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オキナワの頃 其の八 パラダイス通りの黄昏

三線をメインにした自分のお店を持つ。やちむん通りで働きながら少しずつ準備をしていたぼくは2010年の秋、遂にお店を開く場所を決めた。国際通りから折れて平和通り、浮島通り、パラダイス通り、沖映通りを毎日のように歩く。家賃、広さ、国際通りからの距離などを考えて。これはと思っても中に入るとぼろすぎたり、家賃が高かったり、広すぎ狭すぎ、なかなか思うような貸店舗には巡り合えなかったけど、ある日パラダイス通りを歩いていた時、丁度好さそうな物件を見つけた。家賃七万の小さな貸店舗だ。パラダイス通りは国際通りから沖映通りに繋がっていく裏道で、お気に入りのカフェやアジアン雑貨店もあり好きな通りだったのだが、よく店舗が入れ替わるな、という印象もあった。ぼくが借りた店舗は人通りの多い国際通りから50mくらい入ったところにあった。外に看板を出せば国際通りの観光客の目に入る距離だ。嫁にも見てもらった。嫁も気に入って乗り気になりここに決めた。

緊張感が高まる。上手く行く期待と失敗するんじゃないかという不安が交互にやってくる。上手く行く想像をすれば天国にも昇るような気分になり、不安でいっぱいになると断崖絶壁、足を踏み外して底の見えない奈落に落ちていくような気分になる。

ぼくのお店では三線体験(有料)、三線販売、沖縄民謡ミニライブ、民謡関連の楽譜とCD、ちょっとしたお土産、沖縄的な飲料の販売をした。メインは体験と三線の販売。チラシをつくりHPをつくりブログを描き内装をDIYでつくった。やちむん通りの三線屋さんに必要な三線の本数も揃えてもらった。あらゆる準備が整って、年末年始の観光客が増える直前に三線体験「音泉茶屋」をオープンした。小さなお店だけど、お客さんに思いっきり楽しんで沖縄を味わってもらえる店をつくった。

冬休み期間ちらほらと三線体験のお客さんが入った。90分間1500円でかなりみっちり我慢強く教える。楽器経験もなく全く弾けなかった人が三線を弾けるようになる。体験に来たお客さんは大概三線購入に結びついた。そこはぼくの狙い通りだった。三線は字の如く、弦が三本しかなく伴奏もメロディラインを単音で鳴らすだけなので、楽器経験がなくても誰でも一時間もあれば簡単な曲が弾けるようになる楽器なのだ。ぼくがお客さん用に用意したのは「てぃんさぐの花」「安里屋ゆんた」「十九の春」という有名な三曲で弾くだけなら「てぃんさぐの花」が一番簡単だ。(歌は大変奥が深くて難しい)

三線体験が三線購入に結び付くというのは狙い通りだったが、いかんせん入店が少なかった。来店したお客さんはHPかブログを見てくれたお客さんで(それはとても嬉しかった)国際通りを歩く観光客を引っ張ることが出来なかった。通りまでチラシを持って呼び込んだり、三線をもって歌ったりもしたが駄目だった。みんな既に目的のお店が決まっているのだ。来る前にガイドブックやネットで行きたいお店、場所を決めてくる。お金の予算割も決めてくる。断崖絶壁が迫ってくる。果てしない暗闇が近づいてくる。

ぼくはうまくいかなくても一年はなんとかやろうと思っていた。貯金もそこまでは何とかなる。観光客がとてつもなく増えるG・Wそして梅雨時期は減るけど夏休み。夏休みになれば軌道に乗せることが出来るかもしれないとまだあきらめないでいた。

少ないながらもお客さんの体験風景をブログに載せて更新し、チラシをホテルやレンタカー屋さんなどに置いてもらった。

1月の半ばから2月はほんとうにぱったりという感じだったが、3月に入ると少し上向いてきた。上向いてきたと言っても採算レベルにはとても行かない状態ではあったが少し希望が戻ってきた。春休みになれば観光客が増えるしG・Wも近づいてくる。冬の間、絶望的な気持ちになったりもしたけど、少し明るい気分になっていったところ、2011年3月11日、東北が激しく揺れた。

ぼくはそのとき、ツイッターを見ていたのだと思う。(もう随分ツイッターは見ていないのだけど)衝撃的な映像が飛び込んでくる。津波が全てを覆い流し去る。そして、原発が爆発した。広島の原爆の絵と同じどくろ型の爆炎だ。頭が真っ白になる。心がざわついてあわてふためいた。自分の実家がある神奈川も嫁のお母さんが一人で暮らす東京も大きく揺れていた。

嫁はお母さんの心配をすごくするようになった。両親は嫁が小さい頃に離婚していて母子家庭で育っていた。ここは東京から遠く離れた沖縄だ。ずっと二人で暮らしてきて歳を取り体もあちこち痛くなってる母親が心配で仕方なく、口からはその事しか出なくなっていった。ぼくらは取り敢えずお互いの家族に水を大量に送った。ぼくの神奈川の家族は両親と姉家族が二世帯で暮らしていてそれほど心配はなかったが、嫁のお母さんは鹿児島の兄の勧めで大隅半島に約40年ぶりに引き上げることになった。

東北の地震は沖縄の観光業界も大きく揺らした。関東以北から来る予定だった人たちはキャンセルが増た。ぼくは決断した。お店を閉めて鹿児島にぼくらも渡ろうと。お店をこのまま続けても上手くいくように出来る目算はかなりないし、嫁が情緒不安定すぎる。予約が入っているG・Wまでは続けてそこで終わりにしよう。嫁は沖縄観光客が一番多い夏まではと言ってくれたけど、引越しの事を考えるとそこまでやると貯金が尽きる恐れがあった。

2011年5月、三線体験「音泉茶屋」最後の日、とても小さなお店だったけれど十数人のお客さんが入ってくれた。障害者施設の旅行で引率の方とそこの利用者さん達がぼくのミニライブを聴いてくれた。ぼくはぼくの全身全霊で魂を込めて歌った。

2011年6月末、あらゆる片づけを済ませて、鹿児島行のフェリーに乗った。それ以来ぼくが沖縄の土の上にたったことはない。

   オキナワの頃 完

今回も読んで頂いてありがとうございます。また、「オキナワの頃 其のイチ」から読んで頂いている方には大変感謝申し上げます。経営というのは本当に難しく起業して成功している方には尊敬の念しかございません。ぼくが駄目だったのは起業するにあたって、まず何を考えなくてはならないのかをまったくもって分かっていなかったことだと思います。他、細かく挙げればきりはありませんが。コロナのせいでますます独立起業、経営が難しくされてしまっている世の中。そんな方たちの力に少しでもなれたらと思います。

これにて、「オキナワの頃」は終了ですが、まだ少し沖縄の事を書きたいこともあるので、時系列関係なく書くことがあると思います。

では、皆様、今日も良き日を!!

追記、「オキナワの頃」をマガジン化しました。其のイチから八まで読みやすくなってます。宜しくお願いいたします。

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