【今週の方言】あずましい
冬のてんま、風呂上がりに出る命のため息
「あずましい」とは、心地よい、安心する、落ち着く、気分がいい、という意味の方言である。
標準語にすれば「気持ちいい」「居心地がいい」「落ち着く」あたりになる。しかし、それだけでは少し足りない。「あずましい」には、体だけでなく、心までほどける感じがある。寒さ、疲れ、不安、気づかい、そういうものが一度すうっと抜けて、「ああ、これでいい」と思える状態である。
たとえば、こう使う。
「風呂入って、あずましいじゃ」
これである。
冬のてんまを知っている人なら、この一言の重みがわかるはずだ。外は雪。玄関は冷え、廊下は冷蔵庫より冷たい。昔の家では、寒いのは外だけではなかった。家の中も、しっかり寒かった。
朝起きると、寝床の気温がマイナス8度ということもあった。
これはもう「朝の目覚め」ではない。小さな遭難である。布団から出るのは起床ではなく、決死の脱出である。鼻の先は冷たく、息は白い。布団の中だけが最後の砦で、そこから一歩出れば、そこはもうシベリア支店である。
そんな朝を越えてきた人間にとって、風呂はただの入浴ではない。命の再起動である。
服を脱ぐ瞬間はつらい。あれは人類がまだ解決していない冬の大問題である。なぜ寒い日に、人はわざわざ裸になるのか。哲学者でも即答できない。だが、湯船に入った瞬間、すべてが許される。
足の先からじわじわ温まる。冷え切った体がほどける。肩の力が抜ける。雪かきの疲れも、朝からの文句も、近所の犬の鳴き声も、いったん湯に溶ける。
そして出る。
「はぁ……あずましい」
この「はぁ」が大事である。言葉の前に、まず息が出る。あのため息には、マイナス8度の朝を生き抜いた者だけが持つ深みがある。都会の暖房の効いた部屋で言う「快適」とは、少し違う。てんまの「あずましい」は、寒さに勝ったあとの祝勝会である。会場は風呂場。観客なし。賞品は湯気である。
「あずましい」は、風呂だけに使う言葉ではない。
こたつに足を入れて、
「あずましいなぁ」
ストーブの前で背中を丸めて、
「あずましいじゃ」
雪かきのあと、熱い茶を飲んで、
「いやぁ、あずましい」
この言葉が出たら、その人はその瞬間、世の中と和解している。どんなに機嫌が悪くても、「あずましい」と言っている人に、すぐ怒鳴る力はない。人間、足元が温まると少し善人になる。これはてんま生活学の重要な仮説である。
場所にも使える。
「あの家、あずましい」
「ここ、なんぼあずましいどこだば」
「この座敷、落ち着いであずましいな」
つまり、居心地のよい場所にも使う。広すぎず、寒すぎず、うるさすぎず、人の気配がほどよくある。高級ホテルのような立派さではない。むしろ、ばあちゃん家の茶の間、ストーブの上のやかん、柱時計、座布団、漬物、そして「食ってげ」という声。あの感じである。
てんまの「あずましい」は、ぜいたくとは違う。
大きな家でなくてもいい。高い料理でなくてもいい。新品でなくてもいい。寒いところから帰ってきて、温かい場所がある。疲れて帰ってきて、「まあ座れ」と言われる。黙って茶が出る。余計な説明をしなくても、そこにいていい。
それが「あずましい」なのである。
反対に、「あずましくない」という言い方もある。
人が多すぎる。落ち着かない。寒い。騒がしい。気を遣う。椅子が合わない。話が長い。帰るタイミングがつかめない。そんな時、人は心の中で思う。
「あずましくねぇな……」
これはかなり正直な感想である。標準語で「少し居心地が悪いですね」と言うより、ずっと生々しい。会議が長引いた時にも使える。ただし、口に出すと角が立つので、そこは大人の知恵で飲み込む。てんまの人間も、いつも正直に言うわけではない。たまには空気も読む。だが、心の中ではしっかり言っている。
「あずましくねぇ」
この言葉には、てんまの暮らしの感覚が詰まっている。
寒さを知っているから、温かさがわかる。忙しさを知っているから、落ち着く時間がありがたい。人との距離を知っているから、気を張らずにいられる場所の尊さがわかる。
「あずましい」は、暮らしの中の小さな幸せを見つける言葉である。
風呂に入ってあずましい。
こたつに入ってあずましい。
茶を飲んであずましい。
家に帰ってあずましい。
誰かの声を聞いてあずましい。
冬のてんまは厳しい。雪も降る。風も吹く。寝床がマイナス8度になる朝もある。布団は人間を放してくれない。あれは布団ではない。冬の命綱である。
だが、その寒さを知っているからこそ、「あずましい」はただの方言ではなくなる。
それは、寒さに耐えた体から出る、安心の言葉である。
それは、ようやく温まった心から出る、暮らしのため息である。
今日も風呂に入って、肩まで湯につかり、ひとこと。
「あずましいなぁ」
これが出たら、その日はだいたい勝ちである。
