「目に見えないもの」の精神史−ユニバーサル・ミュージアムから人類の未来へ 広瀬浩二郎著を読みながら。今回も「見ること」3次元性、4次元空間を考えていきたいと思います。盲目の民族学者広瀬浩二郎さんの文字に触れながら🌟
Xにてこちらの本が目に飛び込んで来てから即買い。
国立民族博物館の職員にして民族学、文化人類学を研究する盲目の広瀬浩二郎さんが魂込めて書いたこちらの本。目が見えない方の文字に触れてると思うとゾクゾクします。
光の加減で見にくい部分もありますが、本をそのまま載せさせていただきながら、広瀬さんの言葉をピックアップしていきたいと思います。
みんなに読んで欲しい良書!
是非ポチッといってもらいたいものです📖💫

ぼくのヌーソロジー的視点を絡めながら、読み進めてまいりまーす🌟🌟🌟
ぼくの部分は細字、本書からの引用は太字となります。
BGMはこちらでどうぞ♪🎄
目を、視覚を使わない方がみる世界とは!?

13歳で完全失明したとのこと。
近代化とは目に見えるものが目に見えないものを駆逐するプロセス。
神話などを見ると近代化以前から目に見えない世界を穢れとし端に追いやってきたが、近代現代を経てどんどんホワイト化していく。さらにはあらゆる事は脳内の出来事として閉じ込めようと。。。

かつて人類は全身の感覚を駆使して自然と向き合い世界と触れ合っていた。
五感六感を駆使して空間と生きる。空間として生きるという事が遡れば遡るほど出来ていたのであろう。文明化はそれを捨て去った。それは良き面ももたらしたが悪しき面ももたらしている。

博物館とは見学する場所なのだ。と再認識させられたと言える。幸か不幸か視覚の殿堂ともいわれる博物館で「見て学ぶのが」困難な全盲者が働くこととなった。
著者広瀬浩二郎氏は大阪の国立民族博物館にて勤務しながら研究しているようだ。民博には是非行ってみたいところだ。

「心=目に見えないもの」の大切さを訴える漱石文学は今なお変わらぬ魅力と普遍性を有しているのである。
『こころ』とは視覚絶対の「前提をひっくり返す」重要性と必要性を僕たちに教えてくれる作品として読解する事も出来るだろう。
ヌーソロジーでは心こそが見えてるものとなる。
目の前が心。見えてないのは他者空間=言葉、なのだが、広瀬浩二郎さんは視覚に縛られていない。目で見るという事から自由であるが故に、心というものの存在を「前」に捉える事が出来ているのであろう。そう、ひっくり返さねばならないのだ。

瞽女は外界を見る代わりに、内界を感知する目を開いた職能者だった。
新潟を中心に瞽女という盲目の旅吟遊詩人が日本にはいた。男だったら琵琶法師である。

「昔、ここを歩く際、目印ならぬ足印にしていた道路の凹凸が舗装工事で平らになり、なくなってしまったんだ」
「凹凸を補正、排除する平坦な人生なんて、なんだか味気ないよな」
凹凸、現在の人間は4次元空間の中を3次元性で生きている。そこが4次元だとは気づかずに。
瞽女は彼女たちなりに人生を楽しみマジョリティとの違いを面白がっていたのではなかろうか。「かわいそう」でもなければ、「頑張っている」でもない等身大の瞽女の姿を描きたい。
ぼくら健常者は盲目に限らず、障害者をかわいそうとか頑張っているという目で見がちだ。彼らは彼らであたり前のように生きている。
ぼくらが頑張ったりするように彼らも頑張る時もあるだろうし、ぼくらがサボるように彼らもさぼる。
著者は健常者からの枠にはめようとする視線を嫌うのだ。その視線の枠を打破しようと人生をかけていると言ってもいいと思う。

彼女たちの内奥から闇が体外へ闇が拡張する。闇は創造の源泉。瞽女が歩いた未知なる道から、目に見えないものとの対話が始まる。歩くとは探索、開拓すること。彼女たちの心魂が風を感じ風を起こす。触角を育て、世界とつながり、世界をつなげるために、瞽女は今日も歩き続けている。
広瀬氏は詩人でもあるようだ。生まれた時から盲目の人は光を知らない。後天的に盲目となった方は光のある世界の記憶と闇の世界の差異を全身で感じながら生きることになるのだろうか。

言葉は音の塊。文字では言葉の深さを記録できない。口から耳へ、体から心へ、壮大な叙事詩、物語が世界を震撼させる。物に語らせる芸と術、物の声を聞き取る職能者を詩人と呼ぶ。
物に語らせる。物の声を聴く。
!!!広瀬氏も四次元の世界、《物》とは何か分かっている方のようだ。盲目の世界とはどんなだろうと関心を持って買った本に自分が辿り着こうとしている世界の先駆者と出会うとは思わなかった。感動である。
全身の毛穴から飛び出す触角は、五つの「覚」、視、聴、嗅、味、触を統一、統合する。
ヌーソロジーではこの五つの「覚」を統合しているのが、最近ぼくが書いているADS、DS、CFTのDSの部分になる。この五覚に記憶(その五覚を持続させてワタシを私たらしめているもの)を含めてDS空間。
点から線、線から面、面から立体、さらに四次元の宇宙へ。
おお、やはり、広瀬氏は気づかれていた。いや、目で見ることがなくなった時から、3次元性の世界と四次元空間の世界の差異に気づいたのだろうか。

