金規正法の上限を超える1000万円の献金受領について「政党支部は議員個人とは異なる別の主体であり、そのような政党支部を支持する企業・団体から寄付を受けること自体が不適切であるとは考えていない」と答弁した。
上限を超える献金を受け取っていたことについて、謝罪や説明は一切なかった。
二人に共通するのは、法の文言を都合よく解釈し、それを盾に倫理的責任から逃れようとする姿勢だ。高市は意識的に、斎藤は無意識に。
法律は社会の最低限のルールを定めたものであり、政治家に求められるのはそれを上回る高い倫理観のはずだ。
しかし彼らは「違法でなければ何をしても許される」という態度で開き直る。
問題②すべてを「他人のせい」にする無責任
斎藤知事のパワハラ疑惑は凄まじい。県立考古博物館で約20メートル歩かされたことに激怒し職員を叱責。「空飛ぶクルマ」協定について「聞いてない」「勝手にやるな」と大声で怒鳴り散らす。夜間・休日のチャットで職員を長期間にわたり叱責し続ける。机を叩く音は隣の秘書課にまで響き渡った。
そして究極は公益通報者保護法違反とその後の恣意的な人事、記者会見という一連の流れだろう。
ところが彼の弁解には呆れる。
20メートル歩かされた件では「歩行者用通路が車両通行禁止であると知らされていない当時の認識の下では不適切であると考えたことは誤っていない」と主張。つまり「知らなかった自分は悪くない、教えなかった職員が悪い」というのだ。
件の文書問題についても適法適正適切と"適"を繰り返すばかりだ。
高市総理も同様だ。
企業・団体献金を巡る議論で「そんなことより、ぜひ野田元総理、定数削減やりましょうよ」と発言。野党から「裏金問題の解決よりも、議員定数削減のほうが大切なのか」と追及されると、「優先度合いを示す趣旨ではないことは言うまでもない」と釈明した。
しかしこの発言自体が政治資金問題を軽んじていることは明白だ。優先度合いは明確に高いのだから。
二人の共通点は明白だ。
問題が起きると、必ず他者や状況に責任を転嫁する。自分の非は決して認めない。謝罪せず、反省せず、同じ過ちを繰り返す。
問題③岡田克也のせいにした台湾有事発言
高市総理の責任転嫁で最も悪質なのが、「台湾有事が存立危機事態になり得る」という重大発言を、質問した岡田克也議員のせいにしようとする動きだ。
11月7日の衆院予算委員会で、高市総理は「戦艦を使って、武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になりうるケース」と答弁した。
これは歴代政権が慎重に避けてきた明言であり、中国外務省は即座に反発。在大阪の中国総領事がSNSで高市氏に対し「汚い首を一瞬の躊躇もなく斬ってやるしかない」という過激な投稿をするなど、日中関係は急速に悪化した。
ところが、この発言を引き出す質問をした岡田克也議員に対し、「しつこく聞いた岡田氏が悪い」という批判が一部から出始めた。
SNSでは「質問者が悪い」「岡田が国益を損ねた」といった声が広がり、まるで総理の不用意な発言を質問者のせいにする異様な展開となった。
岡田氏自身は「全く不用意な発言であり、私自身びっくりした」と述べ、自分は歴代政権の見解を確認しようとしただけだったと説明している。実際、岡田氏は高市総理が「まずい」発言をした瞬間、すぐに話題を変えたという。それでも一部では「岡田が引き出した」という責任転嫁の論理が広がった。
これは究極の責任回避だ。自分が不用意な発言をしておきながら、それを質問した野党議員のせいにする。国会での質疑は民主主義の根幹であり、総理は自らの言葉に責任を持つべきだ。ところが高市総理は発言を撤回せず、むしろ質問者への批判を黙認することで、自己の責任から逃げようとした。
問題④いい加減な「鹿発言」──根拠なき外国人ヘイト
高市総理のいい加減さを象徴するのが、総裁選での「奈良の鹿」発言だ。9月22日の所見発表演説会で、高市氏はこう述べた。
