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noteに残す最初の一歩 〜自己紹介/30代/退職/妊娠/出産/別れ

今日からnoteで記事を書く。
ここのnoteは日記、備忘録、メモ、これからの予定をつらつら書いていくが、後から見直しても誰が見ても、ある程度わかる形にしよう。
そうすれば思い出すことも、もう一度同じものを買うことも、比較することもできるだろう。
そんな意識で書き連ねる。
ただ、最初のこの記事だけは、人生の振り返りも含めようと思う。

まずは心の整理整頓のために、自己開示をしていく。
私は幼い頃から、リーダーシップを取りたがる子どもだった。
おかげで学級委員だとか児童会だとか生徒会だとか、いつも何かしら積極的にやってた。
でも運動に苦手意識があった、別に両親は運動神経が悪いわけでもないのに。
自分の体ことも好きじゃなかったし、これが大人になっても影響してて今でもずっと好きじゃない。
ピアノを習っていたおかげで、音楽だけは好きだった。
4年生の時に恩師に出会った。
音楽の先生が担任の先生だったこと、その先生が語る言葉が好きだったこと、全て尊敬している。
あんな先生になりたいと思ったこともある。
楽しいことが多い小学校生活だった。

中学になっても、音楽は変わらず好きだった。
吹奏楽部に入ったけど、部員が少ないせいでジャズバンド。ドラムとテナーサックス。
ムーライトセレナーデとかを聞いて覚える中学生だった。
引き続き、学級委員と生徒会はやっていた。
この時の音楽の先生も、私にとっては恩師だった。
私のテナーサックスを見て、自分もサックスを始めた数学の先生も、私にとっては人生の豊かさを教えてくれた恩師だった。
国語の先生が、初任の時に伯父を担当していたらしく強面なのに優しかったのも、「春よこい」について授業をスタートさせたのも印象深い。

中学から、学力は少しずつ落ちていた気がする。
この辺りから心のどこかで生きにくさを感じていた。
同級生のオタクっぽい子たちの間で楽天広場というHP作成ツールが流行って、みんなでHP作っていた。
そこで悪口を言い始める奴(裏サイトという悪口ばかり言うHPを作る奴)が出てきて、友人関係が崩壊していき、各家庭環境の悪さも相まってその中の複数人が自傷行為をしていた。
中2の夏あたりからの、あの嫌な感じを覚えている。
私も親との関係が良かったとは言えないし、友人関係はどんどんぐちゃぐちゃになっていってたし、自傷をしちゃう親友を止めたいし、でも学力が20位前後だったのにどんどん落ちていくのがしんどかった。
良い思い出もあるけど、悪い思い出も同じだけあった中学校生活だった。

高校受験は、教師へのゴマスリが成功した内申点43によって当日のテストの点がギリギリでも進学校に合格できた。
別にいきたい高校なんてなかったけど、強いて言うなら弓道部に入ってみたかったぐらい。
友人と一緒の高校に〜、とかは一切思わなかった。
親にどこにいきたいの?とか聞かれても特にないのでめちゃくちゃ困ったし、親は学力の高いところを目指して欲しがっていたのが子どもながら分かっていたので、とりあえず親の望む答えで叔父の母校の名前を言っていた。
でも教師へのゴマスリが得意でも私自身の学力は徐々に落ちていたので、高校入学後の順位はビリに近かった。
鶏口牛後という言葉が一番身に染みた。
むしろ高校受験を失敗した方が良かったかもしれない。

