我がアジア愛 | その起源と、終わらぬユルさ探しの旅
Hola, テレサです。
いまやすっかり「アジア大好き人間」な私ですが、最初からこんなに東南アジアにどっぷりだったわけではありません。すべての始まりは、2018年に大学の友達とふたりで行ったバンコク旅。学生御用達のHIS格安ツアーで、初めて降り立った東南アジアの地。それが、わたしのアジア愛の原体験でした。

正直、当時は海外旅行に慣れているわけでもなく、そもそもスマホがあるかないかレベルの時代。地図アプリなんてなくて、「地球の歩き方」に添付されたちいさい地図とにらめっこしながら移動する日々。しかも、ホテルはツアーに含まれている“現地フリープラン”スタイル。今なら余裕で個人手配するけど、あのときはもう、いちいちが冒険でした。

旅の途中でチャーターしたトゥクトゥク。自分たちのオーダーした好きなところに行けると大喜びしていたら、案内されたのはまさかのスーツ屋→宝石店を経由するコース。学生の財布事情なんてお構いなし。明らかにこれはドライバーがマージンを得るパターンで、気づけば「ここじゃない」「ストレートに○○に行くって言ったでしょ!?」の応酬に。言葉も通じきらないし、結局険悪なムードで下車。東南アジアの洗礼、早々に受けました。
さらには、アユタヤかどこかからバンコクに戻るバス。市街地で降りそびれ、どこかもわからない真っ暗なバスターミナルに放り出されたことも。日本の感覚だと、真っ暗で本当に怖かった(一応街灯は灯っているが)。暗闇に慣れてなさすぎて、静かにパニック。旅ってこういうときに「生きてる!」って感じるのかも…と、なぜか落ち着いてきたときにはテンションが上がっている自分に気づきました。心臓のドキドキと、そのあとどこかのフードコートで食べたマンゴースティッキーライスのこと、まだ覚えてる。10年以上経つのにね。
そんな経験が、結果的にわたしの中に“旅スイッチ”を押してしまったんですね。気づけば時間ができるたびにアジア方面へふらっと出かけるようになっていました。

社会人になると、当然ながら休みのタイミングはバラバラ。友達と予定を合わせるのも難しくなり、次第に一人旅へシフトしていきました。2回目のタイ旅は、まだ新卒のとき。たった4日間の連休を絞り出し、ひとりで弾丸旅。せわしなかったけど、それでも「また来られた」「ひとりでできたもん」という事実が嬉しくてたまりませんでした。
そして記念すべき3回目のタイは、2020年。韓国や台湾などちょこちょこ挟みましたが、当時3歳になったばかりの息子を連れて、2人だけで行ってみたんです。勤め始めたベンチャー企業で有給もまだろくにないタイミングで強行突破。泊まった宿は当然のように激安で、水しか出ないシャワーに息子は呆然。

初日はハエすら払えず泣きそうだった息子が、数日後には余裕で屋台ごはんをモリモリ食べていたのには思わずニヤリ。こういう不自由さにあえて放り込むのって、ある意味親であるわたしのエゴかもしれない。でも、便利すぎる日常に時折ヒリヒリする体験を差し込んでおきたいという思いもあって。日本って、ほんとうに便利で快適で、安全で、正確で、整っていて…それは素晴らしいことのはずなんだけど、ときどき、ふと立ち止まってしまう瞬間があるんです。「わたし、人間としてこれでいいのかな?大丈夫か?」って。
朝起きたらスイッチ一つでお湯が沸いて、電車は秒単位で来て、ボタンを押せばものが届いて、行列もきれいに並んでて、ミスをすれば即謝罪。そんな“完璧な社会”の中で生きていると、自分の感情や失敗やゆらぎまでもが「非効率」として処理されてしまうような気がしてくる。ぜんぶがスムーズに進みすぎて、自分が“人間”であることを忘れそうになる。息をひそめて、まちがえないように、はみ出さないように…それって、便利なようでどこか息苦しい。だからこそ、ちょっとくらい崩れていても許される場所に行きたくなるんです。
フライト抑えて、「いや、私タイ行くし」って唱えると、どんなに仕事で白目むいててもがんばれちゃう。完全に“ニンジン効果”です。

そして最近はラオス旅。ここでもまた、“ユルさ”と“予想外”の宝庫で、アジア愛がさらに深まりました。
たとえば宿泊していたホテルで、鍵をうっかり部屋の中に閉じ込めてしまったときのこと。フロントに駆け込んで「助けてください!」と訴えると、スタッフはニコニコしながら鍵の束をドサッと渡してきました。「この中にあると思うから、自分で開けてね」って。えっ!? セキュリティの概念、どこいった? でもなんかもう、笑っちゃうほど大らかで、その緩さにすっかり癒されました。

ラオス名所の青い池 Blue Lagoon 2では、地上6メートルぐらいの飛び込み台があるのに、監視員なんてゼロ。みんなキャッキャ言いながら自由に飛び込んでて、「事故起きたらどうするん?」と一瞬考えたけど、すぐに「ま、いっか」と思って自分も息子と2人でジャンプ。風を切る感覚と、着水のズドンが最高に気持ちよくて、「ユルいけど自由」「自己責任」ってこういうことか、と納得。息子の勇気には本当に感動したな…

ラオスの寺院でも思わぬ光景に出会いました。お坊さんと信者が真剣な面持ちでやり取りしている足元で、猫がスヤスヤお昼寝なう。神聖で厳かな空気の中に、ゆる~い日常が溶け込んでいて、そのアンバランスがなんとも心地よい。日本じゃ考えられない、この“生活と信仰の共存”感に妙に感動してしまいました。

バイクを借りたときも、「何番のガソリン入れればいい?」と聞いたら、「ガソスタ行って金渡せば大丈夫」ってだけ言われた。せ…説明、雑すぎん? と思ったけど、そのおおらかさにふっと肩の力が抜けました。たしかにガソリンスタンドではなんとかなったし。ちなみに、道端でペットボトルにガソリン入れて売ってる風景も、あれはもはや文化遺産ですな。可燃性のもんなのに…道端…日本じゃ即通報レベルだけど、ラオスではふつう。むしろ微笑ましい。
こんな風に、東南アジアには“ちゃんとしてないけど成り立ってる”日常がたくさんある。予定通りにいかないからこそ出会える光景。正解やマニュアルに縛られない自由。だから、私はアジアがやめられない!
時間に厳しく、規律に忠実で、ミスが許されない日本社会。その中で「ちゃんと生きよう」と頑張っていると、いつのまにか呼吸が浅くなっている。でも、アジアに行くと、その空気がふっとゆるむ。ゆっくりでいい、多少ズレてても大丈夫、って許しあえてるかんじ。

旅をすればするほど、アジアの“ユルさ”が、わたしをほどいてくれる。
たぶん、これがわたしのアジア愛の根源。

