雨宿りの大切な時間|『恋は雨上がりのように』【映画】
爽やかさの理由
本作は、17歳の女子高生あきら(小松菜奈)と45歳の中年男性近藤(大泉洋)のラブコメです。
と書くと躊躇する方もいるでしょう。しかし実際に観終えた後に残るのは、不思議なほどの爽やかさです。この爽やかさはどこから来るのでしょう。
まず本作の重要なテーマはもちろん「雨」です。
雨は単なる情景ではなく様々な意味を象徴します。水で流すので"浄化"を意味したり、人を閉じ込めるので"内省"を促したり、もちろん涙も。本作でも登場人物の心情とシンクロし雨が降ります。
そして、雨のもう一つの特徴が、必ず止むということです。降り出すと、世界のあり方を変えてしまう装置として機能する一方で、それはあくまで一時的なのです。
雨の役割
雨が降ると、雨音は一定のリズムで他の音を消してしまいます。人を屋内に閉じ込め、動きは減少し、視界はぼやけそこにいるのが誰かわからない。つまり、外界との繋がりを弱める役割があります。
これはそのまま社会的な役割や他者の視線の後退を意味します。橘あきらは「怪我で走るのを辞めた元陸上選手」。近藤正己は「小説家を諦めたファミレス店長」ですが、雨の中ではそうしたラベルが剥がれ落ち、そこにいるのは「立ち止まってしまった個人」としての二人です。
雨が強制的に立ち止まらせたことで、走ることを奪われたあきらと、書くことを諦めた近藤は、本来であれば見ないようにしていた自分自身と向き合うことになります。ここで初めて、二人は「立ち止まっている」という事実を自覚するのです。雨は、決して問題を解決はしません。それを浮かび上がらせるための環境なのです。
二人の関係は「雨宿り」という形で始まります。
足の大怪我をしたあきらは病院の帰り、雨宿りのためファミレス に入ります。そこで店長の近藤は「きっとすぐ止みますよ」と言います。あきらにとっては、立ち止まってしまった現実と向き合う言葉だったのかもしれません。あきらは涙を流します。
ここから二人は雨宿りの関係になりました。
雨宿りとは一時的な避難であり、長い年月を過ごす居場所ではありません。この二人の関係は最初から、例外的で、期間限定のものだと提示しています。だからこそ、過剰な依存に向かうことなく、どこか安心感を持って見守ることができます。
そして雨が上がった後、世界は雨が降る前と同じ世界ではありません。雨で全てが洗い流され、わずかに変わった世界があります。そこで二人は以前と同じ場所にはいません。それぞれの進むべき道を歩き出します。
年齢差の役割
高校生と中年男性という組み合わせは、少し緊張感のある設定です。通常のラブストーリーでは、二人の関係が成就するか否かが物語を動かしますがこの作品では、そもそも「成就」という選択肢にあまりリアリティを感じません。
理由は近藤のキャラクターです。近藤は物事を俯瞰して見ることができる人です。それが時には自虐やあきらめになって出てきます。
友人の九条ちひろ(戸次重幸)と居酒屋の場面、
「いい年した大人だもんな」
このセリフが近藤のキャラクターを表しています。
大人だからコントロールできる。
大人だからあきらめる。
成熟と諦念が欲望に支配されていない安心感を与えています。
年齢差がスキャンダルではなく、超えられない一線として機能しているからこそ、あきらの純粋さが際立って爽やかさを演出しています。
そのため観客の関心は、「結ばれるかどうか」ではなく、「この関係がどのように終わるのか」へと移っていきます。
この距離が、感情の純度を保つ役割を果たしています。利害関係や身体的欲望に回収されないことで、二人の感情は消費されないまま残っていきます。触れないからこそ壊れず、進まないからこそ濁らない。この透明感が爽やかさの秘密です。
走ること/書くこと
あきらの両親は離婚していて、あきらは母親と二人暮らしです。また、近藤も妻と離婚しアパートで一人暮らしです。家族の不在は、二人の関係において代替を意味しますが、それだけではありません。
この二人は互いに依存していません。二人の渇望が家族や恋愛には一切向いていないからです。
あきらは怪我で陸上から離れ、近藤は夢を手放しました。何かを失った二人が出会うことで自分を取り戻す関係になったのです。
デートの場面、最後に図書館を訪れます。無数の書物のある図書館は過去と未来に出会う場所です。
あきらは陸上雑誌を、近藤は友人の書いた小説を手に取ります。
あきらはこれからの自分、近藤は小説を書いていた過去と出会います。
あきらにとっての「走ること」、近藤にとっての「書くこと」は自己表現です。しかし二人とも、それを失っています。あきらは怪我によって走ることから遠ざかり、近藤は挫折によって書くことを手放しました。彼らは単に夢を諦めたのではなく、「自分を外に表現する手段」を失っている状態にあります。
面白いのは二人が対照的な領域に属していることです。あきらは身体、すなわち衝動や速度といった“現在”に生きる存在であり、近藤は言葉や思考といった“内面”や“過去”に根ざした存在です。行動的なあきらと内省的な近藤。それぞれ違う二人がともに前に進めず立ち尽くしています。
相手の存在を通して「本来の自分」を思い出します。あきらは再び走りたいという衝動に気づき、近藤は書くことに向き合う。つまりこの関係は、依存ではなく“きっかけ”として機能しています。
最終的に二人は結ばれません。それどころか、それぞれ別の場所へと戻っていきます。あきらはトラックへ、近藤は原稿へ。この物語にあったのは、交差ではなく並走です。一度だけ同じ場所を走り、その後は別々の方向へいく。その一瞬が、彼らにとって必要だったのです。
だからこの作品はラブコメでありながら、恋愛の物語ではありません。雨は世界を遮断し、年齢差は関係に境界を与え、身体と精神はそれぞれの表現へと回帰する。そのすべてを通して描かれるのは、「他者の人生に出会い、自分の人生に帰る」という過程です。
雨が上がったあとに残るのは、誰かと結ばれた記憶ではなく、自分がもう一度、自分として歩き出せるという確かな感覚です。その静かな再出発こそが、『恋は雨上がりのように』です。
おしまい
【この映画】
『恋は雨上がりのように』
監督 永井聡
原作 眉月じゅん『恋は雨上がりのように』
小学館
公開 2018年5月25日
出演
小松菜奈
大泉洋
清野菜名
磯村勇斗
松本穂香
葉山奨之
山本舞香
濱田マリ
戸次重幸
吉田羊