高校時代は男子からのいじめを受けた。
人によってはいじめとすら受け止められないであろうとは思うが、あの時の悪ノリが一番不快で、あれを経験してから陽キャと呼ばれるようなタイプを一気に毛嫌いしたから、私にとっては根深く傷をつけられたことだったのだと思う。
簡単に言えば、外見と性格をバカにされて笑われたり、欠点を執拗で悪質な言動で責め立てられたりした。
唯一気遣ってくれた男子は、AO試験で慶応に行って野球選手になるような人で、真面目で陽キャっぽくなくて大人しい性格だったから、ここで私の男性への偏見が強まった。
陽キャで明るすぎるやつはダメだ、周りに便乗して悪ノリするから大人しい性格で学問に強い人にしよう。あとは実績があってもひけらかす事なく、穏やかに過ごせる方がいい、騒がしいのはダメ。こんな感じで。
クラスの半分以上の男子が悪ノリする陽キャ男子に乗っかって笑っていたあの頃から、集団で群れることが更に好きではなくなった。
中学時代のいざこざから群れる女子も好きじゃないし、案の定高校時代でも女子とのやり取りに辟易していた。
群れない人や勉強に打ち込むタイプと仲良くなった。
今でも付き合いがある友人たちは、男女共にまさにこのタイプばかり。

親からの大学受験のプレッシャーも強くなっていて、「国公立の大学に行けないなら働け」と言われていた。
勉強しても学力がついていかないので、どんどん言葉で責められた。
中学時代の友人がリストカットしていたのを見たので、ある時学校で嫌なことがあり思わずトイレでやってしまった。
今でも跡が残っていて少し後悔している。
でも勉強ができなくて、男子にいじめられて、クラスで笑い物にされながら、女子の同級生も嫌な奴が多くて、どうしようもない言葉を投げられて、当時の私は本当いっぱいいっぱいだったなと思う。
自傷跡を見た母親に泣かれたが、「お前のせいだろう」と思っていたので特に申し訳なさも思えなかった。
楽しい思い出よりつらい思い出の方が多い、そんな高校時代だった。
少しだけ、友人とシュークリーム食べながら3駅分歩いたことや、コンビニでおでんの汁をたっぷりと白滝入れてラーメンみたいに啜ったことは楽しかった。
勉強はできなかったが、なぜか嫌いではなかった。
英語は苦手だが、日本史の授業は好きだった。
数学も、担任の先生おかげでベクトルは得意だった。
高校の先生たちはいい人ばかりだった。

大学受験は、案の定失敗した。
本当は歴史の勉強をしたかったが、親に「何の役に立つのか、手に職をつけろ」と言われ受験すら断念した。
女子大に行くことになったが、地元ではお嬢様大学と言われているところだった。
親もそこなら悪い印象はないらしい。よくわからない。
国公立しか行かせないと言っていた親は、私立をじゃんじゃん受験させてはくれたし、結局このように私立でも通うことになっている。
父親曰く、私にハッパをかけるつもりで「国公立しか行かせない」と言っていたらしいが、これがこの先しばらく悔恨になっているので言霊の力は強いと思う。
大学は通学で2時間近くかかる。
でも都会に出て、親から離れる時間が増えて、授業は高校と違って新しいことばかりで、小学校以来の学校の楽しさがあった。
大学生になって分かったことだが、私は元々一匹狼気質だったのかもしれない。
あまり多くの人と群れず、少ない友達と仲良くするぐらいが気楽だった。
1人で牛丼屋に入って食事する気楽さには感動した。

授業をサボるのも初めてだった。
真面目ちゃんだったから、「サボってディズニーに行こう」なんて友人に言われた時は頭がおかしくなりそうだった。
夜行バスも初めてだった、ディズニーは最高だった。
ディズニーってこんなに楽しいのかと、あの時買ったグッズを見ると思い出せる。
大人になってもディズニーに行きたいと思うのは、この頃の経験があったからだと思う。
特にディズニーシーが私は好みのようで、今でもあの街並みを見るのが大好きになっている。
他にも、あまりに授業に行きたくなさすぎてサボって1人で新幹線で京都に行ってしまった時から、旅行に魅了された。
元々歴史好きだったから、神社仏閣や城を巡る機会が増えた。
他の大学の集中講義を抽選で受けることができる機会があって、京都まで能の勉強をしに行ったのも歴史好き、旅行好きに拍車をかけた気がする。
この時にサボって得たものは大きかった。

