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パシリとしての自分

基本的に僕はパシリでもあります。
人に犬のように働けとか、
ボールボーイのように振る舞えとか、
言われないまでも、そう扱われたことはあるかもしれません。
それはそれである程度なら、構いません。
もし、給与が払えなくても、
それは時給が発生していなければ、
構造的に無理でもあり、
いわゆる資本家でもない、 
無産階級からすれば仕方のないこととも言えるでしょう。

ここで言う無産階級とは何でしょうか。
僕としては、夢破れ、諦めを持っているけども、
生きていて、それなりに見識はあり、
無能ではなく、
それなりに有能であり、
世間をそれなりに知った、もしくは、知っている階級のこととします。

僕はパシリではあるけども、
犬ではありません。
でも、犬のようかもしれません。
人に必要だと言われれば、
基本的には喜んで従います。
人を疑りたくはない。
それは建前だけでなく、
本音でもそうです。
だけども、科学は人を疑え、とも言います。
真理は人が必ずしも把握しているものでもなく、
事実のなかに埋もれているのかも知れません。
だとすると、それをほじくるのは誰の作業なのでしょう。
僕は専門家という言葉があまり好きではありません。
しかし、専門家がリスクを持って、何かに取り組んでくれるなら、
それは甘受して、
自分の自主性というか、エゴも抑えなければいけないとも思います。
自分は素人に過ぎません。

僕は伝令でもありません。
パシリではあるのですが、
僕の情報はそれなりに不正確です。
人がそれを当てにしようとするなら、
そこにリスクはあると思います。
僕はリスクの除去にあまり注意を払ってはいません。
いい加減です。
伝令だった有名人として、ヒトラーがいます。
彼は、自分をドイツにとって必要な人間だと思ったのでしょうか。
戦場では命の危険を犯しながら、
働いた訳です。
まあ、でも、僕は彼のようにはなりたくありません。
それにお国柄が違います。
ドイツを知らないし、ドイツ人を知らないし、
ユダヤを知らないし、ユダヤ人を知りません。

僕が目安としたいのは、やはり信長や秀吉や家康でしょうか。
彼らは日本人です。
その意味で、彼等は僕には分かりやすいです。
信長は先見性がありました。
秀吉は信長のパシリから異例の出世を遂げました。
それはどれくらい意外なことだったのでしょうか。
秀吉を知っている人なら、
あの人なら出世すると、
そう感じていたのかもしれません。
彼の評価は難しいです。
家康はどうでしょうか。
家康は結局、関ヶ原でのギャンブル的な戦いを嫌い、
その後は確実に勝てることにこだわったのでしょうか。
大阪の陣はそのために豊臣家には不利になったのでしょう。
家康は結局、戦争のない世の中を作ることには、
大きく寄与したのではないでしょうか。

振り返りますが、
僕にはナチスの問題は難しいです。
できれば、理解したいのですが、
何とも言えないところです。
でも、分かる範囲で、考えてみたいと思います。
その頃のドイツは経済的に追い詰められていたのでしょうか。
もう個人の努力では豊かになれない。
だから、国家が主導する形で経済を運営するしかないと、
しかし、ユダヤ人のような、いわゆる、資本家は信用できない。
しかし、別に排除したいのでもない。
でも、排除したいのかもしれない。
その線引きは曖昧でしたでしょう。
しかし、その頃のドイツ国民としては、
そんな問題にまで国家に責任をとってもらいたかったのでもないでしょう。
ユダヤ人排斥の機運はなきにしも非ず、
としても、その命まで奪いたいのではない。
しかし、彼等を立ち退かせる訳にもいかない。
国家は彼等を強制的に立ち退かせ、
いくところもないからと、
強制収容所に収容しました。
そうなると、これは不自由を強制したことになり、
やはり、問題です。
彼らの生命まで奪うことになるのはなぜでしょうか。
それは明らかに戦争犯罪です。
戦争の傍で追いやられていた事実であり、
そんなことまでは普通のドイツ国民は知らなかった、あるいは、知らされていなかった、
しかし、考えれば、それは分かっていた、
そんな感じになるのでしょうか。

