音のない世界で、自分を慈しむ。〜「寂しさ」の正体と、内なる声〜
はじめに
最近、パートナーとの会話の中で、ある「違い」に気づきました。
彼女は言います。「日常生活でボーッとしているとき、音がしないと寂しい感じがする」と。だから、起きている間はずっとテレビを付けているのだそうです。(彼女は東京、僕は滋賀県在住です。時々、同居します)
一方で、僕は「無音」の世界を基本としています。
むしろ無音でないと、自分の中に浮かんでくる声に気づけない、言葉が降りてこない感じがするのです。
この違いの中に、現代人が抱える「生きづらさ」のヒントが隠れている気がして、少し深掘りしてみました。
「寂しさ」を埋めるためのノイズ
彼女の感覚は、現代の多くの人を代表しているように思います。
部屋でテレビを付けっぱなしにしたり、移動中にずっとスマホで音楽を聴いたり、SNSのライブ配信を眺めたり……。
それは単に楽しんでいるというより、「孤独という空白」を埋めるための詰め物のように見えます。
音や刺激がないと、否応なしに「自分自身の内面」と向き合わざるを得なくなります。でも、多くの人にとって、整理されていない自分の本音や、ふとした不安と向き合うのは、少し勇気がいることなのかもしれません。
配信アプリやSNSも、根底にあるのは「みんな寂しい」という叫びなのではないでしょうか。
受動的な時間、能動的な静寂
僕も配信アプリに参加することがありますが、そこで感じるのは「依存」の危うさです。
寂しさを紛らわすために、ただ受動的に時間を消費してしまう。それは、僕が大切にしている「時間は命」(Time is Life)という考え方からすると、少しもったいないことのように感じてしまうのです。
僕にとっての「無音の時間」は、寂しい時間ではありません。
それは、自分の感性を研ぎ澄ませ、内側から湧き出る言葉に耳を傾ける「能動的な時間」です。
静寂の中で自分と対話することは、自分を大切にし、慈しむことそのものだと思うのです。
「自分迷子」にならないために
外部の音に依存しすぎると、心のコンパスが錆びついてしまう。
自分が今、何を感じ、何を望んでいるのか。それに気づかないまま生きることは、自分の人生のハンドルを他人に預けているようなものです。
「寂しさ」を埋める道具に溺れ、自分の声を聞く時間を失ってしまう。
これこそが、現代の「自分迷子」や、言葉にできない生きづらさの根源ではないでしょうか。
おわりに
寂しいから誰かと繋がる。それは人間らしい、温かな動機です。
でも、その前に。
ほんの少しの間、テレビを消して、スマホを置いて、静寂の中に身を置いてみませんか。
「何もしない、音のない時間」を怖がらずに受け入れたとき、そこには今まで聞こえなかった、あなた自身の愛おしい声が響き始めるはずです。
僕も、今日もまた静かな部屋で、自分の中から生まれる新しい光を探して歩いていこうと思います。
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