大学では教育を専攻した。
手に職をつけろと親に言われて思い付いたのが教員だった。小4の時の担任教師の影響もある。
免許をたくさん取れば選択肢が広がると思い、必修の授業をたくさん受けたら、毎日5時間目(〜18:15)まで授業がミッチリになってしまった。
もちろん免許を複数取得することはできたが、おかげで授業、課題、実習、試験などで忙殺された。
バイトも数をこなせないし、遊びまくることもできなかったのが少し悔しい。
あとは、この忙しさの中で就活もできなかった。
当時100社受けても内定が貰えないと言われていた時代で、教員採用試験の勉強や面接対策、授業に実習もまだまだあるのに、就活なんて無理な話だった。
友人は100社近く落ちて大学卒業後に専門学校に通っていたので、親の言う「手に職」と言うのは一部正しかったのかもしれない。

教員採用試験では筆記と小論文は散々な結果だったが、面接重視の都道府県だったため面接A判定により合格を勝ち取った。
実は別に教師になりたかったわけではなかった、と言うと語弊があるかもしれないが、小学校時代の恩師に感化されて教員になりたいと思ったことはあったが…結局その程度。
ただ高校生や大学生になってもそう思っていたわけではなく、手に職をつけろと言われてそれしか思い浮かばなかっただけ。
まさに「でもしか教師」。
先に言っておくと長続きしなかった。

親が過干渉気味だったからか、親の判断基準でしか選択できないと思い込むことが多かったように思う。
親の期待に応えなきゃと思うことが多く、良い子でいなきゃと無意識に思っていたし、無意識にそのような行動をしていた。
大学時代はそれらの羽目が外れてすごく気が楽だった。
だから、大学受験までは親の言うことを聞いた良い子ちゃんになろうと常に緊張状態だったから、何をするにもどこか生きにくかったのかなと思う。
でも18歳まで親の顔色を窺って生きていた人間が、いきなり自分の意見を持って選択できるかと言うとそう言うわけでもない。
頭の片隅で「きっと親だったらこうすることを望むだろう」と予想して、それを元に行動する癖がついてしまっている。
だから、大学生になってもどこか親の許可が必要のような気がしていて(当時20歳で成人だったから大学3年生までは実際許可が必要でしかるべきだとは思う)、遊びも仕事も許可をもらう形になっていた。
自分の人生なのに。
教師になっても、自主性を子どもたちに身につけさせたい一方、自分の自主性や独創性が育っていないような気がしていた。
そんな状況下で、自分と親の関係の悪さと、私の考え方の癖と、職場でのパワハラと、教員現場での常識(一般社会での非常識)と、過労が相まった地獄の教員生活がスタートした。

ここからは特定できそうなことが増えるので、フェイクを混ぜておく。
少人数の小学校だったため、一学年一学級。
新人なのに学年主任で、更にピアノ演奏できるのが私だけ。
通勤に片道1時間。
3年生担任になったはいいが、ここからが最悪。
この子達が2年生だった時の担任、ベテランだったからか後任向けになるような資料が共有フォルダになく、更に転勤のため聞くに聞けない。
昨年度の3年生の担任、常勤新米教師でほぼ資料を残していない上に転勤で、参考になるものが何一つない。
4年生の担任以外、ほぼ新人からこの学校にいるが3年生の担任をしたことがある人は1人もいない。
4年生の担任、校務の仕事も掛け持ちでやっているため激務な上に、同級生のパパで気まずい。
もうどうしたらいいのかわからない八方塞がりでスタート。
自分の担任の仕事以外のプレッシャーもやばくて、入学式や始業式で校歌を演奏することにものすごく期待されていた。
ここ最近ピアノなんて弾いてない(就活に教員採用試験、卒論に…ってやってたら弾く頻度減る)のに。
校長も有名な人で、大学の教授と知り合い。
大学の教授、私が教員採用試験が受かったら赴任の学校に電話して「よろしく頼む」など、気を利かせてくれたはいいがこちらのプレッシャーMAXでのスタート。
もう何もかもがキツい始まり方だった。

