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なぜ利子を取ることは、長らく「罪」とされたのか|時間は、神のものだった

お金を貸して、利子を受け取る。今の私たちにとって、これは、ごく当たり前のことだ。銀行に預ければ、わずかでも利子がつく。住宅ローンを組めば、利子を払う。金融とは、利子を扱う仕組みであり、社会の土台をなしている。

ところが、人類の歴史のほとんどの期間、利子を取ることは、重い罪だとみなされてきた。

それも、ただの軽いタブーではない。キリスト教の世界では、利子を取る者は、聖餐を受けられず、キリスト教徒としての埋葬すら拒まれた時代があった。ある思想家は、利子を取ることを、殺人になぞらえた。イスラムの世界では、利子は、今なお、宗教的に禁じられている。古代ギリシャの哲学者から、中世の神学者まで、時代と地域を超えて、利子は、繰り返し、罪として断罪されてきた。

ここに、深い謎がある。なぜ、お金を貸して、その見返りを受け取るという、今では経済の常識である行為が、これほど長く、これほど厳しく、罪とされたのか。

多くの人は、こう考えるだろう。それは、金持ちが、貧しい人から法外な利子をむしり取る、搾取だったからだ、と。もちろん、それも理由の一つだ。だが、本稿が明らかにしたいのは、その先にある、もっと深い理由だ。

利子への嫌悪の本当の核心には、貧富の問題でも、欲の問題でもない、ある根源的な禁忌があった。それは、利子とは、時間そのものを売る行為だ、という認識だ。そして、時間は、人間が売り買いしてよいものではなかった。時間は、神のものだったのだ。

なぜ、そう言えるのか。順を追って、解き明かしていきたい。


第1章:「お金が、お金を生む」という不気味さ

利子への嫌悪の最も古い源流の一つは古代ギリシャの哲学者、アリストテレスにさかのぼる。

彼は利子を取ることを強く、批判した。その論の核心は、こうだ。お金というものは本来ものとものを交換するための、道具にすぎない。パンと靴を直接交換する代わりにお金をあいだに、はさむ。お金はそのための便利な、仲立ちの手段だ。それ以上のものでは、ない。

ところが利子はこのお金の本来のあり方から、外れている。利子とは、お金がお金を生む、ということだ。貸したお金が、時間とともに勝手に増えていく。アリストテレスはこれを不自然なことだと、考えた。

彼の言葉のなかに、印象的な表現がある。彼は利子をお金がお金を産む、子を産むことにたとえた。そしてそれを不自然だと、断じた。なぜならお金は、生き物ではないからだ。植物のように芽を出すこともなければ、動物のように子を産むこともない。お金はそれ自体では、何も生み出さない不妊の存在だ。その何も生まないはずのお金が利子によってあたかも、子を産むように増えていく。これは、自然の理に反している。

このお金がお金を生むことへの不気味さの感覚は私たちにもどこか、通じるところがある。

畑を貸せばその畑は作物を、生み出す。だからその見返りを受け取るのは、自然だ。牛を貸せばその牛は乳を出し、子を産む。だからその見返りを受け取るのも、うなずける。これらは貸したものが、実際に何かを生み出している。

だがお金は、違う。お金を金庫にしまっておいてもそこから新しいお金が生まれてくることは、ない。お金は、それ自体では不妊だ。なのに貸すとなぜか増えて、返ってくる。この増えた分はいったいどこから、来たのか。何がそれを、生み出したのか。

アリストテレスが見つめていたのはこの謎めいた増加の、正体だった。そしてこの問いこそが後の時代に利子を罪と断じる思想の、出発点になっていく。


第2章:利子とは「存在しないもの」を売る行為である

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