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斎藤元彦「知事参拝」か「私的参拝」か──存在しない憲法188条で排除された日

ほんの小さな出来事に、常にこの件の本質が滲む。
これが斎藤元彦の一連の問題の”根深さ”なのだ。

神社境内で何が起きたのか

2026年1月4日午後2時、神戸市中央区の四宮神社。
新年早々、兵庫県政の歪みを象徴するような事案が起きた。

私は不真面目なカトリック信者である。
クリスマスミサや法事の時だけ教会の世話になり、普段はほとんど顔を出さない。それでも神父様はいつも暖かく迎えてくれる。「お久しぶりですね」と笑顔で。宗教施設とは本来、そういう場所ではないのか。訪れる者の思想や立場を問わず、すべてに開かれた場所。

四宮神社で起きたことは、その対極にあった。

斎藤元彦知事による参拝と、それに伴うジャーナリストへの「排除」。
一見、神社境内での小競り合いに見えるこの騒動には、現代日本が守るべき「政教分離」「法の支配」「報道の自由」という民主主義の根幹を揺るがす重大な法的問題が凝縮されている。

アナウンサー・Youtuberの子守康範氏が、元西播磨県民局長の件について知事に謝罪の意思を問うために現地を訪れた。しかしそこで待っていたのは、神職による激昂、支持者たちによる包囲、そして「存在しない憲法」を根拠とした排除だった。


「知事参拝」の掲示が示す、政教分離への疑義

斎藤知事は現場で、撮影を試みるメディアに対し「プライベートな参拝だ」と主張した。

しかし、神社側が掲げた掲示にははっきりと「1月4日 午後2時頃 兵庫県知事 参拝」の文字があった。この写真はX(旧Twitter)で瞬く間に拡散され、知事の「プライベート」発言との矛盾を浮き彫りにした。


憲法が禁じる「宗教的活動」の境界線

日本国憲法第20条第3項は明確に定めている。

「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」

私的参拝であれば、一市民としての信仰の自由である。しかし、神社側が「知事の参拝」として告知し、それを知事が是認して訪れているのであれば、それは「公人としての活動」に他ならない。

最高裁は昭和52年の「津地鎮祭訴訟」判決で、政教分離違反の判断基準として「目的効果基準」を示した。その行為の目的が宗教的意義を持つか、その効果が特定宗教への援助・助長になるか。

この基準に照らせば、今回の参拝はどうか。
「知事参拝」という告知がなされ、午後2時という特定時刻が明示され、おそらく神社側との事前調整も行われていた。知事という職権を背景にした宗教施設への関与が、実質的な「特権的扱いや便宜」を生んでいないか。

平成9年の「愛媛玉串料訴訟」では、県知事による靖国神社への玉串料奉納が、公費支出がなくとも「職務上の行為」として違憲と判断された前例がある。この境界線の曖昧さは、憲法が定める政教分離の精神を軽視していると言わざるを得ない。

「存在しない憲法188条」による排除という、法の死

騒動の最中、神職が放った言葉がある。

「憲法188条を読め!」

日本国憲法は全103条。
188条など存在しない。

おそらく刑法188条(礼拝所不敬罪)の取り違えであろう。
しかし、仮にそうだとしても、刑法188条は「礼拝を妨害したり、公然と不敬な行為をしたりすること」を禁じるものであり、「権力者に批判的な質問を投げかけること」を禁じる法律では断じてない。

元テレビ朝日法務部長で弁護士の西脇亨輔氏は、自身のYouTubeチャンネルでこの騒動を取り上げ、法的分析を加えている。

「『知事参拝』という告知がある以上、これは公人としての活動。特定の人物を『アンチ』として排除することには法的正当性がない。むしろ、公人の受忍限度を超えた恣意的な取材妨害であり、憲法21条が保障する『報道の自由』の侵害にあたる可能性がある」