第二次大戦のときには、
アメリカでは日系人が強制的に立ち退かされ、
強制収容所に収容されました。
しかし、虐殺は起きませんでした。
しかし、虐殺が起きなかったから、それは正しいことかと言われれば、
それは違うことでしょう。
よく分かりませんが、
色々と世評を探る限り、
こんな感じの意見があり、
僕もそれを正しいものとして認知しています。

で、次は何を語るべきでしょうか。
個人的に次に気になるのは、ニーチェです。
ニーチェは人に超人になるように説いたようです。
ただの人であっては、世間に流されるだけであり、
そこから自立したいのなら、
それは自分の足で立って、
世間をあまり当てにせず、
自分の感覚で持って、自分をコントロールし、
自分の人生に取り組んで生きなさい、
とか、そのようなメッセージを発していたのではないかと思います。
彼自身は自分を非業の死から救えなかったのかもしれませんが、
人間50年ではあります。
そこまで進んでしまえば、
そこからの景色は限られています。
そこから人生の希望を無理にも考えることは難しかったのではないでしょうか。
中年の危機を過ぎても、
人生は無理難題で立ち込めているのかも知れません。
彼としては、超人として、
死は恐れるべきものでもないとか、
説きたかったのかも知れません。
僕はそこまで彼に詳しくないので、
分かりませんが、
そんなニュアンスも感じられなくはなく、
そのためにいわゆる武士道精神というか、
武士道とは死ぬことと見つけたり、
とかそんな死を恐れるな、的なメッセージを嗅ぎ取ることも、よく思えば、可能なことかも知れません。

死を恐れるな、ということを考えるなら、
やはりというか、古代ギリシャの哲人、ソクラテスも思いうかべることができます。
彼の言いたかったことはこうかもしれません。
死を恐れるべきではない、
むしろ不名誉な生活を恐れるべきである。
彼は武人としても、優れた業績を示し、
戦場では友人を救ったりもしたそうです。
彼は自分が間違っているとは認めなかったのでしょう。
やはり人間50年ではないでしょうか。
そこまで進んでしまえば、もう引き返すことはできないのかもしれません。
国から毒殺を命令されても、
どうせ、それが事実であるなら、
自分を生かしてくれたのが国でもあるなら、
自分を殺すのも国である、という、哲人めいた矜持も嗅ぎ取ることができると思います。
人生とはやり直しが簡単にできるものでもないということでしょうか。
ならば、やはりというか、
年月は貴重なものであり、
それを浪費することはよくないことと言えるでしょう。
時間はそれでなくても、待ってくれないものであるし、
人間はその中ででき得る限りのことをして、
毎日を過ごすことを強制されています。 
その宿命から逃げることもできません。
歳をとってしまえば、
もうやり直しとは無意味であり、
下らない助命された意味のない月日を送るくらいなら、
死を潔し、とするのも、無理のない話だとは思わされます。

人間生きるためには死ぬ必要があるのでしょうか。
人間が生きるには、死ぬほどの覚悟があることが有利になることもあり、
そのために、死を恐れないのは、
自分が人生の主役であることを手放さない、
高潔な態度とも言えそうです。
人間はただ生かされていることは我慢できないのかも知れません。
生きることの意味を問いたくなるからではあります。
ただ無駄に生かされているなら、
それはありがたくない話であり、
しかし、世間知らずが悲観して、
すぐに自殺などにはしるなどというなのは、
社会の未整備であることを認めなければいけないと思います。
僕も未熟とはいえ、
40を過ぎたのであり、
これからの10年をどう過ごすかで、
その人生が輝くか、
それとも、くだらないものになるか、
そんなことが掛かっているのかも知れないな、
とは感じることもできます。
やはり、人間50年かも知れません。
それに至る前に悲観して、人生を捨ててしまうことは非です。
50年は生き切るつもりで、生きなければ、
いけないとか、
そんな意味にフレーズを受け取ることもできます。
できることでしょう。

終わり。

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