朝食が冷める前に|短編小説
妹が帰ってくると信じて、兄は今朝も卵を二つ焼いた。
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あらすじ
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王都を覆う「天蓋」は、毎年選ばれる十二人によって維持されている。
妹ミナが十二人目に選ばれてから、一年。
兄のリオは、彼女が帰る日のために、今朝も半熟の卵を焼いていた。
今夜、第三の鐘が鳴る。
それまでにリオは、王都を守る制度と、妹を取り戻す方法の間で、一つの選択を迫られる。
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登場人物
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リオ
妹ミナの帰りを待ち続ける兄。
ミナ
王都を守る十二人目として選ばれた少女。
母
リオとミナの母。
ベルク
王都の修復炉を管理する老機関士。
セラ
天蓋中枢へ続く門を守る門衛。
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ミナが消えて一年、リオは今朝も卵を二つ焼いた。
一つは自分用に、黄身の中まで固くする。
もう一つは白身の縁だけを返し、中央を半熟のまま残した。
皿へ移すと、橙色の黄身が小さく揺れた。
左手首の白い輪が、かすかに熱を持った。
「また作ったの」
振り向くと、母が台所の入り口に立っていた。
母の目は二枚の皿を見て、その向こうにある空席へ移り、何も見つけられないまま窓へ流れた。
「今日は帰ってくる」
リオは言った。
母は否定しなかった。
二枚目の皿へ手を伸ばす。
リオの腕が先に動いた。
「触らないで」
母の指が止まった。
母の手首をつかむ寸前だった。
リオは手を引いた。
「冷めるわよ」
王都の朝を告げる第一の鐘が鳴った。
窓ガラスが小さく震える。
今夜、第三の鐘が鳴れば、今年選ばれた最後の一人が天蓋へ完全に焼きつけられる。
ミナが、十二人目だった。
リオは椅子へ座ったが、自分の卵には手をつけなかった。
空席の前からだけ、細い湯気が上がっていた。
*
母はミナの部屋を片づけていた。
廊下へ出たリオは、小さな上着を抱えた母を見つけた。袖口に薄い泥の跡が残っている。
ミナが十二歳の春、雨上がりの道で転んだ時につけた染みだった。
膝から血が出ていたのに、ミナは服の汚れの方を気にしていた。
リオはそれを覚えている。
母は覚えていない。
「何してるんだ」
「少し空けようと思って」
「何のために」
母は上着を見下ろした。
「分からないけど、ずっとこのままだから」
「今日は帰ってくる」
母は上着を棚へ戻した。
隣にあった枕を手に取り、何気なく胸へ抱く。
そのまま動かなくなった。
頬を涙が伝っていた。
母は濡れた指を不思議そうに眺めた。
「これ、誰の匂いだったのかしら」
「思い出しかけてるんだ」
「何を?」
「ミナを」
母は首を振った。
壁には古い家族写真が掛かっていた。
父と母。その前に幼いリオと、一人の少女が並んでいる。
リオは写真を外した。
「この子だ」
母は少女の顔を見た。
「この子が、どうかしたの?」
「ミナだよ」
母は名前を口の中で転がすように繰り返した。
「ミナ」
それ以上は何もつながらなかった。
玄関が三度鳴った。
戸の外にベルクが立っていた。
煤で黒ずんだ外套。白い眉。炉の油が染み込んだ指先。
「時間だ」
母が尋ねる。
「どちらさま?」
「炉の機関士だ」
ベルクはリオを見た。
「第三の鐘は待ってくれん」
*
修復炉へ続く大通りでは、東外縁区の住民が荷造りを始めていた。
審議で天蓋縮小が承認された場合に備え、夜明け前から荷車が門へ並べられている。
避難を終えた家の扉には白い布。
まだ中に人がいる家には赤い布が下がっていた。
老人が小さな墓石を荷台へ載せようとしていた。石は持ち上がらず、近くの若者が黙って手を貸す。
「あそこまで準備する必要があるのか」
リオが言った。
ベルクは歩みを止めなかった。
「必要がなければ、戻せばいい」