触角センサーは人間誰もが持っているものです。
現世人類は他者の言葉、他者の空間に閉じ込められて、このことを忘れてしまっている。

「誰一人取り残さない」この言葉はSDGsのスローガンともされています。もちろんいい意味で使われていますが、この理念を掘り下げてみると、誰が誰を「取り残す」のだろうという疑問が出てくるのではないでしょうか。
広瀬氏はこういうところにも非常に敏感である。現代人がスルッと読み流してしまうようなところにも彼の鋭敏なセンサーは違和感を感じ取る。

目で見ることとさわることの最大の違いは、対象物との距離です。
当たり前のことだかこういうところにも差異は潜んでいてそれに気づくことは世界の秘密に近づいていくことなのだ。

物理的距離と精神的距離は表裏一体。
言葉による概念、3次元性が物理的距離を作り出す。
「前」が心になれば距離も大きさもない。ぼくらは本当はこの重畳した世界を真ん中の身体で生きているのだ。

視覚は受動的になりがちなのに対し、触角は手と身体を動かすので情報入手が能動的。
この受動的視覚がヌーソロジーで言うところの他者視線化となる。見ることも触ると同じく、その物の側で知覚しているという事が出来れば、受動的視覚は能動的視覚に変わるだろう。

作品の背後には作者がいます。触角鑑賞は作者の制作を追体験してるといえるのです。作者の手と鑑賞者の手が重なり、そこから目に見えないものがじわっと伝わってくる。物の背後にいる人をどれだけ感じることが出来るのか。
物が自己と他者のあいだでその両者を繋ぐ。究極的には《物》がぼくら人類を繋いでるのだ。

光/闇の二分法、近代的な二項対立を乗り越える。
善と悪、光と闇、陰と陽。目が見えようが見えなかろうが二元的な見方をぼくら人類は卒業しなければならない。陰の中に陽があり陽の中に陰がある。
物理的にではなく四次元の精神の世界の位置を取り戻すことが、その二項対立の枠を乗り越えることになる。いくら対立する反対側を力でねじ伏せようとしても、また新たな2項対立を生み出すだけなのだ。

目に見えない光は未開の沃野。
これは視覚使用者であるぼくらにはなかなか辿り着けない境地であろう。が、古来よりの瞑想やそれと類似するようなものもその未開の沃野に幾人かの聖者を連れて行った。ヌーソロジーではこの目に見えない光は《生成の光》と呼ばれるものになると思う。

目に見える世界は小さく、人間の視野は限られています。広大かつ深遠な「目に見えない世界」が大海原だとすれば「目に見える世界」は大海に浮かぶ小島なのです。
これぞ、非局所と局所の感覚。3次元は非局所である四次元空間の中の非局所的局所なのである。
小島はヌーソロジーの量子力学的には波動関数の崩壊、コヒーレンス状態が崩れたデコヒーレントなのである。

身体知。
いい言葉である。言葉で知る知識、感覚でうる経験的知識。それを身体に染み込ませる事が身体知であろう。
瞽女、故杉本キクイさん。

作曲とは音の川の中から聴くべき音を掴みだしてくること。
作曲家武満徹氏の言葉が紹介されているが、わかっている人は本当にいるのだと思う。
「私は作曲という仕事を無から有を形づくるというよりは既に世界に偏在する歌や声にならない呟きを聴き出す行為なのではないか」
芸術、アートの世界に生きる人達はやはり感受性が数段優れている。しかし、これは芸術家だけがやっていることではなく、ぼくらも四次元空間という記憶の海の中の流れ、響きから、小島を紡ぎだして生きていると言える。勿論ぼくら一人一人でその小島を創っているのではなく、視覚の外にいる《他者》、《物》との共同作業なのだ。

米は単なる慰謝の表明ではなく、目に見えない世界を共有する連帯の証。
いくつか前のぼくの記事にも載せたが、米は全ての方向性を持つもの。食品、エネルギーとしてだけでなく、土地と人とを結ぶ役割も果たしている。

未開人の言葉の中には未開人の魂が住んでいる。
ぼくらが何気なく使う言葉。
それは何処から生まれてくるのか。言葉以前にあるものとはなんなのか?
ものや自己と他者の魂の交流が響きを生み出し、それがこの表象世界にに各言語となって送り出されてくる。アイヌの人々はそれに気づいていた。
アイヌの言葉以前にあるものと日本人の言葉以前にあるもの。言葉の奥に隠された本当の意味を見いだしていくことも大事なことである。

《もの》の中に入る
という事を日々探求しているぼくにとってココは本当に衝撃的な部分である。
入=モノと繋がること、主体と客体の境界がなくなり、モノが体内に入り込む
ヌーソロジー提唱者である半田さんはものの中に入るという表現をする。主体と客体の境界がなくなり、というところは主客一致という言葉が当てられている。モノ側がこちらに入り込んでくるという表現に出会うのは初めてであった。
ここは視覚使用者と不使用者の差異ということだろか。
ものの中に入るということはものが入ってくるということでもあるのだ。
そうここで3次元性の距離は相殺される。距離ゼロの四次元空間、精神の世界である。
この本を読んで広瀬浩二郎さんの言葉の数々はヌーソロジーと共通するものが沢山ありぼくはとても驚いた。広瀬さんは社会的逆境をひっくり返し(反転)
自らの全身全霊で、世界をもひっくり返している。
世界を世界させている。。。
もっと紹介したいところはあるけれど、ここらにてぼくも力尽きようとしている・・・
久々に長くなりました。
本稿をもって今年最後の投稿としたいと思います。
今年一年、お付き合いありがとうございました!

最後に最後の瞽女と呼ばれる小林ハルさんの動画にて。
以上です!
よいお年をお迎えください🌈
ナマステ✨️🐉🐍
🌟🌟🌟 ☀️☀️☀️ 🐳🐳🐳 🌈🌈🌈
