80年代女性アイドル都市伝説
【まえがき】
僕が思春期を迎えた中高生の頃、特に1980年代の前半であるが、松田聖子さん、中森明菜さん、小泉今日子さんら、今でも、誰もが知るであろうビッグネームとなる女性アイドルがデビューし、次々にスターダムを駆け上がった。
人気アイドルグループが戦国時代に例えられるほどに多く活躍している現在とは、また、違った形で、女性アイドル達がショービジネス界を華やかに彩っていた。
1980年代がアイドル全盛期と言われる所以である。
現在とは違った形でアイドル文化が花開いていた当時、まことしやかに語られるエピソードがいくつかあった。
そこで、当時を懐かしみながら、当時の女性アイドルの逸話を都市伝説的にご紹介したい。
【一人のアイドルが事務所の命運を握る】
当時、ティーンの女子がアイドルになる道の一つとして、とても有名だったのが、日本テレビの「スター誕生!」(スタ誕)である。
上述した中森明菜さんも、小泉今日子さんも、スタ誕から生まれたアイドルだ。
1970年代後半、トップアイドルとして超新星の如く圧倒的な人気を獲得し、小学生の女子達がこぞって真似をしていたピンク・レディーの二人も、また、スタ誕の出身者である。
スタ誕でアイドルになるまでの道のりは省略するが、最終局面となる決戦大会では、観客席に芸能事務所やレコード会社のスカウトマンが座っている。
勝ち上がってきた出場者、一人一人がお立ち台に上がり、スカウトしてくれるよう自己PRをするのに対し、スカウトしたいと考えるスカウトマンが自社のプラカードを上げ、無事にマッチングが成立すると、合格とされ、実際に、その会社からデビューすることとなった。
こうして、無事、アイドルとしてデビューすることとなった女子達は、それこそ、億単位の投資をして、売り出された。
昭和の当時、余程の大手事務所でなければ、それほど大々的にお金を掛けて、何人も売り出すことは難しく、それこそ、各社とも、一人の女性アイドルに社運を掛けて、売り出していたのだ。
つまり、一人のティーンの女子が、その会社の命運を握り、その会社の社員達の生活を支えることとなった。
一人の女子に負わせるには、あまりに大きな重荷だったと思う。
しかし、運命共同体となった事務所等やその社員達も、また、全力で支え、盛り上げ、応援したからこそ、あの時代にアイドル文化が全盛期を迎えられたのではなかったか。
【アイドルは妖精?】
そんなアイドル達は、イメージが大事ということで、例えば、プロフィールとして、「好きな食べ物」にはケーキやイチゴなどを挙げることが定番になっていた。
恐らく、「焼き肉」なんかを挙げるのはご法度だったのではないかと想像する。
そして、かなり多くのファンは、アイドルはうんこやおなら(失礼!)をしないものだと信じていたのではないかしら。
秋元康さんが、「夕やけニャンニャン」という夕方の帯番組の、「アイドルを探せ」というコーナーで、素人の女子校生らのオーディションを行い、合格者を「おニャン子クラブ」のメンバーに加え、デビューさせたのだが、彼女達は素人の良さを売りにしていたので、そうした点でもナチュラルでいられたのとは対照的だった。
1980年代の女性アイドルは、まさに“偶像”だったのだと思う。
【80年代アイドルのあるある】
現在のアイドル達にも、歌が上手い人、それほどでもない人は確かにいる。
しかし、メジャーな事務所やレコード会社に属するアイドルなら、ボイストレーニングを受けられるし、そうでなくても、誰でも、いつでも、カラオケボックスへ行けば、好きなだけ、歌を歌うことができる現在、なかなか“音痴”なアイドルにお目にかかることは少ないだろう。
しかし、80年代は、カラオケはあっても、最新のヒットソングなどを容易に歌える状況にはなかった。
ネットを検索して確認したところでは、1985年に、岡山県で、貨物列車のコンテナを改装し、一曲100円のコイン投入式のカラオケが歌える店舗が登場したのがカラオケボックスのはしりなのだそうだ。
1992年になって、ようやく、通信カラオケが登場し、大ヒットしたことで、カラオケが広く普及したということのようだ。
なので、そもそも、身近に、本格的な伴奏に合わせ、マイクを通して、誰彼憚ることなく歌える環境が整っていなかったのだ。
そりゃあ、“音痴”とレッテルを貼られるアイドルがそこそこいても、不思議ではない。
このためか、歌番組での歌唱が口パクとされることも、そこそこ見受けられたように思う。
また、当時のアイドルは、自叙伝など、本を出版することも多かった。
現在のように、インターネットがあり、SNSが普及しといった、情報発信を容易にする様々なメディアがあれば、そうしたところで、自らの人となりやPRしたいことを、タイムリーにファンへ届けることができる。
しかし、当然、80年代に、そんな便利な文明の利器はない。
そんな事情もあっての、本の出版だったのだと思う。
そして、人気アイドルが本を出版すれば、芸能レポーターの囲み取材などを受けることも、また、よくあることだった。
そんな中で、TVで、こんなやり取りを目撃したことがある。
レポーター:
この本で、特に、こんなところに注目して読んで欲しいというのは、どんなところですか?