「奈良の鹿をですよ。足で蹴り上げるとんでもない人がいます。殴って怖がらせる人がいます。
外国から観光に来て、日本人が大切にしているものをわざと痛めつけようとする人がいるんだとすれば、皆さん、何かが行き過ぎている」
ところが、この発言には明確な根拠がなかった。
奈良県の担当部署は東京新聞の取材に対し、SNSで拡散された鹿への暴行動画について「動画の人物が誰か、外国人であるかどうかは特定されていない」と回答。
さらに「毎日2回、公園を巡回をしているが、観光客による殴る蹴るといった暴力行為は日常的に確認されておらず、通報もない」と、暴行行為が頻発しているとの見方を否定した。
記者クラブの共同会見で根拠を問われた高市氏は、「こうしたものが流布されているということによる私たちの不安感、そして怒り、というものがある。これはたしかだ」と述べるにとどまり、具体的な根拠は示せなかった。「自分なりに調べた」とするが、奈良県の担当部署への問い合わせすらしていなかったという。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3d7a78edb1ad57728192987025d17d866b7ae2e9
つまり、SNSで拡散された出所不明の動画を見て、それが外国人の仕業だと決めつけ、総裁選という公の場で外国人への偏見を煽る発言をしたのだ。
しかも後から根拠を問われても、「流布されているから不安だ」という感情論でごまかした。
奈良公園の近くに住む男性は「外国人のシカへの暴行は見たことがない。演説で持ち出さなくてよかったのでは」と語った。
地元の実態も確認せず、根拠のない外国人批判を行う──。
これが総理大臣の姿勢なのだ。
ちなみにこの件、後に自分も注意した経験があると言い換えた。前言撤回することもなく他聞説を火消しに入ったといういい加減さには呆れる。
問題⑤告発者への冷酷な仕打ち
斎藤知事の対応で最も許しがたいのは、告発者への扱いだ。
2024年3月、当時の西播磨県民局長がパワハラや公金使途の疑惑を告発文書で指摘した。ところが県は、内容を調査するのではなく「誰が書いたか」の犯人探しに血道を上げた。告発者を特定し、停職3カ月の懲戒処分にした。この元局長は同年7月、56歳で亡くなった。
第三者委員会は、この県の対応を「違法」と断じた。公益通報者保護法に明確に違反する行為だった。にもかかわらず斎藤知事は記者会見で、亡くなった元局長について「公務員失格」「噓八百」と発言。第三者委員会はこの記者会見での発言も「パワハラにあたる」と認定した。死者を冒涜し、自己保身のために告発者を徹底的に貶める姿勢を見せたのだ。
高市総理もまた、斎藤知事ほどではないが批判者への攻撃性が目立つ。「政治とカネ」の問題を追及されると「そんなことより」と論点をすり替え、質問者を軽視する。台湾有事発言では、質問した岡田議員への批判を黙認した。裏金問題という民主主義の根幹を揺るがす問題を「そんなこと」と呼び、外交問題を引き起こした発言は質問者のせいにする。
どちらかというと”逆ギレ”にちかい
二人に共通するのは、自分を批判する者への冷酷さ、ないし、嫌悪感だ。
告発者を守るどころか、攻撃し、貶め、潰そうとする。民主主義に不可欠な内部告発や批判的言論を、敵視している。
問題⑥異常な承認欲求と自己顕示欲
斎藤知事には、もう一つ特徴的な問題がある。第三者委員会の報告書が指摘した「顔写真使用やメディア露出にこだわる強い承認欲求」だ。県の広報物に自分の顔写真を使うことに異常にこだわり、SNSでの自己アピールを重視した。選挙前にはPR会社に高額な報酬を支払い、SNSでの露出を増やしていた疑いも浮上している。
高市総理にも似た傾向が見られる。
奈良の鹿発言は、保守層へのアピールだったことを自ら認めている。「議員たちはわからないけど、保守的な支持層に響いたはずだ」と周囲に語ったという。