細かいことは省くが、他の学校で大変そうにしている新人教師は他にもたくさんいる。
私より大変な場所で働いている同僚もいた。
でも上記の条件が全部新人の私に乗っかっていて、何が何だかわからないうちに学校生活がスタートして…
激務だった。私にとっては。
一般企業に勤める主人の仕事を見聞きして比べても、相当しんどかったと思う。
今の私は教師ではないが、それでも「もう一度教員できるか?」と言われたら正直自信は全くない。
新人に求めるレベルがおかしいのではないか?と思う。
忙しさのあまり心筋梗塞で亡くなる話を聞くが、あながち間違いではないと思う。
それぐらい、私にとって教員生活はしんどかった。
特に、仕事量が多い上に、社会の常識と乖離した教員界隈での常識を押し付けている風潮も嫌な感じだった。
いわばブラック企業のような風習が蔓延っているのである。
それを強要する同僚からのパワハラも相まって、2年目には私はダウンした。

話をガラッと変えるが、私は喪女だ。
過去に好きな人はいたが、誰とも付き合って来ず、二十数年生きていたので、出会いがとにかく欲しかった。
教員生活が激務の中、同じく喪女っぽい大学の友人がいたのだが、どうも男性とお付き合いしたらしい。
それが猛烈な危機感に繋がった。
慌てた私は、友人とピザを食べながら某出会い系サイト使って誰かと会えないか探した。
当時、プロフィールを見るとアクセスした人が誰かわかる仕組みになっていたため、それを見た相手がメッセージを送ってきた。
急展開で次の日に会うことになり、会ったその日にお付き合いが決まった。
教員生活がダウンする直前、落ち着きのある、オタクっぽい、メガネで、背は高くない、年上の男性と付き合うことになった。
知的で賢く、化学に精通していて、出会った日からそれについて語る姿はとても好感が持てた。
これが、ギリギリで踏ん張っていた私にとって、心の支えで逃げ場で拠り所だった。

そんな中、冬休みになり年末年始の中でやらなきゃ行けない仕事を片付けるために家で作業をしていたが、ある時、何もかもが限界になった。
泣いて泣いて泣いて、もう無理と母に伝えた。
母は慌てて、近くの精神科医に電話。
急遽通院することになり、医者から休むように言われた。
そこから休職した。
1週間、風呂に入れないこともあった。
毎日寝続けて、食べ続けた。過食過眠傾向だった。
少し前に生理ではないのに生理痛の激痛のような痛みが走るようになってたため、低用量ピルも飲んでいた。
20kg増えた。
2年ほど休職して、退職した。

この退職時にも、付き合っていた男性との関係も続いた。
相手も転職して他県に行くことになった。
遠距離になったが、私が休職していたため、動けそうな時には会いに行っていた。
退職することになったのは、この男性と付き合って一年もしないうちに、結婚の話が進んだから。
心身が正常でないうちにお付き合いして、大丈夫か?ということも、当然理解していた。
でも、先に書いたように私は親との関係も良くなかった。
逃げ場が欲しくてたまらなかった。
彼は私がうつ状態で苦しむ時も、優しく、時に諭され、逃げ場を用意してくれて、「死にたい」と思う気持ちがなんと和らいで、それでも結婚まで考えてくれることに支えられていた。
私もそれに応えようと思い、しっかり毎週休まず通院して、カウンセリングも受けて、健康管理のために頑張って市の体育館のジムのフリーパスを購入して通い詰めて、生活習慣を整えて、うつやアダルトチルドレンの本などを読み漁って、改善の努力を続けた。
退職の時は、他県へ引っ越して結婚前提の同棲生活と、お付き合い記念2年目の日に入籍することが決まっていた。
そしてその通りに進んだ。
初めて付き合った人と、その日のうちにお付き合いして、その2年後には入籍して、夫婦となった。
怒涛の展開だった。
親から離れて、まだ精神疾患は完全には改善されていないものの、決別できたことによる「別の人間になれた感」がすごかった。