アイドル:
えっ、私、まだ読んでいないので、わからないです。
多分、事前に想定していたQ&Aが不十分だったのか、アイドルさんの記憶が追い付いていなかったんでしょうね。
それでも、佐村河内守氏が新垣隆氏へゴーストライターを依頼していたことが発覚し、大バッシングを受け、社会的に“抹殺”されたのとは異なり、笑い話で済んじゃっているのが、昭和の大らかさや、アイドルさんの屈託のなさを感じますね。
【最後に真面目なお話も】
80年代は、上述のとおり、アイドル全盛期だったけれど、その中でも、女性アイドルについては、聖子派と明菜派に二分されるほど、この二人の人気が突き抜けていた。
ところで、この二人、一人は芸名で、一人は本名なんです。
松田聖子さんは芸名。
本名は蒲池法子さんという。
一方、中森明菜さんは本名だ。
実は、当時、トップアイドルといっても、いろいろと揶揄されたり、バッシングを受けたりすることがよくあった。
松田聖子さんで言えば、「嘘泣き」や「O脚」などが有名だ。
「O脚」といえば聞こえは良いが、何のことはない、“がに股”っぽい外見をイジられていたということかと思う。
しかし、松田聖子さんは、打たれ強かった。
これは、以前、読んだ本で唱えられていた推論なのだが、松田聖子さんは、松田聖子さんがいくら叩かれても、
「自分が演じている松田聖子が叩かれている。」
みたいに客観視できたのではないか?
しかし、中森明菜さんの場合、バッシングを受けたりすると、自分事として、まともに受け止めなければなかったと考えられる。
近藤真彦さんとの破局(これも、僕が読んだ本によれば、某有名芸能事務所の陰謀めいた話があったとか、なかったとか。)の傷も大きかったと思われるが、中森明菜さんは病んでいき、芸能界から、一時期、それもかなりの長期間、フェードアウトすることとなってしまった。
芸名を付けること、本名のまま、芸能活動をすることに、そんな大きな差異があるのだとは、想像もしなかったのだけど、確かに、さもありなんである。
松田聖子さんについて、「嘘泣き」や「O脚」と揶揄されていたことを書いたのだけれど、その罪滅ぼしに、松田聖子さんの音楽界への貢献についても触れておく。
それまで、一般に、アイドルの皆さんがレコードをリリースしても、伴奏しているスタジオミュージシャンの皆さんは縁の下の力持ちの域を出なかったように思う。
しかし、松田聖子さんのアルバムには、伴奏しているスタジオミュージシャンのお名前が明記されている。
つまり、伴奏とは言え、スタジオミュージシャンの皆さんにとっては、自らの名前も演奏も公表してもらえ、自分の演奏として、多くのリスナーに聴いてもらう機会を与えられた、ということだ。
それは、当然、スタジオミュージシャンの皆さんのモチベーションになり、より良い演奏をする理由にもなった。
さらには、松田聖子さんのバックミュージシャンの皆さんが豪華な顔ぶれであることも明確になり、演奏の評価も高まることとなった。
それまで、日の目を見ることのなかったスタジオミュージシャンの方々にとって、松田聖子さんはイノベーターのように映ったのではないだろうか?
【おわりに】
“女性アイドル”と一括りにして語っても、現在と80年代とでは、アイドルの皆さんを取り巻く環境は大きく異なっている。
そして、80年代アイドル全盛期をリアルタイムで見てきた僕にとって、そんなアイドルの皆さんについて語ることは、当時を懐古することでもある。
当時を懐かしみながら、80年代の綺羅星の如きアイドルの皆さんの悲哀や大らかさを知っていただくのも面白いのではないかと考え、“あるある”などを交えて、本稿を書き綴ってみました。
もっとも、僕は80年代前半は中高生に過ぎず、現代と異なり、情報源もかなり限定的でもありましたので、多少の事実誤認等もあるかもしれませんが、ご容赦下さいませ。
クスッと微笑みながら、当時の空気感なんかを感じていただけたら、幸いです。
長文となりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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