天蓋の外側で、黒い光が一本落ちた。
誰も住まなくなった見張り塔の上部が、音もなく崩れる。砕けた石は地面へ落ちる前に黒い塵へ変わった。
荷車を押していた人々は、その光を見なかったことにして歩き続けた。
*
地下には、今年選ばれた十二人の燃料室が並んでいた。
十一の窓はすでに暗い。
最後の一室だけが、白く脈打っている。
その奥に、人の身体が浮かんでいた。
「身体は、あそこにある」
ベルクが言った。
「燃えているのは記憶だ。芯まで燃えれば、身体を出しても中身は戻らん」
リオは左手首の看取り環へ触れた。
ミナが選ばれた夜、王宮の役人から渡されたものだ。
忘れず、弔い続ける者の証だと教えられた。
ベルクは炉の側面に刻まれた細い傷を指でなぞった。
四十本あった。
「何の傷だ」
「私が白い主弁を回した年だ」
配管の陰に、黒い鉄の輪が見える。
「黒い弁を開けば、記憶炉と増幅環が切れる」
ベルクは言った。
「残る旧い天蓋は地脈で動く。ただ、狭い」
「東区が外れる」
「東だけじゃない。いずれ街は、今の半分ほどになる」
「それでも、新しい十二人はいらないんだな」
「ああ」
リオは黒い弁を見た。
「共同提供なら、今の天蓋を残せる」
「白い弁を使うならな」
ベルクは白い主弁を指した。
「共同提供で作れるのは、お前の記憶を型にした妹だ。今ここにいる芯を、その形へ作り直す」
「元へ戻すだけだ」
「本人が受け入れればな」
「受け入れなかったら」
「今の芯をそのまま外すなら、十二席目ごと増幅環を落とすしかない」
黒い弁。
東外縁区。
荷車に載せられた墓石。
リオは左手首を握った。
「受け入れる」
ベルクは答えなかった。
リオは看取り環を引いた。
皮膚に食い込んだ輪が、わずかに動く。
もう一度強く引く。
手首が切れ、赤い線が浮かんだ。
同時に、白く脈打っていた燃料室の窓が激しく震えた。
耳の奥で少女の息が詰まる音がした。
リオの手が止まる。
ベルクが、炉の油に汚れた布を投げた。
「押さえろ」
リオは傷口へ布を当てた。
「その輪は、お前に妹を残すものじゃない」
「じゃあ、何だ」
「炉に残すものだ」
窓の向こうで、白い影がうずくまっていた。
「炉が生きているうちに錨を抜けば、あの子の芯まで裂ける。切るのは弁を落とした後だ」
ベルクは四十本の傷へ親指を置いた。
「黒い弁は最初からあった」
「どうして使わなかった」
「使わない方を選んだ」
「誰が」
ベルクは黒く染まった自分の指を見た。
「私もだ」
しばらく炉の音だけが続いた。
「設計図を評議会へ出したのは、あなたか」
「ああ」
「なぜ今になって」
「今日で炉を降りる」
ベルクは白い窓を見た。
「次の者へ、知らないふりまで引き継がせる気はない」
*
天蓋中枢へ続く第二門の前には、セラが立っていた。
黒銀の鎧。腰の剣。その柄の中に門の鍵が収められている。
門の脇では、小さな少女が水の入った桶を運んでいた。
縁から水がこぼれ、石床を濡らす。
少女は一度桶を置き、両手を振ってから、また持ち上げた。
東外縁区へ運ぶ最後の水だった。
「審議前の接続許可が出ている」
リオは書面を差し出した。
セラは封を確認した。
すぐには門を開けなかった。
彼女の姉も、六年前に天蓋へ選ばれている。
「姉さんを戻したくないのか」
セラの指が剣の柄へ触れた。
「毎日、開けたい」
それだけ言った。
鍵を回す。
門が低く震えた。
リオは通りかけ、桶を運ぶ少女を見た。
少女は再び水をこぼした。
セラも見ていた。
何も言わなかった。
*
接続空間には床も壁もなかった。
白い霧の中を、無数の音が流れている。
笑い声。皿の触れ合う音。誰かが名前を呼ぶ声。
リオの手首から一本の白い糸が伸びていた。
糸の先に、少女が膝を抱えている。
短く切られた髪。
細い肩。
「ミナ」
少女は顔を上げなかった。
唇だけが動いている。
「五……六……」
遠くで水管が振動した。
少女は少し迷った。
「七。たぶん」
「何を数えてる」
「これ」
また小さな振動が来た。
「一日に何度か来る。来ない日もある」
「俺だ」
少女がようやくこちらを見る。
「誰」
「リオ。兄さんだ」
少女の表情は動かなかった。
「知らない」
「大丈夫」
リオは言った。
