映画『地球最後の男』~繰り返しリメイクされる伝説的作品
’64年シドニー・サルコウ監督、ビンセント・プライス主演の白黒映画で、日本劇場未公開です。’54年に出版されたリチャード・マシスンの小説 "I am Legend" が原作で、その後’71年に『地球最後の男オメガマン』(チャールトン・ヘストン主演)、’09年に『アイ・アム・レジェンド』(ウィル・スミス主演)として映画化されています。
伝染病の蔓延により、主人公ロバート・モーガン以外の全人類が死滅した世界が舞台。この伝染病の感染者は死んだ後、杭を胸に打ち込んでとどめを刺さないと、日没以降に生き返って徘徊し、生存者を襲います。
生存者がロバートだけになって3年が経ったところから物語が始まるため、生き返った感染者が何のために生存者を襲うのかは描かれていません。多分血を吸うんだと思います。で、吸われた人は、感染するのだと思います。
ちなみに、ロバートは、過去に吸血コウモリに噛まれたことがあり、どうやらそれが原因で免疫を獲得していた様子です(「そうとしか考えられない」というのが、科学者であるロバート自身の見解)。
一人きりになったロバートは、いるかもしれない他の生存者とコンタクトするため、毎日無線で呼びかけていますが、応答はありません。
夜に徘徊する感染者は、昼間は動けずに、屋内でじっとしています。昼間、ロバートは、家を一軒一軒しらみつぶしに調べ、感染者を見つけると、杭を打ち込み、焼却します。そうやって、再び人間社会を取り戻そうと執念を燃やしています。
ある日、ロバートは、昼間に外を歩いている女性ルースを発見します。初めて生存者を見つけたロバートは、彼女を家に連れて帰り、保護しようとします。しかし、彼女が感染していることに気づきます。聞けば、ワクチンを投与することで、症状を抑えることができていると言います。ルースと同様に生きながらえている生存者が、かなりの数存在することもわかります。そして自分たち「新人類」が新たな社会をつくろうとしていると。
ルースによれば、彼ら生存している感染者たちは、症状を抑制できているとはいえ、ロバートのように昼間長時間外に出ることはできないとのこと。そのため、彼らの多くは屋内にいるのですが、実はロバートに杭を打ち込まれて死んだ仲間もいるのだという。そして、彼らの「社会」にとって脅威となっているロバートを殺そうと計画していることもわかります。
一方で、ルースにロバートの血液を一部輸血すると、瞬く間にルースは完治しました。これで、すべての感染者を完治させられると二人は喜びますが、一方で「新人類」たちによるモーガン討伐が迫り・・・
というお話です。
生き返った感染者たちは、日光、鏡、ニンニクに弱く、夜間に徘徊するときも、ノロノロとさまようように動きます。そして、杭を打ち込まれることで、生き返らなくなります。
言ってみれば、現在の私たちが抱いているゾンビと吸血鬼のイメージの複合型のようです。実際、現代ゾンビの元祖とも言われる『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(’68年)のジョージ・A・ロメロ監督は、ゾンビの動作について、この『地球最後の男』を参考にしたと後に語っています。
この映画はかなり絶望的な内容ですが、主人公のロバートが、どうにか世の中を復活させようと日々努力する姿に、立派さというか、崇高ささえ感じます。
感染症で、娘と奥さんを失ったつらさ、苦しさがあると思います。加えて、自分の友人もすべていなくなった中で、自分ひとりでも生きていこうという強さ。これを見て、私ならそんな風にできるだろうかと思ってしまいます。いっそのこと、自分も感染して彼らの仲間になってしまいたいと思うのではないかと。
自分ひとりになって3年。ロバートは精神が麻痺してきてしまっているのかもしれません。ルースと出会う前に、感染せずに生存していた子犬を見つけます。ロバートは大喜びするのですが、ほどなく子犬は感染してしまい、ロバートは杭を打ち込まなければなりませんでした。その様子が妙に淡々としていて、ちょっと怖い感じもしました。
伝染病が発生した当初は、感染者は社会のごく一部で、死後に徘徊する彼らは異常者として排除せねばならない存在でした。しかし、非感染者がむしろ少数になり、さらに自分だけになると、「社会」はもはや大多数の彼らのものになります。つまり自分が異常者となるわけです。気づかないうちに、自分が排除されねばならない存在になっているわけです。
その時、何に「正当性」があると考えるべきなのか。多数が支配する民主主義とは何なのか。そんなことも考えさせられました。
映画としては、もう少し盛り上げ方に工夫ができたのではないかと思う部分もありますが、優れたアイディアの原作に支えられて、後の映画にも多大な影響を及ぼす記念碑的作品になっていると思います。