夫婦生活をスタートさせたものの、精神的にまだ疲弊していることは変わりなかった。
特に料理は親が嫌がって台所を触らせてもらえなかったこともあり、完全に未経験だった。
包丁も碌に使わないで生きてきたので、野菜ひとつ切るにも、献立ひとつ考えるのにも時間がかかった。
親のありがたみがわかるとよく聞くが、分かりたい気持ちと分かったとしてもどこか納得できないような不満もあって複雑だった。
今こそ恨んではいないが、呆れる気持ちも強かった。
自分が家事をやっていても、母親のように台所を触らせたくないとは思わないし、母がやたら拒絶していたことに呆れた。
洗濯物や食器などの洗い物はやっていたので、それは苦じゃなかったが、やらなければならない家事とすぐに動けない自分の心と体、慣れない土地もあり、疲れはなかなか抜けなかった。

精神疾患は、適応障害、うつ病、双極性障害と名前を変えていた。
きっかけは先輩教師による職場で2時間に渡る叱責。
でも元々私の素質というか、考え方の癖というか、精神疾患に陥るだけの基礎は整えられていた。
きっかけはパワハラと過労による職場由来のものだけど、根本的な解決には親子問題が必ずあった。
母親が「大切にするつもりはあるけれど過干渉のタイプの毒親気質」だった。
祖母がヒステリック系毒親で、伯父と祖母は犬猿の仲。
母は伯父のその様子を見て祖母に対してあれこれ尽力してきたタイプで、当然その家族関係で祖母から学ぶ母親像もそれに近くなるのは自明である。
神経質で、過干渉で心配性、気分でヒステリックになったり不機嫌になったりする、愚痴が多く常にイライラしている、そんなタイプだ。
結婚する前の休職期間中に、それらを含めたこれまでの不満をぶちまけた、父母が同席するリビングで。

私には弟がいるのだが、朝起きると少年野球に行く弟と少年野球を教える父と、水筒などを用意して応援しに行く母で家族が誰もいない。
そんな休日が多かった。
私が昔からよく寝る子で、当時4年生だったため朝は1人、そのままお留守番させるということだが、この時の疎外感は酷かった。
これが弟は小1から高校の部活終了まで野球をし続けたため、実質12年ほど続いた。
ただでさえ、朝ひとりぼっちなのに、お昼に帰って来てご飯を食べる時には私以外の三人で野球について盛り上がるのである。
話になんてついていけないし、少年野球のメンバーなんて誰もわからないし、私に話を振るわけでもない。
帰って来てもひとりぼっちな感じだった。

弟と比較されることは多かった。
お姉ちゃんなんだからと何度も我慢を強いられた。
私が自分の体が嫌いだと思ってたのもそれが一つで、親にいじられ弟に馬鹿にされたこともあった。
弟はそのまま友人たちに「俺に姉なんていない」と言うし、デブとも言い出す。名前なんて呼び捨てだ。
でも親は注意しなかった。冗談で終わらせられるような言い方だったからでもあるだろう。
弟は運動神経も良い、人当たりも良い、ノリも良い、元気も良くて、愛されやすい子だった。
大学受験でも、「私の大学受験の苦労」を反省して弟にはあれこれ対策していた。

