独我論は語りえない 独我論者との対話
最近は独我論や独在論について読んだり考えたりしているのだけれど、むず痒い感じが残る。古代ウパニシャッドや禅では真理の伝達の方法が工夫されているが、伝達・コミュニケーションの問題なのかもしれない。ウパニシャッドというのは元々「近くに座る」という意味らしい。禅では棒で叩いたり喝!と言ったり「ただ坐れ」と言ったりする。
独在性の哲学を押し進めている永井は1月22日のツイートで「哲学の議論について、昔から不思議に思っていることの一つは、直接、口頭で説明しないと(文字を通じてでは)決して伝えられないことと、文字を通じてでないと(直接の口頭での説明では)決して伝わらないこととがある、ということなのね。」と言っている。
独我論者と常識人の対話を書いて、どこがどういう風になるのか思考をまとめてみたい。散歩しながら考えていたのだが「独君論」というのを考えて見た。それについても考察してみたい。唯心論的に書いてみる。
独我論者と常識人が対話している場合
独:世界は全て、僕の心の中にあるよ。これは自明なことだと思うけれどね。世界は視覚、聴覚、触覚などで触れたものしか存在しないし、自分の五感以外のものを感じたことなんか今までに一度もない。「この感覚」や「意識」の外に出ることなんか定義上不可能なんだから、この僕の意識とその中身しか存在しないというのは当然のことじゃないか。
常:じゃあ僕も独ちゃんの世界に現れている登場人物ってわけ?そんなことはあり得ないよ。だって僕にも意識があるし、あそこに歩いている人だって、君の家族にだって、意識は在るはずだろう。世界は138億年前にビッグバンが起きて始まって、地球ができて、人間が生まれて、独ちゃんはその中の一人に過ぎないよ。
独:けど君だって、僕の家族だって、あそこに歩いている猫だって、僕の意識に映っている映像に過ぎないよ。君が今話した宇宙の物語だって、僕の心が思っている限りでしか存在しないよね。そもそも君が今話している声だって、僕の聴覚が捉えた内容でしかない。
常:じゃあ今、独ちゃんは誰に話しているの?自分の意識の中の映像?
独:そう、これは独り言だよ。
常:じゃあ僕のこの意識は?
独:そんなもの存在しないよ。だって僕はそんなもの感じられないもの。僕に見えているのは君の身体や声といった映像に過ぎないよ
こんな感じになると思う。常ちゃんは説得されないんじゃないだろうか。お互いに独我論者だった場合はどうなるだろうか?
独1:僕の世界しか存在しないよ。僕の心が世界そのものなんだ。
独2:そんなわけないよ。僕の心しか存在しないんだから。
独1:君は嘘つきだよ。だって現に僕の心しか存在しないじゃないか。
独2:嘘つきはどっちだよ。君は僕の心に現れている映像に過ぎないのに。
お互いに独我論だと、決着は着かない。
「世界に存在しているのは自分一人である」ということ自体に語りえなさがある。そんなこと人に話しても仕方がない。独君論(あなたしか存在しない)だとどうだろうか。
独君:実はね、世界というのは君の意識に映っている内容に過ぎないんだよ。僕もそうだよ。君の眼には僕の身体が映っていて、君の耳には僕の声が聞こえているだろうけれど、実は僕は存在していないんだ。君の意識の内容が世界を構成していて、僕や君の家族もみんな君の意識の中の登場人物に過ぎないんだ
常:そうかなあ。そんな風には思えないけれど。僕は大勢いる人間の一人だよ。
独君:そう思っているのだって君じゃないか。実際君は自分の意識以外のものを意識したことはないはずだ。だったら君の意識が世界の全てだということは自明じゃないか。君の意識が生まれた時に宇宙が生まれて、君の意識が死んだ時に宇宙が死ぬんだ。ビッグバンがどうのというお話は君の意識の中に現れるおとぎ話にすぎない。
常:それはそうだけれど、じゃあ独君ちゃんは誰なの?
独君:僕は君の意識の中の映像に過ぎないよ。本当は存在しない。ホログラムみたいなものさ。
常:じゃあ僕は今独り言を話しているってこと?なんか気味が悪いよ
独君:でも君が自分の意識以外のものを意識したことがないというのは本当のことだ。今もそうだよ。
常:うーん…
常識人が説得されるかは分からないが、独我論よりは受け入れやすい気がする。
独君論と独君論の対話もできるが、それは言い合いになって終わりだと思う。
各々の独我性を認める立場もある。各我論と名付ける。
各:各々の人に、各々の世界があるんだよ。僕は僕の意識内容が世界そのもので、君は君の意識内容が世界そのものだ。
常:そうかなあ。普通に客観世界が存在してると思うよ。
各:でも実際に各人は各人の意識内容しか意識できないじゃないか。
常:それはそうだけど…。なんかおかしい気がする。
各我論というのは割合分かりやすいと思う。
独我論というのはそもそも人に語ることがおかしい気がする。一方で独君論と各我論は、人に語るということが成立する。
独在性の議論というのは各我論に「突出」という要素を入れたものだと思う。
①●▼■▲★
②●▼■△★
③〇▽□△☆
①が常識的な世界像で、様々な人が同列に並んでいる。
②が独我論的な世界像で、私だけが突出している。
③が各我論的な世界像で、全ての人が突出している。
独在:各々の世界が存在しているけれど、それでも僕の世界だけが突出しているよ。八十億人の人がいるけれど、実際に殴られると痛いのは僕だけだ。
常:いや、そんな事実はないよ。君だけが特別という事実は世界に存在しない。それは君がそう言い張っているだけだ。実際に殴られると痛いのは、君だけじゃない。僕もそうだし、君もそうだし、あそこに歩いている人もそうだ。
独在:いや、それはそうかもしれないけれど、実際に殴られて痛いと感じるのは僕だけだということは明白じゃないか。僕だけがスペシャルだ。
常:君にとってはね。そして僕にとってもそうだ。あそこに歩いている人にとっても。
独在:僕にとってじゃない!これは端的にそうだよ。僕は僕の眼からしか見えないんだ。
常:みんなそうじゃないか。
各我論というのはスッキリした議論だ。「一人一人に宇宙がある」という言い方は分かりやすい。
けれども実際には「げんにびの宇宙」しか存在しない。でも各我論を受け入れてやっていくしかない。②と③の間に調停できないズレがある。各々に独我がある、という世界像は分かりやすいが、それでも「僕」の世界しかない。
一つだけ突出している。僕が。でも僕はこれを読んだ各々の世界が突出しているとも考えている。うーん…。
特我論という言葉はどうだろうか。僕だけが特殊だ。独我という言葉は「私だけしか存在しない」ということを含意するので、適していない。
私だけが特別、というのは疑えない。八十億人の人がいるけれど、僕だけが特別だ。なぜ特別なのかというと、僕だけが殴られると実際に痛いからだ。「実際に」というのは僕にしか当てはまらない。特別だ。
僕:特我論だ、僕だけが特殊だ。他の人が殴られても痛く感じないのに、僕が殴られると痛みを感じる。
読者:そんなことはない、げんにび"だけ"特別に実際に感じるという事実はどこにもない。各々が実際にその眼から世界を見ている。
僕:でも僕だけが実際に眼から見えているよ。他の人の眼からは見えない。
ここで「君もそうじゃないか」と言うと特我論から特君論や各特論になってしまう。
各々が特別だ!と俺だけが特別だ!
特別に二種類あると思う。
