熱意を未熟さとして扱う教員は要らない

学校には、熱意のある教員がいる。

もっと授業をよくしたい。
子どもたちのために新しいことを試したい。
行事を意味のあるものにしたい。
学年や学校の仕組みを変えたい。
困っている子どもに、もう少しできることはないか考えたい。

そのような教員に対して、冷めた目を向ける者がいる。

「若いね」
「そのうち分かるよ」
「どうせ続かない」
「前にもやったけどうまくいかなかった」
「そんなに頑張っても意味ないよ」

まるで、熱意をもつことが未熟であるかのように扱う。

一方で、最初から期待しない者は大人に見える。

何を提案されても、無理だと言う。
新しい取り組みには、面倒だと返す。
子どもの変化にも、どうせ変わらないと決めつける。
学校の課題にも、昔からこうだからと流す。

その姿は、落ち着いていて現実が見えているように見えるかもしれない。

しかし、それは本当に成熟なのだろうか。

現実を知ることは大切だ。

学校には制約がある。
時間もない。
人手も足りない。
予算も限られている。
すべての理想が実現するわけではない。

だから、熱意だけで走れば、周囲を疲弊させることもある。

思いつきの改革で仕事を増やすこともある。
子どものためと言いながら、教員の自己満足になることもある。
理想ばかり語って、具体的な手立てがないこともある。

その意味で、熱意には確かに危うさがある。

だが、危ういからといって、熱意そのものを笑ってよいわけではない。

本当に必要なのは、熱意を潰すことではない。

熱意を現実に接続することである。

「それは無理だ」と切り捨てるのではなく、
「小さく試すなら、どこから始めるか」と問い返す。

「前に失敗した」と終わらせるのではなく、
「前回は何が原因でうまくいかなかったのか」と考える。

「どうせ変わらない」と冷笑するのではなく、
「変えるために必要な条件は何か」と整理する。

それが、経験ある教員の役割である。

熱意のある者は、失敗することがある。
しかし、熱意のない者は、そもそも何も始めない。

失敗した提案は振り返ることができる。
うまくいかなかった実践は修正できる。
動いた結果は、次の学びになる。

だが、最初から諦めた者のところには、何も残らない。

職員室で最も危険なのは、失敗する教員ではない。

誰かの熱意を冷笑し、動かないことを賢さのように見せる空気である。

その空気が広がると、若手は提案しなくなる。
子どものために動く者は孤立する。
新しい実践は生まれなくなる。
学校は、少しずつ諦めることに慣れていく。

教員が子どもに教えるべきなのは、最初から諦める生き方ではない。

現実の難しさを知ったうえで、それでも自分にできる一歩を探す姿である。

熱意は未熟さではない。

熱意を現実に変える技術をもたないことが、未熟なのである。

誰かの本気を笑う前に、その本気をどう育てるかを考えられる職員室でありたい。

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