2025.5.16 運命論と因果論
心理学の講座で脳の作話機能、インター・プリター・モジュールについての話がでたので、紹介された上記の本を読み始めた。この本で出てくる脳梁を切断したてんかん患者やTMSという機械については下記の本にも詳しく記載されていたように思う。
【〈わたし〉はどこにあるのか】に決定論についての記述があったので、感じたことを書き留めておきたい。
占いを生業としていた時期があるので、決定論や運命論に自分と自分を取り巻く世界を知りたいと願うクライアントを見てきた。自分たちの運命は定められていて逃れることはできず、輪廻や因縁など魂が必要とする体験を人は経験するように生まれてきている、と考えることで自分ではどうしようもない現実を受け止めることができるのかもしれない。だが昭和生まれのわたしの青春は、どうにもならない運命に抗って自分の道を切り拓くようなストーリーが溢れていた。スターウォーズやプリティウーマンだ。だが占いに来る人たちを見ていると、自分を知りたい人と、自分が置かれた立場や状況の中での立ち振る舞いのヒントのようなものを求めに来る人が多いように思う。抗えない宿命があり自分で運命を切り拓くのではなく、時代という大きな流れの中で自分を見失わないようにするために占いを使う、クライアントからはそんな印象を受ける。決定論や運命論は必要とされているのだろうか。
一方で【〈わたし〉はどこにあるのか】に記載されている決定論のようにチョコレートケーキを食べるのもテストのカンニングもすべては20億年前から決まっていたと考えるのは、規制の多い現代社会でストレスとネガティブな情報にさらされ続け、SNSやYouTubeで思考をストップさせたい人にとっては受け入れやすいのかもしれないと思うことがある。自我を手放し自分の上位に誰かを置いて、指示通りに動くことで失敗もなければ満足感も少ない生活を送っているように見える若者を眺めていると、決定論は諦めの理由になるのではと考える。どうせ、自分なんか、と嘯きたくなるのかもしれない。
YouTubeで偶然こんな動画を見つけた。この動画の後半で佐藤優という方が運命論と因果論について語っている。話はトランプ大統領がどうこうと続くのだが、それは置いといて、人は運命論で動くタイプと因果論で動くタイプがいるという佐藤優氏の話はとてもわかりやすいと思った。仏教は因果論なので、坐禅をしに寺に通ううちにわたしも因果論的な思考になった可能性もあるが、科学信仰は原因と結果を説明するので原因思考の現代人はやはり因果論で動いているのかもしれない。
話は戻るがインタープリターモジュールというのは、脳の作話機能のことらしい。言った言わないの水掛け論でないが、昔の記憶が事実だったのか今となってはわからないことが多いと思う。今回紹介した本ではなかったかもしれないが、脳は隙間を埋めようとする性質があると読んだことがある。右脳と左脳の繋がり(脳梁)を切断したてんかん患者は、右目で見たものと左目でみたものの繋がりがわからず、脳が理由をこじつけてなんとか説明しようとするらしい。それを同じ働きで断片的な記憶を繋ぎ合わせてひとつのストーリーを作る機能をインタープリターモジュールと呼ぶ。インタープリターモジュールについては【〈わたし〉はどこにあるのか】に詳しく書いてあった。作られたストーリーが真実かどうかはさておき、脳が紡いだストーリーを土台に人格は形成され、それを運命論的に解釈したり因果論的に説明したりするのは生きる時代の流行りもあるだろう。一神教の神さまが強ければ運命論的、科学が強ければ因果論的にインタープリターモジュールが記憶を紡いでいく。
個人的には運命論でも因果論でもいいのだが、なにぶん精神的な土台が不安定なところで生きてきたからこそ、人はなぜ生きるのかという問いを何十年も抱えて過ごすことになったのだと思う。占いや坐禅に続き、心理学の世界に足を踏み入れたのも必然と言えるのかもしれない。だからというわけではないが、運命論で因果論でとすぐに話にケリをつけるのではなく、そういうこともあるのかもしれないと話を濁し、しっくりこないこと、わからないことを抱え続け、考え続けるようなひつこさを持てると人生が豊かになる気がしている。
余談だが、今回紹介したふたつの本はいずれも<わたし>や意識が脳から生まれるという前提で医学的な検証を重ねた本だった。西洋医学的な見方ではそうなのかもしれないが、個人的には脳だけが<わたし>という意識や概念を作り出しているわけではないと感じている。この感覚を上手く説明している本に出会えたら、また紹介させていただきたい。
