第5回 大田朝敷と県民意識
沖縄人は日本人なのか、琉球人なのか
沖縄近代思想史を読むとき、避けて通れない問いがあります。
沖縄人は、日本人なのか。
それとも、琉球人なのか。
あるいは、その両方なのか。
この問いは、今の時代に聞くと、少し危険な響きを持つかもしれません。人のアイデンティティを外から決めつけることはできませんし、沖縄の人々の中にもさまざまな考え方があります。日本人だと強く思う人もいれば、沖縄人としての意識を大切にする人もいます。琉球という言葉に深い歴史的意味を感じる人もいます。
しかし、近代沖縄において、この問いは避けられないものでした。
なぜなら、琉球王国が沖縄県になったあと、沖縄の人々は「日本国民」として生きることを求められたからです。制度の上では日本になった。では、人々の心もすぐに日本になったのか。沖縄の言葉や文化や歴史は、どう扱われるべきなのか。沖縄人としての意識と、日本国民としての意識は両立するのか。
この難問に向き合った人物の一人が、大田朝敷です。
大田朝敷は、明治から昭和初期にかけて活躍した沖縄の知識人、言論人です。新聞や評論を通して、沖縄の社会、教育、文化、政治について論じました。彼は、沖縄が近代日本の中でどう生きるべきかを考え続けた人物でした。
ここで大事なのは、大田朝敷を単純に「同化を主張した人」と片づけないことです。
たしかに彼は、沖縄が日本社会の中で認められるためには、教育や制度を通して本土との差を縮める必要があると考えました。沖縄の人々が日本語を身につけ、近代的な知識を学び、日本国民としての自覚を持つことを重視しました。
今の感覚で見ると、その考え方には危うさがあります。
沖縄らしさを捨てて日本に合わせるべきだ、という方向に見えるからです。実際、同化の論理は、沖縄の言葉や文化を低く見る力と結びつきやすい。沖縄の子どもたちが学校で方言を使うことを恥とされ、標準語を話すことが近代化だと考えられた時代がありました。
だから、大田朝敷の思想には批判的に見るべき点があります。
しかし、それでも彼を単純に否定して終わってはいけません。
なぜなら、大田朝敷が生きた時代の沖縄は、厳しい差別と貧しさの中に置かれていたからです。沖縄が日本社会の中で低く見られていた時代に、彼は「沖縄も日本の一部として認められなければならない」と考えました。差別されないためには、教育を受け、近代的な制度に適応し、日本社会の中で発言力を持つ必要がある。そう考えたのです。
つまり、大田朝敷の同化論は、単なる迎合ではありません。
沖縄が生き残るための戦略でもありました。
ここが難しいところです。
差別されている地域が、中央社会に認められようとするとき、二つの道があります。一つは、自分たちの違いを強く主張する道です。もう一つは、中央と同じであることを示し、平等な扱いを求める道です。
伊波普猷は、沖縄の独自性を学問によって掘り起こしました。しかし同時に、日琉同祖論のように、日本とのつながりを示す論理も持っていました。大田朝敷もまた、沖縄が日本の中で生きるために、日本国民としての自覚を強めようとしました。
二人とも、時代の圧力の中で考えていたのです。
ここで私たちは、近代沖縄の知識人を簡単に裁くことの危うさを知る必要があります。
現代の私たちは、後ろから歴史を見ることができます。何が失われたのか、何が問題だったのかを知っています。だから、「同化はよくない」と言うことはできます。それは正しい部分があります。
しかし、当時の沖縄の人々にとっては、同化は生きるための現実的な選択肢でもありました。
本土で差別されないために、標準語を話す。
学校で進学するために、本土式の教育を受ける。
就職するために、沖縄らしさを抑える。
日本社会の中で「一人前」と認められるために、必死に努力する。
これは個人の弱さではありません。差別される社会の中で、人々が選ばされた道です。
問題は、沖縄の人々が努力したことではありません。
沖縄の人々に、そうしなければ認められない状況を作った社会の側にあります。
大田朝敷の思想を読むと、この痛みが見えてきます。
彼は、沖縄人が日本国民として成長することを求めました。そこには、沖縄の遅れを克服したいという思いがありました。教育を高め、社会を改善し、沖縄が日本の中で軽く扱われないようにしたいという願いがありました。
