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ゆきゆきて神軍──右と左、保守とリベラルの境界線を完全無力化する傑作

この映画を初めて観たのは、40年近く前になる。

大学を卒業して就職し、初めての一人暮らし、しかも大阪市内の下町で、正義感とモラトリアムの狭間でもがき苦しんでいた頃だ。夏の暑い日、梅田のヴェリテだったか、記憶はあいまいだ。あのときは、ただ言葉に詰まっただけだった。奥崎謙三という男に、共感なんて一ミリもできなかった。こんな狂った老人が本当にいるのか、と席で2時間固まったまま、そそくさと記憶の奥に押し込んだ。

数年前、U-NEXTでこの映画と再会した。今度は、恐ろしいほどしっくり来た。そして、しっくり来てしまったこと自体が、いちばん怖かった。40年前には撥ね返されたはずのものが、そのまま今の私の問題意識に流れ込んでくる。

なぜだ、としばらく考えて、間の抜けた答えに行き当たった。
──画面のなかで元上官を殴り倒している、あの奥崎の歳に、私はようやく追いついていたのだ。撮影当時の彼は61歳。いまの私と、そう変わらない。

令和のこの清潔な時代に、あの泥まみれの狂気を還暦過ぎの目でもう一度喰らったら、胃の底に黒い鉛でも流し込まれたような違和感が、今はなぜだか心地よいし、激しく感情移入してしまう。若い頃は「わからない」で済ませられた。今は「わかってしまう」。その差が、こんなにも大きいのか。

『ゆきゆきて、神軍』。1987年公開。
太平洋戦争のニューギニア戦線を生き延びた奥崎謙三が、終戦直後に起きた部下射殺事件の真相を暴くため、元上官の家に片っ端から突撃していく。ただそれだけの122分だ。

「日本映画史の傑作」なんて言葉でまとめたくない。額縁に入れて美術館の壁に飾った瞬間、この映画の価値は下がる。いや価値など何の意味もない。これは、ネットを開けば右だ左だ保守だリベラルだと安全な塹壕からポジショントークを撃ち合っている私たちを、その穴から引きずり出し、横っ面を張り倒してくる代物だ。

戦後80年。なぜいまさら、この化け物みたいな映画を観る必要があるのか。私のなかで音を立てて崩れたものが、まだ床に散らばったままだ。

右も左も、この男の前では符丁にすぎない

奥崎のやっていることは、字面だけ拾えばリベラルのど真ん中に見える。昭和天皇の戦争責任を名指しで叫び、国家という無責任のかたまりを告発する。ところが同じ口と同じ足で、彼はニューギニアで飢え死にした戦友を誰よりも深く悼み、その霊を弔うために残りの人生を全部くべていく。
愛国と反国家が、一人の男の内側で矛盾なく同居している。

今はこの感覚こそが、いちばん誠実な人間の姿だと思う。
右か左か。保守かリベラルか。そんな薄っぺらいラベルは、奥崎の前で一枚残らず剥がれ落ちる。彼にあるのは思想じゃない。死んだ戦友への義理と、嘘を許せない体質、それだけだ。

では、いまのこの国はどうだ。
高市早苗の登場で空気は気分としての右へ右へと傾き、タイムラインは「愛国か反日か」の二択に痩せ細った。誰もが所属する陣営の旗を振り、旗の色が違うというだけで相手を人間扱いしなくなる。40年前の私が奥崎に貼ろうとした「わからない狂人」というレッテル──あれと寸分違わぬ雑さで、私たちは今日も他人を裁いている。

奥崎はそのすべてを、61歳の肉体ひとつで無効化してみせた。
右も左もない。強いて言えば右も左も同じ。あるのは、腹の底から湧く怒りを隠そうともせず、行動に移す度胸だけだ。だからこの映画は、いま観ると凄まじく沁みる。分断に疲れ切った目に、あの一途さは、いっそ美しくすら映る。

ネットの「正義」には、体を張る覚悟がない

いまは誰でも、スマホ一台で正義の味方になれる。他人の不祥事を見つけては名前を割り出し、匿名の安全地帯から寄ってたかって石を投げる。祭りのように。翌朝には、自分が昨夜誰を潰したかも覚えていない。

昔の私なら、奥崎の暴力を「ネット私刑と同じだ」と裁こうとしていたことだろう。
今はまるで逆に見える。
奥崎は匿名では殴らない。顔と名前と前科を全部さらし、相手の家の玄関を自分の足で叩き、殴り返される覚悟で殴る。真実を吐かせるためなら、最後は刑務所に12年入ることまで引き受ける。あの男の「正義」には、いつも命の担保がついていた。

ひるがえって、私たちの正義には何が懸かっている。何も懸かっていない。リスクゼロで人を断罪し、飽きたら次の獲物へ移る。奥崎が見たら、鼻で笑うどころか、本気で殴りに来るだろう。
「お前のそれは正義ごっこだ」と。

そして情けないことに、その正義ごっこの列に、私自身も何度も並んできた。こうしてNOTEで物書きの真似事を始めた今も、指先ひとつで誰かを裁ける手軽さに、時々うっとりしている自分がいるかもしれない。奥崎の拳は、その手軽さを真っ向から否定する。
だから怖い。だからこそ、正しい。

追いつめられる元兵士は、みんな優しいおじいちゃんだった

この国を本当に動かしているのは、法律でもルールでもなく「空気」だ。炎上が怖いから言いたいことは呑み込み、多数派の波にまぎれて、みんなで善人の顔をして暮らしている。