二人に共通するのは、実質よりも見た目、中身よりもイメージを重視する姿勢だ。県政や国政の実務よりも、自分がどう見られるかに執着する。それは真のリーダーシップとは程遠い。
なぜ彼らは「愛される」のか──SNS時代の病理
ここで最大の疑問に行き着く。これほどの問題を抱えた二人が、なぜ一定数の熱烈な支持者を獲得しているのか。
斎藤知事の支持者はSNS上で「#斎藤知事がんばれ」のハッシュタグを拡散し、批判するメディアを攻撃する。高市総理の「存立危機事態」発言についても、世論調査で「是認できる」という人が5割いたことが報じられている。鹿発言も、SNSでは「よくぞ言ってくれた」と称賛された。
この現象は、現代の政治とSNSの歪んだ関係を象徴している。
「敵」の存在が支持を生む。
斎藤知事の支持者は「改革派の知事vs利権を守る旧勢力」という構図を信じている。彼らは「利権を守りたい前知事派と改革を進める知事との政争が背景にある」とみなし、「そのことをマスコミが報じない」と主張する。
高市総理の支持者も「保守派vs左翼メディア」という対立軸で世界を見る。立憲民主党の山尾志桜里元議員は、岡田克也氏がネットの影響を懸念していることに対し、「今回はむしろ速やかにネットを通じて、基本的な知識や分かりやすい解説を入手できたことが、各自自分の頭で判断するのに相当役立った」と分析している。
「一次情報信仰」が批判的思考を奪う。
「マスコミは信じない。Xの一次情報を信じる」という支持者の声が報じられている。しかし彼らが「一次情報」と呼ぶものの多くは、実は加工され、文脈を切り取られた情報だ。第三者委員会の報告書のような真の一次情報は読まず、SNSで拡散される断片的な情報を鵜呑みにする。
「強者への同一化」が無責任を正当化する。
批判にさらされても動じない、謝罪しない、反省しない──そんな姿を「強さ」と勘違いする層が存在する。彼らは、弱者に冷酷で、批判者を攻撃する政治家に自分を重ね、代理満足を得ている。
民主主義を破壊する「無責任の連鎖」
斎藤元彦と高市早苗──。この二人が体現しているのは、現代日本の政治の病理だ。
問題発言をしても謝らない。責任を取らない。すべてを他人のせいにする。告発者を攻撃する。法の抜け穴を探して自己正当化する。そして驚くべきことに、こうした態度が一定数の支持者に「強さ」として映り、擁護される。
これは民主主義にとって深刻な危機だ。民主主義は、権力者が自らの行動に責任を持ち、間違いを認め、修正することで成り立つ。説明責任、透明性、公正さ──これらの価値を否定する政治家が支持される社会は、もはや健全な民主主義とは言えない。
斎藤知事は第三者委員会と百条委員会の報告書を「議会の一つの見解」「大変重く受け止める」と述べながら、自身の対応は「適切だった」という従来の主張を曲げなかった。報告書の指摘に対して「可能性ということは他の可能性もあるということ」と幼稚な屁理屈をこねる始末だ。
高市総理も同様だ。「そんなことより」発言を釈明しながら、実質的には政治資金問題から目をそらし続けている。台湾有事発言は撤回せず、質問者への批判を黙認した。鹿発言は根拠が示せないまま放置した。
女斎藤か、男高市か──。性別は違えど、彼らの本質は同じだ。そして彼らを支持する人々もまた、無責任の連鎖に加担している。問題を直視せず、批判を攻撃と受け取り、「敵」を作り出すことで思考停止する。
私たちは今、選択を迫られている。無責任な政治家を許容し続けるのか、それとも説明責任を果たすリーダーを求めるのか。SNS上の「応援」や「バッシング」に流されるのではなく、冷静に事実を見極め、判断する力が求められている。
告発者が命を落とし、民主主義の基本ルールが軽視され、問題発言が野放しにされる──そんな社会を、私たちは子どもたちに残すわけにはいかない。
#高市早苗 #斎藤元彦 #兵庫県知事 #パワハラ #政治とカネ #説明責任 #台湾有事 #百条委員会 #自民党 #政治批評 #政治 #時事問題 #社会問題 #コラム #批評
