本雑綱目 81 戸井田道三 狂言 落魄した神々の変貌
今回は戸井田道三『狂言 落魄した神々の変貌』です。
平凡社。ISDN13:978-4582762266。
NDC分類では773。芸術. 美術>能楽. 狂言
これは乱数メーカーを用いて手元にある約5000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。
★図書分類順索引
1.読前印象
能はともかく狂言ってあんまりよく知らないのだ。能が真面目路線だとすると狂言はお笑い路線で滑稽ものが多いというくらいしか……。落魄した神々というと柳田國男的に妖怪を指すイメージはあるんだけど、それだと猿とか天狗とかそっちの話なのかなあ。そもそも柳田国男は妖怪談義で妖怪を『零落した神霊』と評したけれど、この説は後年に明確ではないが撤回しているはず。でも僕が持っているのは昭和48年の初版で、柳田國男は反論を許さない人だったそうだから、柳田國男の説に則って書いてる可能性はわりに高い気がしてきた。
とりあえず開いてみよう~。
2.目次と前書きチェック
はじめに的なものはない。
目次は『1.狂言世界の群像』は太郎冠者、大名、すっぱ、めくら、わわしい女、祖父、鬼、山伏、僧、百姓、猿・牛・狐というキャラクタ属性が並んでいて、『2.狂言の性格について』は一つ舞台だから違う狂言と能、狂言の舞台空間とは、一番目が悲劇二番目が喜劇、隣の悪口で生きる隣、新しい目で狂言を見て、とエッセイみのあるタイトル並んでいる。
順番は違うけれど、狂言の性格についてから『一つ舞台、だから違う狂言と能』と『新しい目で狂言を見て』を読んでから、狂言世界の群像から『太郎冠者』、『鬼』、『山伏』を読んでみます。前半は基礎っぽい空気なのと、後半は主人公と落魄してそうな者たちから選んだ。
3.中身
『一つ舞台、だから違う狂言と能』について。
狂言の登場人物はテンプレだ。神々には上下関係があり下層の神々が征服されるうちに落魄して属性が付与され、信仰を変化させて狂言を発展、つまり神が芸人に変化したのではないか。能と狂言の違いについて次の3点があげられる。
①能はシテ(主役)一人が観客も含めた世界全てを傘下に入れるのに対し、狂言はシテとアド(脇役)が対立関係にあり、それを観客が外から眺める。
②能と狂言は面の使い方が異なる。能は状況説明以外ほとんどしゃべらない楽劇だが狂言はセリフによって話が進行する。
③能は現在形で時間が進行するが、狂言はさかのぼることがある。
物真似を本芸とする猿楽の芸系を狂言の物真似の滑稽が受け継ぎ、一部が昇華されて新たに能を生み出し幽玄を目指した。①のとおり能ではシテが世界全てを包含するため、その中に存在する動作や小道具のうちシテ以外の存在を想像させるものは省略され、地謡がその世界観の補助をする。狂言では対立するシテとアドが存在し、それぞれが自らの動作の擬音を自ら声に出し場面を設定する。
この本はなんていうか、能にも狂言にも詳しい人向けにかかれているのがわかった。読んでいてなるほどと思うところはあるのだけれど、具体的な演目や演者の動作を前提の話をされるとあまり鑑賞していない身ではどんな話や空気感なのかよくわからないものが多く(特に狂言)、いまいちピンとこない、というか僕のレベルの知識で読むのがおかしい本な気はしてきた。言ってるところは概念的にはなんとなくわかるんだけど。
『新しい目で狂言を見て』について。
最近は能も狂言も見たことがない人たちが能楽堂に足を運ぶことが多く、その人たちは新しい目で見ているのか、笑う勘所が自分(著者)と違って興味深い。自分は慣れとマンネリによって面白さを感じなくなったのだろうが、面白ければ慣れてても面白いはずで、世阿弥のいう初心忘るべからずという言葉はまさにこれをあらわしている。今は能も狂言も形式が固まりすぎている。舞台芸能というのはその一瞬に目の前で見ないとわからないものだ(文字や録画ではあらわせないものがある)。それから笑いについて。
僕も能や狂言を見にいきたいんだけど、チケットが高いんじゃ! あと事前に勉強がいるあたり、誘う友達がいないとハードルが高いのではないかなと思った。この項で作者も惰性で見ていると反省しているんだけど、途中で席を立ったりするのに何故見に行くんだろうと不思議に思う。推しを応援しに行ってる感じなんだろうか。
『太郎冠者』について。
狂言では前段では名もない者として現れ後段(過去)で正体を現す。太郎冠者は太郎と主人が名付けたという意味あいで本名ではなく、名がない過去的な存在である。現れるときに長い返事をするのは建前として慇懃だが内心として無礼という二面性を表す。太郎冠者は狂言のなかでいろいろな役割を果たすが、その場所や状況は様々な当時の民俗信仰をベースとして世界が作られている。主がシテで太郎冠者がアドの場合もあるがその逆もある。
太郎冠者というのは今でいうとひねくれモブ係長みたいなポジションで、ストーリーにおいて主役になったり脇役になったり、その会社の状況や時代状況(バブルやコロナ)によってその行動が違うようなキャラだと認識した。
『鬼』について。
