海辺のキャンピングカーと、もうひとつの世界〜形では届かない自由〜
かつて、相方と茨城の海へよく行っていた頃のこと。
そこには、いつも停まっている一台のキャンピングカーがあった。
何度行っても必ずいるその車。
たぶん、持ち主の方はあのキャンピングカーで生活しているのだろう。
家でもなく、旅先でもなく、日常の延長としての“海辺の暮らし”。
私はその佇まいを見て、なんとなくこう思った。
> 「この人は、そっち側の人なんだろうな」
“そっち側”とは──
社会の枠を抜けて、時間の流れも、価値観も、もう私たちとは違う、
上昇した人のような存在。
物質的に豊かかどうかではなく、
“今ここ”にいることに満ちていて、余裕がある。
私にとっては、どちらが上・下という話ではなく、
ただ違う世界線にいる人という感覚だった。
でも、最初の頃の相方は違った。
そのキャンピングカーを見て、
「仕事してないのかな」
「どうやって生活してるんだろう」
と、どこか否定的に疑っていた。
きっと、本当は羨ましかったのだと思う。
でもその羨ましさをすぐには認められなくて、
“何か裏があるに違いない”という形で距離を取ろうとしていた。
私は彼に言った。
> 「きっとあの人は、そっち側の人なんだよ。
時間の流れも価値観も違う。
良い悪いじゃなくて、ただそういう世界にいる人なんだよ」
そのとき、相方は少し納得したような顔をしていた。
そして、そのまなざしの中に、
はっきりと“羨望”がにじんでいるのを私は感じていた。
「いつかこうなりたい」
「でも自分には無理かもしれない」
そんな複雑な想いを、
その海辺のキャンピングカーは、
まじまじと目の前で見せつけてきたのだと思う。
まるで、“あなたが本当に望んでいる姿はこれですよ”と
宇宙がわかりやすく用意した現実の鏡。
だけど、私は知っていた。
あの自由に見える人のようになりたければ、
まずは意識が変わらなければ意味がないということを。
形だけを真似しても、
お金を貯めてキャンピングカーを手に入れても、
今のままの相方では、その世界には入れない。
本当の自由は、
“持つこと”や“行くこと”の先にあるのではなく、
今ここで、自分自身をどう扱うかにかかっている。
あの日、静かな海と、停まったキャンピングカーの前で、
相方の本音が、ふとあらわになったような気がした。
それは、魂が思い出しかけた
「本当に求めていた世界」
だったのかもしれない。
