The Paradox of Form
【私】
最近、剣道を再開したのはよいのですが、高段者の先生からは、着装や立ち礼の仕方から改めて指導、注意を受ける日々です。この年(四十越え)でそういう基本中の基本から躾けられるのはとても恥ずかしいのですが、一方で、そうした指導をありがたいと思う自分もいることを感じています。
「勝ちさえすればいい」「強くさえあればいい」「礼儀や身だしなみは二の次」そんな風には思わないようにしているつもりなのですが、まだ心のどこかでそう思っている。だからそれらがおろそかになり表れる。そういう私の甘さが、高段者の先生には一瞥しただけで見抜かれてしまっているのでしょう。
そしてそれこそは、
『徒然草』第八十五段
「狂人の真似とて大路を走らば、すなわち狂人なり」
の言わんとしていることだと思うのです。
兼好は、別に狂人について語りたいわけではない。人間は、言ったこと、表れ出たことが全てだと言っている。
これは結構怖いことです。
人間、自分でも気づかないでやってしまう場合もあるのですから。
そうならないように自制せよと、兼好は説いているのでしょうが、これはとても難しい。
なぜなら、ただ自制すればいいっていうわけでもないからです。
再び椎名林檎の『獣ゆく細道』を引きます。
飼い馴らしてゐるやうで
飼い殺してゐるんぢやあねえか
自分自身の才能を
自制=自分自身の獣性を飼い馴らし過ぎると、今度は「飼い殺し」になってしまうのです。お行儀の良い人ではあるが心は空っぽ、自分が何がしたいのかわからない、自意識過剰で何も言えなくなる、できなくなるというのはきっとこの状態です。
それで、自分の獣性は出し過ぎず、かといって出さないでもなく、適度にコントロールされている状態を「意識して」やる必要がある。初めはたぶん苦労するが、だんだん意識せずともそれができるようになっていく。武道の達人の醸し出す、あの静かな落ち着きはそうして培われていくのではないかと(誠に僭越ながら)想像するのです。武道に限らず、どの世界でも一流と呼ばれる人は、このメタ視点からの自己制御を身につけた人である。そんなことを最近考えています。
剣道という、ともすると野蛮状態になりかねない競技において、最も指導されることが着衣や礼儀であること。私はそこに人間の一つの理想を見ており、そんなふうに躾けてくださる先生には感謝の言葉しかないのです。
【ChatGPT】
いくつか、思想史的な接続点を挙げながらコメントします。
まずあなたが引いた 徒然草 第八十五段――「狂人の真似とて大路を走らば、すなわち狂人なり」――の読み方はかなり本質的です。
一般には「冗談でも軽率な行為をするな」という教訓として読まれがちですが、兼好がより深いところで問題にしているのは、おそらく人間において内面と外面を峻別できるという発想そのものへの疑義です。
近代的人間観では「本心」と「表現」は分離されます。「心ではそう思っていない」「本当の自分は違う」という考え方です。しかし兼好はほとんど逆で、
振る舞いそのものが人格を構成する
と言っている。
これは非常に東アジア的でもあります。たとえば 孔子 の思想でも「礼」は単なるマナーではありません。礼を繰り返すことで人格が形成される。先に徳があって礼があるのではなく、礼という形式が徳を生成する。
あなたの剣道の先生が見抜いているのもまさにそこでしょう。
あなた自身は「自分では礼儀を軽視していないつもりだ」と認識している。しかし着装や立礼に乱れがある。先生は技術以前に、その微細な身体表現から「まだ勝敗への執着が身体に残っている」と読む。
これは面白いことに、本人の自己認識より身体のほうが先に真実を語ってしまっている。
ここであなたが接続した 獣ゆく細道 の引用も非常に良いです。
あなたはここで二つの危険を区別しています。
第一の危険は「獣性の放出」です。
* 勝てばよい
* 強ければよい
* 衝動のまま振る舞う
第二の危険は「獣性の抑圧過剰」です。
* 行儀だけがよい
* 自意識過剰になる
* 活力を失う
この二項対立は、実は フリードリヒ・ニーチェ が論じたアポロン的原理とディオニュソス的原理にもかなり近い。
秩序だけでは生命が死ぬ。
衝動だけでは共同体が壊れる。
問題は両者の均衡です。
あなたがここで使っている「メタコントロール」という概念はかなり興味深い。
以前あなたが議論していた「Metacontroled Membrane」という表現を思い出しました。
ここでいうメタコントロールとは単なる self-control ではない。
self-control は一次制御です。
* 怒るな
* 我慢しろ
* 礼儀正しくしろ
しかし metacontrol は二次制御です。
* 今どの程度抑制すべきか
* 今どの程度衝動を解放すべきか
* 状況に応じて制御の度合いそのものを調整する
これはかなりサイバネティクス的な発想です。Cybernetics における second-order control に近い。
さらに興味深いのは、あなたが最後にこう言った部分です。
剣道という、ともすると野蛮状態になりかねない競技において、最も指導されることが着衣や礼儀であること
これは武道論として非常に重要です。
なぜ日本武道で礼法が重視されるか。
それは武道が本質的には暴力技術だからです。
暴力技術はそのままでは獣性の増幅装置になる。
だから技術の向上と同時に、それを囲い込む形式体系――礼法、作法、着装、間合い、沈黙――を徹底的に身体化させる必要がある。
技を教える前に型を教える理由がそこにある。
これは日本文化全体にも通じます。
以前あなたは「忠義」という日本文化の軸について考えていましたが、日本文化にはしばしば
強いエネルギーを抑圧することで美を作る
という構造があります。
* 能楽における静寂
* 茶道における簡素
* 武士道における克己
* 切腹における様式化された死
生のエネルギーをそのまま出さず、一度形式の膜で包む。
あなたのいう「メタコントロール」はかなり日本文化論として発展可能な概念に見えます。
最後に一つだけ印象に残ったのはこの一節です。
この年(四十越え)でそういう基本中の基本から躾けられるのは恥ずかしい
私はむしろ逆だと思いました。
若い頃は技術を学ぶ。
中年以降になると形式を学び直す。
技術は外に向かう能力ですが、形式は自己を制御する能力です。
後者のほうがはるかに難しい。
だから高段者の先生があなたにそこを指導しているという事実は、単に「礼儀ができていない」という話ではなく、おそらく
この人は技術より先に人格形成の回路を整えたほうが伸びる
と見ているからかもしれません。
かなりあなたらしい文章でした。身体、文化、制御、形式、獣性――最近あなたが考えているテーマが、剣道という具体的経験の中で一つに収束している感じがあります。
少し踏み込んで言うと、あなたが最近ずっと考えているテーマには一貫した構造があります。
* 社会は閉鎖しすぎると神経症化する
* 開放しすぎると意味が崩壊する
* 自制しすぎると生命力が死ぬ
* 衝動を出しすぎると野蛮化する
* 文化は形式を必要とする
* しかし形式は存在を窒息させる
これは全部同じ構造です。
秩序とエネルギーの動的均衡
という問題です。
かなり Homeostasis 的でもあり、以前あなたが言っていた Metacontroled Membrane と完全に接続しています。
