藤枝静男 『田紳有楽』 論
私は池の底に住む一個の志野筒形グイ呑みである。(中略)玄関先の池に放りこまれてそのまま住みついている身の上である。
池に沈んだ陶器が身の上を語り、金魚と交合って子を作り、人に化けて神を欺かんとする。藤枝静男によって書かれた『田紳有楽』は、漱石の洞察力と『やし酒飲み』のチュツオーラにも劣らぬ荒唐無稽さをもって紡がれていく、途方もない一遍である。
しかし本作を藤枝文学の座標上に位置づけてみると、単なるアニミズムではなく、寧ろ自身へのアンチテーゼというか、彼が愛でてきた対象物からの復讐にも見えてくる。
例えば、滓見という名の人間に化けた柿の蒂(高麗茶碗)が、聳え立つ巨木を見て次のように言う。
「亡びて土に帰るものがあれば、またかならず新生を獲得して世界に遍満するものがある。いれかわりたちかわり流動してやまぬこの世の相との出会いによって人間は勇気を奮いたたせたり無常の悟りを体得したりするのだねエ」
しかしモグリの骨董屋、磯碌億山として現世を忍ぶ慈氏弥勒菩薩はそれを
何云ってるんだ。古かろうと新しかろうと、木は人間などかまっていやしない。山の奥にひとりで勝手に生えて、時が来ればひとりで勝手に死ぬだけだ。人間とは無関係だ。第一そういう手前が焼きものじゃあないか。
と一蹴する。この世に自我を持って存在する限り、自分の目線(自己中心)でしか物事を捉えられない人間≒焼きものの価値観など、自分勝手な解釈に酔いしれているだけである。これは彼の私小説に対する、「物」の側からの痛烈な反論と言えないだろうか。
また、本作の参考資料として挙げられている西川一三の『秘境西域八年の潜行』は、丹波焼きが回想するチベット文化・歴史や、サイケンラマと山村のエピソードの基底を成すと思われるが、土着宗教的な戒律思想が掘り下げられているわけではない。
寧ろ弥勒菩薩=億山が睡眠導入剤として読む『ススルータ医学大辞典』のような古代インド外科学や、彼に「その哲学もいずれは擦り減って、次に現れる法で滅びるのだろう」(p,108)と切り捨てられる、補陀落渡海や般若心経と同じく、普遍性を持たない不完全なものとして、(物語上輪廻的な立場をとっている本作の世界では下部に)等しく位置づけられる。
では世界の本質を捉えた完全な哲学とは何か。空転空転、輪廻が廻り続けるこの世にそんな物はないのである。
そもそも池の下で「万物流転生滅同根」と唱え、悉皆成仏、人間の価値観の外側にいる者たちですら、常に来世・未来を見据えて動き回り、今を相克すべき形而上のものとしか見ていないではないか。
しかし骨董屋に化けた菩薩だけは、現世のこうした営みに疲弊し、萎びた金玉を引っ張りながら「エーケル、エーケル」と呟く。もし真理に最も近いものを挙げるとするなら、これである。
二坪の窪地を花崗岩で囲って八十センチ四方の池という名の小宇宙を創造し、そこに沈殿する骨董品やら、金魚やらを世話する彼は、また「ププー、プププー」と骨笛を吹き、「ペイーッ」と唱えることで、藤枝文学における「祝祭的な音の反復」を創り出す存在とも言える。
この働きについては後に触れるが、『田紳有楽』の本質的な美点は、湯呑みも丹波焼きも、阿闍梨ヶ池の主さえも全て偽物、みな「まがいもの」として在ることだと思う。それは所謂ストレートな純文学とは程遠く、日の目を見ない「私小説」に殉じた藤枝静男の作家性とも通底している。
同一種族だけで営まれる我々人間の生活とは異なり、彼らの間には徹底した階級差があり、その存在者間の溝が、下克上めいた下心を生むのだ。
しかし一方で菩薩の磯碌億山は、生きるために自足し、老いていかねばならぬ人間など辞めて、茶碗にでも生まれ変わりたいと願っている。彼にとって人間は茶碗以下なのである。
無論それが安易なニヒリズムに陥らないのは、彼と同じく人格を持って登場する焼きものたちによって存在が寓話化されているからだ。
彼がいよいよ転生に向けて動き出そうという時には旧知の妙味菩薩と大黒が現れ、ラストの有生無生、まがいものと本物すべてを包み込んだ上位存在たちのポリフォニーへ展延していく。
ここでは『一家団欒』のラストのように感動的な「音」の反復によって、全員が人称を持たない鉤括弧で括られた(それをメタ的に語る話者もいないため鉤括弧も外れていく)、同質的な存在に還元されている。だから叫ばれる「ペイーッ」という掛け声も、「オム マ ニバトメ ホム」も、その意味=効力から解き放たれた単なる空気の振動と化して、楽器とともに響き渡り、彼らの階級差はその中に溶暗していくのである。
それでも焼きものたちは、動かずとも貢物と尊敬の念(地位)を得、半永久的な生命を持つ、阿闍梨ヶ池の大蛇のような理想像を求め続けるだろう。しかし弥勒菩薩には、そんなの無駄だとちゃんと分かっている。あと五十六億五千万年生きたところで、その時分には地球自体が無くなっているのだから。