「思い出せる」
雨の日のことを話した。
二人で転んだこと。
父の靴を磨いたこと。
卵の黄身をミナがいつも残したこと。
話すたび、少女の指が腕へ食い込んでいく。
「やめて」
「もう少しだ」
「やめて」
「半熟じゃなきゃ嫌だって、毎朝——」
少女の喉が大きく動いた。
口元を押さえ、何もない霧へ吐こうとする。
白い糸をつかみ、爪を立てた。
「ミナ」
少女は糸を引き剝がそうとした。
指先から白い粒が散った。
霧の奥から、幼い笑い声が近づいてくる。
リオの知っているミナの声だった。
「その子が来る」
「それはお前だ」
「違う」
「忘れてるだけだ」
少女は首を振り続けた。
「知らないものが、入ってくる」
接続が切れた。
リオは門の内側へ投げ出された。
セラが接続具から手を離す。
「何を言われた」
「混乱してる」
リオは立ち上がった。
それ以外は口にしなかった。
*
公開審議の前、母はリオの鞄から申請書を見つけた。
広場へ向かう人々の足音が、家の前を絶えず通り過ぎている。
母は紙を持ち、台所に立っていた。
「これ、私の名前?」
記憶提供の予備登録欄。
そこにリオの字で、母の名が書かれていた。
「家族が先に出すべきだから」
「私、出すって言った?」
「全部じゃない。古い記憶を少しだけだ」
「どれ?」
「母さんは、ミナのことを覚えてもいないだろ」
言葉が落ちた。
母は動かなかった。
怒りもしなかった。
ただ、紙を食卓へ置いた。
朝の半熟卵は、空席の前に残っていた。
黄身の表面には薄い膜が張っている。
リオは申請書を手に取った。
母の名前へ線を引く。
ペン先が紙を破った。
母は見ていた。
リオは謝れなかった。
*
中央広場は、記憶を差し出す者と、家を捨てる者に分かれていた。
提供を申し出る者は白い札を持ち、東外縁区の住民は荷造りを終えたまま広場の東側へ集まっている。
東区の家々に並ぶ魔導灯は、ほとんどが黒かった。
第二の鐘が鳴る。
評議員が壇上へ立った。
「問うのは、十二人制度を今日で止めるかです」
評議員は、白い弁を使えなければ増幅環を切り、旧い天蓋へ戻ること、その場合には東外縁区を放棄することを確認した。
「記憶を渡す者にも、受け取る者にも、同意が必要です」
リオが壇上へ上がった。
「ミナを返すためだけじゃありません」
最初の一言で、ミナの名を使った。
「ミナのように、誰か一人を——」
また使った。
リオは口を閉じた。
言い直す。
「一人を消して街を残す制度を、終わらせたい」
人々の中から声が上がる。
「提供する記憶を、本当に選べるのか」
裁判所の証言札を持つ女性だった。
「裁判を待ってる。あの夜の記憶は出せない」
評議員が答える。
「奪われる記憶は指定できる。だが、感情の根がどこまで残るかは分からない」
別の男が立った。
質素な上着。指に粉がついている。
男は隣に座る妻を見た。
「ただ怖いんだ」
広場が静まる。
「明日の朝、この人を見ても何も感じなかったらと思うと、怖い」
母は発言しなかった。
膝の上で、破れた申請書を握っていた。
投票が始まった。
賛成は白。
反対は黒。
棄権は消灯。
白が増えた。
黒も残った。
東側は黒が多かった。
最後の灯が白へ変わる。
僅差だった。
歓声は上がらなかった。
*
記憶提供を申し出た市民が、炉の前へ並んだ。
抽出はまだ始まらない。
接続台の奥で、増幅環の環紋が淡く光っている。
ミナが受け入れれば、看取り環から伸びた白い糸がそこへ結ばれる。
声は看取り役にしか届かないが、結ばれたかどうかは外からも見えた。
リオは最後の確認へ入った。
ミナは膝を抱えたまま、水管の振動を待っていた。
遠くで管が揺れた。
少女は指を一本折る。
「鐘って、音なの」
「そうだ」
「痛い?」
「近くなら、少し」
少女は白い霧の向こうを見た。
「聞いてみたい」
リオは看取り環へ触れた。
「市民が記憶を出す。白い弁を使えば、お前を昔の状態に戻せる」
少女の顔が強張った。
「いらない」
「全部じゃなくていい」
「いらない」
「家族のことだけでも」
白い糸が震えた。
少女は両腕で身体を抱いた。
「私の中へ入れないで」
リオは口を開いた。
「でも、俺を忘れたままで——」
続きは出なかった。