弟も、親から私と比べられる発言を受けたことがあることは後から知った。
だが、私ほど家族から除け者にされるような扱いを受けてはいなかったであろう。
物を用意して与えられても、愛されていると言う実感は薄い。
七五三の着物がある、振袖がある、私立大学に行かせてもらえる、ピアノを習わせてくれる。
一つの愛情表現ではあるが、それでは幼心は満たされなかったんだろう。
中学時代から勉強をしろと言われ、高校に入っても勉強してそれしかして来なかった人間に「公立大学受からなければ働け」と働き方も就活の仕方も知らない、この進学校の同級生で大学に行かない人なんて1人もいない中、常にプレッシャーをかけられ続ける。
そんな環境でどうやって安心を見つけられるのか。
おかげで、頑張りたい時に頑張れるような心持ちにはならなかった。
それが自傷行為に繋がっていた。
それが精神疾患にも繋がっていた。
親が全て悪いとは、子供心から言えない。
親にも親なりの事情があったのだろう、そう言う関わり方しか知らなかったのであろう。
自傷もうつも、私の責任である。
でもその一端を担っていた、あなた達が与えたものが私に心に痼を残していると、私は両親に突きつけた。
今まで親に一度もその話をしたことはなかったが、言いたいことも言えないポイズン状態から、言いたいことをようやく言えたエルサのような気持ちになった(おかげで私はアナが大嫌いだ)。
親に突きつけスッキリして、自分もその満たされないことに縋るのはやめようと思った。
また結婚のタイミングで親離れできたのも良かった。
これらをきっかけに、親子関係は少しずつ良くなっていった。

結婚してからは主人の会社でトラブルがあって、結局5年程度で転職した主人と共にまた地元に戻って来た。
こちらに帰って来て私は楽しく働ける職場を見つけて、慣れた地元に戻って来て一安心だったが、一度流産してしまい再度妊活を始める矢先にコロナが流行り出して、妊活を一時中断した。
案の定コロナに感染した。
夫婦生活は楽しいが、今度は子どもがなかなか成せないことに絶望した。

色々省くが、なんやかんやあって人工授精で妊娠した。
吐きつわりがひどく、点滴を打っても効かず。
メンタルがまたやられた。
あまりにひどくて、主人が早退するほどのメッセージを送ってしまったこともあった。
つわりの酷さゆえに、腹の子に愛着が湧かなかった。
焦った、とにかく焦った。
大事にしたいのに大事にしたい気持ちになれないなんてどうしてだろうと自分を責めたけど、それはそれでうつになる危険を孕んでいたから尚更焦った。
妊娠中に起こるトラブルを調べて対策し、事前に過去に通院していた精神科に相談して、何かあった時に対策できるようにしておいた。
吐きつわりは出産まで続き、恥骨が痛く、寝返りもなかなか打てない、下腹部痛もあったし、悪夢ばかり見ていたので常に寝不足で、心身ともに疲弊していた。

そんな中、出産予定日より2週間近く早く破水した。
陣痛タクシーはなかったため、普通に地元のタクシー会社に電話し、すぐさま病院へ向かった。
事前に準備をしておいたのでスムーズに向かえたが、朝イチの破水で主人を送り届けた後に少し片付けをして、そのまま入院になるので親にも連絡しておく。
病院に着いたら、徐々に痛みが増した。
生理痛のような下腹部痛が、息が荒くなるような痛みに変わった。
初産は十数時間かかるらしいのだが、陣痛のスピードが早い気がした。
10分間隔が、あっという間に5分になる。
立ちくらみのような、目の前が真っ暗になった感じがして車椅子に乗り、陣痛室にすぐに運ばれた。
助産師さんも、私の痛み具合と触診からバタバタし始めた。
主人に連絡する間もなく、陣痛室から分娩室に移動して…、
おチビは4時間で生まれてしまった。
次の日に出産するだろうと言われて入院したのに。
医者も「初産なのに早いな…」と口にするほどの爆速で、分娩室には入って20分程度だったんじゃなかろうか。
主人の特別休暇も間に合わず、親に「明日かもと言っていたのが今日になりました」と共に連絡して、出産日はドタバタのまま幕を閉じた。

