⭐ 義父の杖
事故
その時、夫の父が亡くなった。
交通事故だった。
既に日も暮れた頃、義父は懐中電灯を手に近所のお地蔵さまにお参りに行ったようだ。
なぜそんな時間に出掛けたのかは知る由もない。
横断歩道のない道路を横切り、車に撥ねられた。
運転手がオーディオ操作に気を取られての前方不注意、とはよくある話しだ。
救急車で病院へ運ばれたものの帰らぬ人となった。
夫の郷は福岡県の片田舎。
炭鉱で隆盛を誇った町は、閉山とともに過疎の一途を辿っていた。
そんな町で義父は、訳あって一人暮らしをしており、男ばかり3人の子どもたちのうち長兄だけが隣町に家族と暮らしている。
事故の一報は長兄に入り、大阪で暮らす末っ子の夫には20時頃、長兄から連絡が来た。
当時はまだ仕事をしていた夫。
会社で連絡を受けた夫だが、どうしても翌日にしなければならない仕事があり、仕事を残して帰宅する。
次兄家族も福岡県外に暮らし、長兄家族だけでは心細いだろうと、翌日一番の飛行機でひとまず私が一人で先に現地へ向かうことになった。
大きな荷物は、午後の飛行機に乗る夫に任せて。
元々、乗り物に乗るのが好きな私。
初めて一人で乗る飛行機だったが、気持ちは沈んだままだ。
小さな窓から見える白い雲や下界の街の様子なども、この時ばかりは虚ろに見える。
福岡空港からはバスとタクシーを乗り継ぎ、長兄宅の近くまで行き、長兄に車で迎えに来てもらうこととした。
不思議な話
長兄家族は4人家族。
長兄と兄嫁に女の子が2人。
2人とも当時は小学生だった。
車は7人乗りのワンボックスなので、私が1人増えても余裕で乗れる。
連絡通り迎えに来てもらい
「すいません。ありがとうございます」
と私は車に乗り込む。
長兄も
「こっちこそ悪かね」
と運転席から声をかけてくれる。
私は後部座席のドアを開けてすぐの座席に腰掛ける。
そこには女の子の妹が奥に座っていて、3列目のシートにはその姉と兄嫁が座っていた。
私が挨拶を済ませ車のドアを閉めると長兄が
「今、警察から親父の荷物ば受け取ったもんやき、これから親父の家ば行ってもいいですかね?」
ルームミラー越しに私に言う。
「はい、お願いします」
私に断る理由はない。
車が動き出すと隣に座っている妹が、私にピッタリと体を寄せて来て
「杖が無いんよ」
と私を見上げて言う。
私にとって義理の姪にあたる妹は、とっても人懐っこく可愛いのだが、いつも話が本題から入るので少々戸惑う。
キョトンとしていたところ、長兄が運転しながら説明してくれる。
「いやね、きのう病院で警察から
お父さんの所持品です
って荷物ば見せられたんよ。
そん中に杖があったんよ。
うちら、みんな見とるんよ。
ばってん警察が
調書書くけん、一旦持ち帰ります
って言いよるんよ。
あした取りに来いっち。
ほんで、さっき行って来たんよ。
そしたらくさ、杖が無いんよ。わしが
杖ありましたよね?
っち言うても
いや、これだけです
っち。
警察が杖みたいなもん隠すとも思えんし、おかしかねぇっち話ばしよったんよ」
ここで私の隣の妹が、再び強い眼差しで言う。
「あった杖が無かったんよ」
___あぁ、そういうことね
やっと意味を理解する私。
「不思議やねぇ」
私は曖昧に応えたが、この時私は事の真相にまだ気付いていなかった。
義父の家
やがて車は義父の家に着いた。
長兄が警察から返してもらった義父のカバンから家の鍵を取り出し、玄関を開ける。
玄関は磨りガラスに木の格子が入った木製の引き戸だった。
長兄が左の戸を右にスライドさせると、子どもたち2人が我先にと走り込む。
そして兄嫁と私が続く。
結婚してからお正月には夫とこの家を訪れてはいたが、いつも勝手口から入っていた。
玄関から入るのは、結婚前の挨拶の時以来だ。
向かって左側には造り付けの下駄箱があった。
私は久しぶりの玄関に、それらを見ながら靴を脱ぎ、上がり框をヨイショと上る。
昔の家は上がり框が高くできている。
上がり框を上がるとそこは左右に伸びる廊下で、その奥の部屋は障子や襖で区切られている。
主を失った家の中は、まさに時が止まっていた。
義父はすぐ戻るつもりだったようで、部屋の明かりは付いたままだった。
台所の炊飯器も保温になっている。
居間のコタツの上に雑然と置かれた物の数々が、義父の生活を物語っていた。
静まり返った部屋の中を、私たちは黙ったまま思い思いに歩いて回る。
その時
「みんな、ちょっと来い!」
ただならぬ長兄の声が響いた。
杖
長兄は玄関前の廊下に、僅かに震えながら立っていた。
皆が何事かと集まったところで、震える指で何かを指し
「さっき入った時、あの杖あったか?」
と、言う。
皆が視線を移すと、下駄箱に一本の木製の杖が掛かっていた。
「この杖、きのう病院で見たばい!」
子どもたちが騒ぎ出す。
兄嫁がゾッとするように肩をすくめる。
「警察が持って来たんか!?」
長兄は思いついたように言うと、上がり框を飛び下り靴を引っ掛けて外へ走り出す。
最後に入った長兄は玄関を開けたままにしていたようだ。
だが、そこは静かな里山の町。
鳥や虫の声は聞こえても、車やバイクの音は聞こえなかった。
ほどなくして帰ってきた長兄は
「誰もおらん」
と肩を落とす。
皆の視線が再び杖に集中する。
落ち着きを取り戻した長兄が
「もう一回聞く。さっき入った時、この杖あったか?」
静かに言う。
私は頭の中で、先ほどの情景を思い出す。
長兄が戸を開ける
子どもたちが走り込む
兄嫁に続いて私が入る
この時、私は下駄箱に目をやる
その時、杖は
無かった
私は黙って首を横に振る。
兄嫁も子どもたちも同様にする。
長兄も力なく言う。
「わしも見とらん」
皆一様に、それまで無かったものが忽然と現れたことに言葉も出ない。
しばらくして、長兄がしみじみと言う。
「今、親父は帰って来たとやね」
義父は、いつものように杖をついて自分の足で家に帰りたかったに違いない。
そしてこの下駄箱のその位置に杖を掛けて、上がり框に腰を下ろして。
義父にとってはそんな日常だったのだろうか。
誰も声を出せずにいたが、気持ちは同じだったろう。
おかえりなさい
おわり