狂言『節分』は、鬼は福をもたらす存在から危害を加える存在への変化の過程が現れる作品だ。狂言の鬼は蓑や笠といった風体で、これは日本書紀のスサノヲの下りで蓑笠で人家に入るのが禁忌である事が習慣になっていたことを表す一方で、正月に訪れる神は幸福をもたらす祖先神の意味もあった。能と狂言における鬼は様々な地域や文化的役割や神々からのイメージを引き継いだ複合的な存在であり、その意味合いに応じてにつける面が異なってくる。ただし当時の幸福感は現代と異なる。能の演目は神・男・女・狂・鬼の順だが、初能の『賀茂』のシテは神である雷神、切能の『雷電』のシテは鬼である雷神である。このように神と鬼は必ずしも峻別できるものではなかった。脇能の神のおおよそは下級神で、信仰行事の媒介者が神の待遇を与えられるものであり、対立するものとして役割が与えられる。狂言の鬼は好色と敗北をその使命とするが、中には武悪の仮面をかぶせられて自身が鬼になったと思わされたり仮面をかぶって鬼に扮して主を脅す狂言があり、これらの演目には処々に清水が配置される。清水は化粧をするハレの日を表象し、漂流者やサンカの昔話や伝説と混ざり鬼のイメージを作った。それが本来の農民の願望と切り離されている点が、狂言の芸能としての独立性を表れである。
この本のサブタイトルは落魄なんだけれど、落魄とは辞書的にはおちぶれたことを示す。もともと鬼たる神は下級神だというし、天照大神などの上級神はそもそも狂言にはあまり登場しないらしい。出るのは仲介者としての憑依された農民(この表現が正しいのかいまいち自信がないけれど)とすれば、この項目を読んでみると、鬼とは様々な概念的な下級の上位存在が混ざり合ったものなんだろうかと思うけれど、やっぱり自信がない。能における鬼の変遷が複雑な民俗信仰の表れというのは納得できるものの、そのうちで狂言的なというか滑稽性を与えたものが天狗じゃないかなと思うんだ。そうするとこの本で鬼と天狗の違いが気になるのだけれど、この本には天狗の分類自体はない。でも次の山伏がいわゆる天狗的存在なのかなと思う。鞍馬天狗とか。なので次に進む→。
『山伏』について。
山伏は苦行によって神力を得、一般人から特殊視されていた。能の『安宅』から転じた歌舞伎の『勧進帳』では義経主従は山伏に変じるが、当時山伏修験が村々を渡り歩いていて、その山伏の特殊な姿が核となり天狗のイメージができたので、天狗が人の姿で現れる場合は山伏の姿をとった。様々な演目にある通り、山伏・怪鳥・天狗のイメージは絡まっている。狂言の人物は能と同じくすり足で進むが、鬼と山伏のみが腿を高く上げながら独特な歩法を取るのは、両者とも特殊な存在だからだろう。山伏狂言の奇妙さについて。
山伏の出る狂言は山伏が怪異に負けるものが多いそうだ。これは多分、天狗というものの成立過程によるものじゃないかなと思う。天狗はもともと史記や漢書に出てくる大気圏に突入する流星(その音が犬の鳴き声に似ている、というか中国の天狗は犬)であり、最初に日本に入ってきた際の日本書紀でも流星(日本書紀には「流星ではなく天狗だ」と書いてあるけど、まあ流星として)とされている。そこから天狗についての記録は途切れ、次に歴史に現れるのは平安後期で、その時にはすでに神力をもった人型の何かになっている。とはいえ初期の天狗は仏教勢力に敵対する存在で、インドの迦楼羅経由なところもあると思う(今昔物語とかでインドから飛んでくる天狗がちょくちょくいた)。天狗について色々読んでるんだけどさ、人型の鼻が長い天狗と鳥頭の烏天狗って文献上で微妙に発生時期がずれるのもあって、発生原因が別な気がするんだよね。鬼のところにも書いたのだが、日本における鬼と天狗はそもそもの発生原因は別として、役割としてはその神ならぬ(落魄かはさておき)不可思議な存在のうち、シリアス部分を鬼が、コメディ部分を天狗が受け持つかたちで中世あたりに役割の仕分けがなされたのではないかと考えているんだけど、そんなわけで文献求ム。
全体的に、これは狂言をよく鑑賞する人のための本だ。僕みたいに頭でっかちに文献ばかりよんでいて、実際能や狂言を見に行ったのが数回、という人間にはいまいち理解が及ばない。これらの舞台芸術がその場の空間を前提としているのはその通りで、実際に鑑賞したうえで実感できることをベースにかかれてしまうと、やっぱりピンとこないのだな。とはいえ実際鑑賞する人を前提とすると、すごくわかりやすい、というかすとんと落ちるような本なんじゃないかな、とは思った。能も狂言も高いからそんなにいけないよ……。
小説に使えるかというと、よくわからん。能は圧倒的一人称神視点で、狂言は三人称視点なのかなという気がうっすらした。この視点の差を意識して小説を書ければ面白いかもしれないと思いつつ、そんな大枠の話をしたって仕方ないじゃんね、と思う。内容自体については民俗学者を主人公にしたりしなければあんまり役にたたないんじゃないかなぁと思う。僕にとってはうちの民俗学者の引き出しが少し増えたので、役にはたったんだけど。
4.結び
筆者は狂言の語り口のテンポが遅く間が抜けるので退屈だという。専門家がそれ言うんだっていうか、ぶっちゃけ今の伝統芸能っていうのはスピード感はないけれど、それを言っちゃおしまいよっていう。でも伝統芸能はその形式を守ること自体におそらく意味があるので、変えちゃいけないん、だよね、データとして。本の中にもちょくちょく出てるけど、現代Verというか新狂言みたいなのがあっても面白いかもしれないけれど、前提が結構かわってくるだろうし、うーんよくわかんない。。
次回は徐朝龍『三星堆・中国古代文明の謎 史実としての「山海経」』です。
ではまた明日! 多分!
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能の本はわりともってるんだけど、狂言の本はあんまりもってないなぢょな。古い頁なので段取りがこなれてない。古い本だけどわりにわかりよかった。
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