「愛は技術」って最初は冷たい感じがして嫌だったけど、最近は「確かにそうかもしれないな」と思い始めてるという話 ーアニメ『よふかしのうた』を見てー
Netflixでこちらの『よふかしのうた』
を見終わりました。
この話は
夜の町をさまよっていた中学生が出会ったのは、夜の住人である吸血鬼。その魅力に心を奪われた彼は自分も吸血鬼になりたいと願うが、そのためにはまず恋に落ちなければならず...。
ザックリいうと、
「恋に落ちるってどういうこと?一体、どこから(どうなったら)『好き』ってことになるの?」
「人を愛するって、何よ?」
「恋って?愛って?で、その違いって?」
「家族って?友達って?」
「アイデンティティーって?普通って?マイノリティーとして生きるって?」
というテーマになるかと思います(多いな😆)。
主人公の中学2年生の夜守コウ君が、憧れの吸血鬼になるべく、吸血鬼の七草ナズナちゃんに恋をしようと奮闘するんですよ。
それに応えるべく、ちょっと「天然チック」なナズナちゃんもコウ君に「好きにならせよう」とこれまた頑張る。
ここのやり取りが最初は面白くて笑ってしまうんですけど、物語が進んでいくに連れ、上記に挙げたような事柄を深く考えさせられて「哲学的な」気持ちにどんどんなっていくんですよねえ。

この作品を見て、そういえばある時何人かの友人から続けざまに「これ難しいけど、ようかん君にピッタリだから読んでみなよ」って、この本を
紹介されたこと思い出したんですよ。
その時は「何人かが言うくらいだから、ちと読んでみるか」と若干思ったんですが、そもそも本を読む習慣がまったくないのと、
ちょびっと概要を見た時に「愛は技術」って書いてあって、その文言が当時はなぜだか頭でっかちで心が通っていなく、少し冷たい感じもして、「いやいや、愛はパッションっしょ!」と反発する気持ちから、結局読まなかったんですよね。
ただその後何年か生きてきて、『よふかしのうた』みたいな作品にも触れてみて
「確かに『愛は技術』って側面も、めっちゃあるよなあ」
と、認識が変わったんですよ。
コウ君とナズナちゃんの初期のやり取りを見ながら
「フフフ。おままごとみたい」
と笑っていた私なんですが、そのうちいくらかすると「俯瞰した自分」が出てきて
「ようかん君。やってること、君も大した変わらないからね」
ツッコんでくるんですよ。
ママとはかれこれ15年以上一緒にいて、年を重ねれば重ねるほどその「好き」が大きくなり、「彼女のことが好きである」ってことには何の揺るぎも疑いもないわけですよ。
ただ、この15年彼女に「愛を伝える」にあたって私が具体的に何をしてきたのか?と冷静に思い返してみたら、「好き好き」の連呼とゴリ押しくらいなんですよ。
これは「芸がない」ことこの上ないじゃないですか?😆
私のいくつかの「ライフワーク」の中の1番の柱
「パートナーシップを極める」には、今のこの状況はヤバいですよねえ。
実際ママからは時々「パパって優しいけど、結構私のこと見えてないよね」
と指摘されて、私が超ヘコむという事態も発生しています。
確かに私は「技術不足」ということなんでしょうねえ😢
以上のことからも、「人を愛する」にあたってその「術を知る」というのは、決して「頭でっかちで冷たい」作業ではないと、今は感じています。
『愛するということ』を読んだ方って、いらっしゃいますか?
どうでした?
読んでみたい気持ちは出てきたのですが、何しろ個人的に敷居が高くてですね。
「愛はパッション」とかガキみたいなこと言ってないで、一念発起して読んでみるかあ。
でもまあその前に『よふかしのうた』2周目にいってみよっと。
『よふかしのうた』。
話が進むにつれ深みが増してくる非常に面白い話ですので、興味を持たれた方は是非チェックしてみてください☺️