映画のなかで奥崎に追いつめられていく元兵士たちは、驚くほど穏やかな、どこにでもいるおじいちゃんたちだ。彼らはのらりくらりと核心をかわす。

「あの時は仕方がなかった」「昔のことだからよく覚えていない」
「命令だったから」「悪人は一人もいなかったよ」
「周りに流されて生きてきた」

私たちと地続きの普通の人間だ。そしてこれがあの戦争の実態だ。
その普通の人間たちが、極限では飢えて人肉に手を出し、「白豚」「黒豚」と呼び分け、終戦後には逃げようとした仲間を私刑で撃ち殺し、戦後はその全部を「みんなで黙る」という湿った合意で覆い隠した。

この「みんなで黙る」を、私はここ数年、嫌というほど間近で見てきた。

兵庫県庁で何が起きたか。内部告発をした人間が追いつめられ、命を絶ち、それでも組織は口をつぐんだ。斎藤元彦をめぐる一連の騒動で私がいちばん寒気を覚えたのは、知事本人の言動よりも、批判者を黙らせるために刑事告発というカードを次々に切って回る、あの手つきの冷たさだった。声を上げた者を疲弊させ、孤立させ、いずれ世間が飽きるのを待つ。奥崎が殴り倒した元上官たちと、やっていることの根はまったく同じだ。ただ、拳が書類に変わっただけだ。

奥崎はその沈黙を、言葉ではなく剥き出しの拳でこじ開けていく。
彼が引きずり出したのは、特定の犯罪者ではない。
集団になれば呆気なく狂気に染まり、平時に戻れば何事もなかった顔で「優しい隣人」に戻れる──私たち日本人という生き物の、底なしの薄気味悪さだ。
40年経って、私はようやくこの一点で奥崎と握手できる気がしている。
空気に殺されるのだけは、まっぴらごめんだ。

歴史を脱臭するな

戦後80年。実際に戦争をくぐった人は、もうほとんど残っていない。いま私たちが触れる戦争は、教科書の活字か、綺麗にデジタル修復された白黒映像か、あるいは「日本は悪かった」「日本には誇りがある」と、自分の陣営に都合よく脱臭され尽くしたデータばかりだ。

私事を挟む。私の祖父はふたりとも、あの戦争で死んでいる。ひとりはマレー半島で撃たれ、ひとりは北朝鮮で飢え死んだ。顔も知らない。骨も戻っていない。だから私にとって戦争は、はじめから「臭い」のする話だ。

大学で学んだことは、主観と客観の危うい均衡の上にしか、まともなジャーナリズムは立たない、ということだ。
事実に踏みとどまりながら、それでも怒りを手放さない。
ポピュリズムの海に流されない。
──その細い一本道を、奥崎は理屈ではなく全身で歩いていた。彼は誰よりも主観的で、同時に誰よりも事実に執着していた。私が40年かけてようやく頭で理解したことを、あの男は最初から体で知っていたのだ。

台湾有事だ、抑止力だと勇ましい言葉が宙を飛び、AIがでっち上げた嘘の映像が本物の顔をして拡散していく。世界のあちこちで、また不穏な足音が地鳴りのように近づいている。こういう時代だからこそ、戦争を「過去のエンタメ」や「イデオロギーの道具」として消費している場合ではない。

この映画に残る飢えと保身とエゴと血の臭いは、どんな威勢のいいスローガンよりも雄弁に、戦争が人間をどこまで汚すかを突きつけてくる。

それでも、覚悟のある物好きだけ観ればいい

これは週末の夜にポップコーン片手に流す種類の映画ではない。観終わったあと、しばらくは人間そのものが少し嫌いになるかもしれない。また、ますます抑制的になるかもしれない。見なかったことにするかもしれない。
40年前の私はそうだった。ところが今は違う。観終わったあとに残るのは、絶望ではなく、奇妙な爽快感だ。

考えてみれば、奥崎謙三は最高にロックだった。組織に属さず、群れず、たった一人で天皇制という最大の権威に喧嘩を売り、パチンコ玉を撃ち込む。忖度も配信数も気にしない。私のCD棚に詰まった反抗と衝動、その同じ熱量が、あの痩せた老人の拳には宿っていた。ロックとは態度のことだ、と誰かが言った。奥崎ほどその言葉を体現した人間を、私は他に知らない。

奥崎は2005年に死んだ。
こんな怪物を吐き出すエネルギーは、たぶんもう、この行儀のいい社会には残っていない。誰もが旗の色で群れ、批判者を指先で黙らせ、都合の悪い記憶は脱臭して忘れる。奥崎のいない世界は、こんなにも息苦しい。

40年前、私は奥崎を「わからない狂人」として棚に上げたが、今はもう、上げられない。彼が拳で殴っていたものの正体が、はっきり見えてしまったからだ。それは、私自身の事なかれ主義であり、この国全体を覆う生温い空気そのものだった。

これは過去の記録じゃない。
右も左も関係なく、いまを生きる私の足元でまだ小さく燻り続けている、不発弾のようなものだ。

そして情けないことに、その一発を喰らった当の私は、いまこうして感想を小綺麗な文章にまとめたりしている。
奥崎に見つかったら、真っ先にブン殴られるのは私だろう。
──それでも私は、この映画をあなたたちに観てほしいと、本気で思っている。


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