ミナは答えなかった。
白い糸は増幅環へ向かわず、リオの手首へ巻き戻っていく。
少女は言った。
「外で、鐘を聞いてみたい」
リオは接続を切った。
*
炉室へ戻ると、増幅環の環紋は暗いままだった。
ベルクが見た。
セラも見た。
評議員が確認する。
「本人の受領なし」
記憶提供者の列が揺れた。
一人の男がリオへ叫ぶ。
「本当に本人が言ったのか」
「俺には聞こえた」
「お前にしか聞こえてないんだろ」
「はい」
「何て言った」
リオは答えなかった。
ミナが口元を押さえ、白い霧へ吐こうとした姿が、まだ目の奥に残っていた。
評議員が黒い札を掲げる。
「第二経路へ移る」
東外縁区から、避難完了の札が届き始めた。
最後の一枚だけが来ない。
門の脇で水を運んでいた少女の家だった。
半刻後、少女の父親が荷車を押して現れた。荷台には寝具と小さな椅子、空の桶が載っている。
最後の札が白へ変わった。
*
セラは避難者を一人ずつ数えた。
六枚目の札だけを二度数えた。
確認を終えると、剣の柄から鍵を抜いた。
自分の手で門を開ける。
炉室では、ベルクが黒い弁の前に立っていた。
四十本の傷へ指を滑らせる。
「避難完了」
セラが言った。
「受領なし」
評議員が言った。
ベルクは黒い弁を握った。
錆びついた輪は動かなかった。
両手でつかみ、肩を押し当てる。
「手を貸す」
リオが近づく。
「要らん」
ベルクは歯を食いしばった。
靴底が石床を滑る。
喉から、押し殺せなかった息が漏れた。
黒い弁が少しずつ回った。
炉全体が軋む。
王都の東側から、灯りが一列ずつ消えていく。
増幅環をつなぐ太い管が外れた。
天蓋の縁が、ゆっくりと内側へ引かれる。
外へ残された家々が暗闇へ沈んだ。
遠くで黒い光が落ちる。
空になった家の屋根が、音もなく崩れた。
ミナの燃料室をつなぐ管が外れた。
看取り環の表面に細い亀裂が走る。
リオは両手で輪をつかんだ。
「忘れたくない」
白い糸の向こうから声が返る。
「うん」
リオは看取り環を折った。
小さな手の温度が遠のいた。
雨の日の靴の色が失われた。
父の靴を磨いた時の笑い声が薄れた。
卵の黄身の味が、思い出せなくなった。
燃料室が開いた。
白い煙の中から、少女の足が床へ下りる。
ミナは両足をついた。
石床へ触れた瞬間、顔をしかめる。
「冷たい」
リオは手を差し出した。
ミナはその手を見た。
すぐには取らない。
自分で立とうとする。
一歩。
もう一歩。
膝が崩れた時だけ、リオの手を取った。
リオは引き寄せなかった。
ミナが自分で手を離すまで、支えた。
鐘楼の歯車が動き始める。
第三の鐘が鳴った。
大きく、低く、王都全体の空気を震わせた。
ミナは顔を上げた。
「これが鐘?」
リオはうなずいた。
ミナはしばらく聞いていた。
「思ってたより、うるさい」
*
翌朝、東へ向かう街路には家財を積んだ荷車が並んでいた。
外縁区のパン屋は閉じている。
看板だけが内側へ運ばれ、壁には四角い跡が残っていた。
水道は細く、何度も空気を吐く音を立てた。
縮んだ天蓋は、王都の中心だけを暗く覆っている。
母はミナを娘として思い出していない。
昨夜、リオはただ説明した。
行く場所のない少女だ。
しばらく、この家へ置いてほしい。
母はミナを見た。
一人の少女がそこにいることは分かる。
けれど、写真の中の少女とも、自分の中に残る涙とも結びつかない。
それでも断らなかった。
今朝、食卓には三枚の皿が置かれていた。
母はミナの前へスプーンを置く。
「ここでいい?」
ミナはスプーンを少しだけ右へ動かした。
「こっち」
母はうなずき、自分の卵を箸で一度だけつついた。
リオは卵を三つ焼いた。
自分の分。
母の分。
三つ目へ手を伸ばした時、考えるより先に火を弱めていた。
半熟の卵をミナの前へ置く。
ミナは黄身を崩し、一口食べた。
少し考える。
「明日は、固ゆでにして」
リオはフライパンに残った黄身を見た。
「分かった」
ミナはもう一口食べた。
母も卵へ箸を入れた。
窓の外で、縮んだ天蓋へ朝の光が薄く差している。
朝食は、まだ少しだけ温かかった。
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