そのあと乳腺炎もどきになったりバタバタして、今は生後2ヶ月。
1ヶ月健診も無事終わり、今度は予防接種の時期になった。
出産後、無事に吐きづわりはパタリとなくなり、体の不調はまだまだ多いものの、育休に入ってくれた主人と共に子育てをしている。

子どもに対する愛着障害は、解決した。
生まれてから少しずつ、ようやく可愛いと思えた。
もしかしたら、Instagramにバンバン写真を上げる母親たちとは愛し方のジャンルは違うかもしれないが、無事に生まれて来てくれて嬉しいし、可愛いので写真も撮るし、頬擦りしたくなる。
普段子どもに興味なさげな主人が育休に入ってから、積極的に家事や育児に協力してくれているのも嬉しい誤算だった。
夫婦共に、子どもが可愛いと思えることがとても嬉しかった。

同時に、なぜこんなnoteを書こうと思ったかと言うと、母方の祖父が亡くなったからだ。
しかも、私に知らされたのは亡くなって2週間も経ってからだった。

祖父母とはコロナの予防接種を打つか打たないかと言う話から、電話越しで喧嘩別れをしている。
実は母が毒親である祖母の要求に応え続け、介護疲れとコロナ禍によるダブルのストレス、おそらくそこに更年期障害もあるのだろうか、その頃からおかしくなり…
今の母はうつ病になっている。
母1人であれこれ世話をしていたのがついに限界になりつつあった中に、祖母のわがままとそれを止められない祖父が言いなりになっていて、それらに対して私が強く言い返して喧嘩別れした。
あの時強く言い返したことに後悔はしていない、母があまりに哀れだったから。
逆にもっと早く祖母の暴走を止めていれば、母はここまで酷くならなかったのではないかと思うことはある。

そんな喧嘩別れし祖父母と最後に会話したのが、数年前のコロナが流行り始めた頃。
この電話が今生の別になるのはなんとなく覚悟していた。
そして案の定、祖父はある日から呂律が回らなくなり、入院し、そのまま老衰で亡くなったらしい。
亡くなった日は、私が我が子を産んで1ヶ月経っていなかった。
連絡は伯父経由で父に連絡がいき、両親が私に気を遣って連絡せず、私に知らせたのは通夜も葬儀も全部終わってからだった。
確かに、亡くなったことを知らされても、通夜も葬儀も行けなかったと思う。
うつ病の母も、まともに動けなくなっているし、祖母とは会わない方が良いような状態なので、お別れは父と弟、伯父、祖母が対応した。
これが祖父の最後だった。

この話を聞いて、どうにもならない無情さを感じた。
私が新しい命を授かった横で、どうにもならない別れがあった。
私を気遣ってくれた両親の優しさを感じつつも、すぐに伝えてもらえなかった疎外感と怒りもあった。
でも別れと共に覚悟をしていた現実は受け入れることはできても、優しい思い出もあったからどこまでも悲しくもあった。
そして、完全に会うことも語ることもできなくなった喪失感。
いろんな感情が渦巻いた。

そして、noteを書こうと思った。
私の人生も、子の人生も、祖父の人生も。
儚いものだなと思った。
一瞬で消えてしまうものでもあり、でも優しさも怒りも共存して私と共にあった。
なら、せめて残しておこう、もしかしたら誰かの心の慰めになることもあるかもしれないし、誰かの役に立つこともあるかもしれない。

祖父の大きな手も、優しい声掛けも、麻雀で遊んだ思い出も。
喧嘩別れしたとしても私の中に残っているように。
私の思い出をここに残していこうと思う。
祖父が私と、私の子どもを見守っていてくれると祈って。
そうやって軌跡を残せば、きっと私自身の慰めにもなるだろう。

このnote記事は、私のこれからの意思表示と、祖父への鎮魂である。

おじいちゃん、今までありがとう。
私は主人と我が子と共に、辛いことがこれからまだまだ起きたとしても、頑張って生きていくよ。
私の愛犬と一緒に、見守ってて。応援してて。

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