その一方で、その道は沖縄の独自性を弱める危険を持っていました。
沖縄の言葉はどうなるのか。
琉球王国以来の歴史はどうなるのか。
島々の文化はどうなるのか。
日本人になることは、沖縄人であることを捨てることなのか。
この問いが、大田朝敷の時代から続いています。
そして、実はこの問いは、現代にも形を変えて残っています。
たとえば、沖縄の若者が本土の大学や企業に出ていくとき、沖縄出身であることをどう感じるでしょうか。誇りに思う人もいれば、方言やイントネーションを隠した経験のある人もいるかもしれません。沖縄らしさを武器にする場面もあれば、逆に偏見を感じる場面もあるでしょう。
観光の場面でも同じです。
沖縄らしさは商品価値になります。海、音楽、食、踊り、方言、ゆったりした空気。それらは観光資源になります。しかし、それが外から消費されるだけになると、沖縄らしさは沖縄の人々のものではなく、観光客向けの商品になってしまいます。
ここにも、近代以来の問いがあります。
沖縄らしさは、誰のものなのか。
自分たちの誇りなのか。
外から期待されるイメージなのか。
日本社会に合わせるために抑えるものなのか。
観光のために演出するものなのか。
大田朝敷の時代には、沖縄が日本になることが大きな課題でした。現代では、沖縄が日本の中でどう自立し、どう独自性を保ち、どう経済を成り立たせるかが課題になっています。時代は変わっても、根本の問いは続いています。
沖縄人であることと、日本人であることは、対立するのでしょうか。
私は、必ずしも対立しないと思います。
ただし、条件があります。
沖縄人であることを下に見ないことです。
沖縄の言葉や文化や歴史を、遅れたものとして扱わないことです。
日本人になるために沖縄を捨てる、という構図を繰り返さないことです。
沖縄は日本の一部である。しかし、沖縄には沖縄の歴史がある。沖縄には琉球王国以来の記憶があり、アジアとの関係があり、島嶼社会としての経験があり、沖縄戦と米軍統治をくぐり抜けた歴史がある。
その厚みを認めたうえで、日本社会の中で平等に扱われること。
これが本来の意味での県民意識ではないでしょうか。
大田朝敷は、沖縄が日本の中で認められることを強く求めました。その姿勢には、時代の制約がありました。彼の考え方には、沖縄の独自性を十分に守りきれなかった面もあります。
しかし、彼の問題意識は無視できません。
沖縄が貧しいままでよいのか。
沖縄が差別されたままでよいのか。
沖縄が教育で遅れたままでよいのか。
沖縄が日本社会の中で軽く見られたままでよいのか。
この問いに対して、大田朝敷は「日本国民としての自覚」と「近代化」を通して答えようとしました。
それが正しかったのか。
十分だったのか。
何を失ったのか。
そこを考えることが、沖縄近代思想史の面白さであり、難しさです。
思想史は、白黒をつける作業ではありません。
むしろ、白黒を簡単につけられない時代の中で、人々が何を選んだのかを考える作業です。
大田朝敷は、沖縄が日本の中で生きる道を考えた人物でした。その道には希望もあり、危うさもありました。差別を乗り越えるための戦略であると同時に、沖縄らしさを削る可能性もありました。
この二面性を見ないと、大田朝敷は理解できません。
そして、この二面性は、今の沖縄にも残っています。
日本の制度を使いながら、沖縄の自立を考える。
国の予算を受けながら、依存を減らそうとする。
観光で外から人を呼びながら、地域の暮らしを守る。
標準語で発信しながら、しまくとぅばを残そうとする。
本土とつながりながら、沖縄の独自性を守る。
これらはすべて、大田朝敷の時代から続く問いの現代版です。
第5回で確認したいのは、この一点です。
大田朝敷は、沖縄が日本の中でどう生きるかを考えた人物でした。
その思想には、差別を乗り越えようとする切実さがありました。
同時に、沖縄の独自性をどう守るかという難問も残しました。
沖縄人は日本人なのか、琉球人なのか。
この問いに一つの答えを急ぐ必要はありません。
むしろ大切なのは、沖縄人であることを恥じず、日本社会の中で平等に生き、琉球以来の記憶を未来に渡すことです。
それが、大田朝敷を読む現代的な意味だと思います。
