書くということ
ぼくが始めに書き始めたのは、20歳の頃だ。高野悦子著「二十歳の原点」という日記小説を読み、その影響を受け大学ノートに日々思ったこと感じたこと考えたことを書き始めた。
ぼくは思うところを感じたものを赤裸々に綴った。勿論、誰にも見せるつもりはない。もし他人に見られたら死んでもいいと思えるくらい恥ずかしい事を書いていた。
29歳にして沖縄に移住した時、神奈川の仲間ともコミュニケーションを取りやすいようにとmixiを始めた。日記も使いながら、SNSも使い始めた。
日記は特に他者というものを気にせず書いていたが、mixiは最初から見られることを前提に書いた。
住んでいた竹富島の景色や離島の生活、仕事。mixiは楽しかったし、同郷の仲間と離れた寂しさを癒やしてくれもした。そこでの発信を見て神奈川の友達も沖縄に遊びに来てくれたりもした。
SNSはやがて海外からXやFBが入ってきて、多くの人が親しむようになる。ぼくは結婚を期に自分のためだけの日記や自筆の手紙から離れてSNSオンリーという形になっていった。
ぼくにとって言葉を文字にして書くということ、文章を連ねていくことは楽しい事だった。
自分の書いた言葉を連ねた文章にリアクションをもらえたり、コメントが入ることは嬉しい事だった。
スマホを誰もが持ち、SNSやブログはさらに多様化した。AIの登場により書き手もさらに増えたように思える。
ぼくは長年自分の言葉を書くということで綴ってきたせいもあるのか、AIとの対話をそのまま載せた記事は好きではない。
ぼくもAIを使うし、記事を書く為にAIを使って自分の考えを深めることはいい使い方だとも思うが、実際、記事を投稿する時にはその対話を自分の言葉に還元してから記事にした方が読まれるのではないかと思う。AIは誰もが使う時代だし、AIの口調も見慣れているから、記事にAIの言葉が載ってれば、正直辟易としてしまう。
勿論、こういうスタイルでやりたいんだという方に文句を言うつもりもないし、みんながみんなぼくみたいに感じてるわけではないとも思うが、ぼくが読みたいのはその人自身の内在から出た言葉で綴られた記事だということは間違いないと思う。
SNSやブログに書くということは、最初から読者がいる事が前提だ。
書くということだけなら日記でいい。自分しか見られない鍵付きの日記に書けばいいし、鍵が付いていないなら慎重に隠す場所を探した方がいい。
しかし、他者の目に触れる場に書くということは、
その目を意識せざるを得ないし、その目を利用することで書く内容や自分の理解を高めることも出来る。逆にその目を気にしすぎると自分を見失うことになりかねないと思う。
言葉には魂を宿らせることが出来る。逆に言えば魂の営みから言葉というものは現れてくる。ある記事が読者である他者に届く、共振するということは、書いた文章に心がこもっている時だ。
SNSやブログで発信することは良き面もあり、悪しき面もあり。AIを使うことも然り。
時折、自分の気持ちの位置を確認しつつ、書く意味、投稿発信する意味を自らに問いを立てていきたい。
ご一読ありがとうございました📝