存在しない法律、あるいは法の誤用を盾に、特定個人を「アンチ」と決めつけて排除する。この光景は、法治国家日本においてあってはならない「私刑」に近い振る舞いである。

「マダムは良くて、アンチはダメ」という選別の政治学

現場では、知事を支持するマダムたちとの記念撮影には快く応じながら、批判的なジャーナリストには「プライベート」を理由に撮影を拒否するという露骨な選別が行われた。


公人の受忍限度と平等原則

知事は公人である。公共の場所で、しかも「知事参拝」という告知がなされた場において、特定のメディアだけを恣意的に排除することは許されない。

神社は私有地であり、管理権は確かに存在する。「うちの敷地なんだから誰を入れるかは自由だ」という反論もあるだろう。

しかし、「公人の公的活動の場」として機能している以上、そこでの言論統制や取材拒否は、単なる私有財産権の行使では済まされない。
これは憲法21条が保障する「報道の自由」の問題である。

「気に入る者だけを近くに置き、批判する者を法を捻じ曲げてでも遠ざける」──この姿勢は、行政のトップとしての公平性を完全に失っている。

宗教施設が「分断の最前線」になる時

私が法事の時だけ世話になるカトリック教会では、誰も排除されない。洗礼を受けていなくても、ミサに出席しなくても、クリスマスだけ来ても、神父様は笑顔で迎えてくれる。「神の前では皆平等」という原則が、そこには息づいている。

しかし四宮神社で起きたことは何か。
「知事参拝」という公的告知、批判者を「アンチ」として排除、神職による「憲法」を盾にした言論統制。神社という神聖な場が、政治的な敵味方を峻別し、異論を排除する場へと変質してしまった。

戦前の国家神道という影

戦前、神社は国家神道の中核として、天皇制イデオロギーを支える装置だった。政治と宗教が癒着し、異論は「不敬」として排除された。憲法第20条が政教分離を厳格に定めたのは、この歴史への深い反省からである。

宗教施設が再び政治権力の道具となり、特定政治家の「聖域」として機能し始める。この危険な先例を、私たちは看過できない。
一事が万事、こう捉えられても仕方がないほど権力というものは暴走する可能性があるのだ。

「選別統治」が露呈させたもの

斎藤県政のメディア対応には一貫したパターンがある。
知事を称賛する動画には積極的に出演し、マダム層との交流には笑顔で応じ、SNSでの支持者との「直接対話」を重視する。

一方で、批判的な報道には「フェイクニュース」とレッテルを貼り、県政を追及するジャーナリストには取材拒否、議会での野党質問には「誹謗中傷」と反発する。

これは民主主義における権力監視機能の無力化である。
権力者が「味方」と「敵」を峻別し、味方にだけ情報を流し、敵を排除する。この構造は、最終的には県民全体の「知る権利」を奪い、行政の透明性を失わせる。

四宮神社での騒動は、この「選別統治」が、ついに宗教空間にまで侵食し始めたことを示している。

あなたの地域でこれが起きたら

今回の騒動で露呈したのは、斎藤知事を取り巻くコミュニティが、法的根拠に基づかない独自の「ルール」で動いているという危うさである。

存在しない憲法を振りかざし、公私の区別を都合よく使い分け、批判者を「アンチ」として排除し、神社という神聖な場を、政治的分断の最前線に変えてしまった。

この記事を読んでいるあなたに問いたい。あなたの住む地域で、権力者が「味方」だけを集め、「敵」を排除する光景を目にしたら、あなたはどう感じるだろうか。それを「兵庫の躍動」と呼ぶのか、あるいは「分断の加速」と呼ぶのか。

私たちは、一時の熱狂ではなく、あくまで「法」と「論理」に基づいて、このリーダーの資質を問い続けなければならない。

憲法は、権力者のためにあるのではない。憲法は、権力者を縛るためにある。その原則を、私たちは決して忘れてはならない。

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