見出し画像

本雑綱目 95 平川祐弘 西洋人の神道観 富士山に日本人の霊性を見たハーンとクローデル

今回は平川祐弘『西洋人の神道観 富士山に日本人の霊性を見たハーンとクローデル』です。
皇學館大学講演叢書 第115輯 、ASIN ‏ : ‎ B0B9J4DZV9。
NDC分類では170。哲学>神道
サブタイトル違いで同著者の『西洋人の神道観 日本人のアイデンティティーを求めて』(下記)があるけど、これは平成17年12月8日に皇學館大學文学部神道学科・神道学会共済講演会の講演草稿に修正加筆したVerだそうです。
前提知識必要度(宗教概念):★★☆☆☆
前提知識必要度(幕末・明治の空気):★☆☆☆☆

私訳甲子夜話を更新しようと思ってたんだけど、月末は何かと忙しく原典確認が捗っていないので、来月2週目あたりからまとめて更新しようかと思います。翻訳自体はなんか楽しくて22話目くらいまで終わってる。

これは乱数メーカーを用いて手元にある約6000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。時々恣意的に選んでいることもあります。

★図書分類順索引


1.読前印象:平川祐弘 西洋人の神道観 富士山に日本人の霊性を見たハーンとクローデル

 丁度ハーンも富士山も明治期の神道クリエイト状況も僕の興味のど真ん中です。神道が西洋人にどう受け止められているかはよくわからないものの、今の神道自体がふわふわざくっとしてるものではある。
 明治時代以前の統一されていない神道は地方の教育機関だったりマジ地元宗教から出た淫祠邪教だったり地方色が強すぎるのでその辺はとても興味深いところだけれど、その多くは既に神社合祀のガラガラポンで失われてしまった。そういえばマッカーサーは国家神道解体を命じたけれど、国家神道という言葉が国民に広がったのは丁度ここからなんだよね。そう考えれば米人が改めてその時点で土着宗教と明治神道の性質を切り分けたわけで、そのへんはとても興味深いな。
 とりあえず開いてみよう~。

2.目次と前書きチェック

 前書きはなさそうなので目次。
 『日本の宗教にまつわる誤解』、『世界は神道を何の類推で理解したか』、『神道とは何か』、『神道は宗教か否か』、『植民地化とキリスト教化』、『日本人は宗教的な国民か』、『発明された宗教か、民俗としての宗教か』、『神道に対する二つの相反する評価』、『『神国日本』』、『「神国」の三つの意味』、『「神州」の「神」とは何か』、『キリスト教の神と神道の神はどう違うか』、『「日本におけるキリスト教の世紀」とは真実か』、『God-Emperorへの反感』、『日本人にとって神とは何か』、『ハーンによる日本人の霊の世界の発見』、『霊について話したり聞いたりする私たちの資格』、『ハーンの先行体験』、『霊的なるもの』、『「仏」という言葉の特殊日本的な用法』、『富士山に対して覚える畏敬』。
 一番最初のは前書きっぽく、最後の以外は一項目あたり二~三頁ずつなので、 『日本の宗教にまつわる誤解』、『世界は神道を何の類推で理解したか』、『植民地化とキリスト教化』、『神道に対する二つの相反する評価』、『God-Emperorへの反感』、『ハーンによる日本人の霊の世界の発見』、『ハーンの先行体験』、『富士山に対して覚える畏敬』を読みます。
 いつも通り前段はまとめ、後段は感想・雑感。

3.中身

『日本の宗教にまつわる誤解』について

ーまとめ
 神道は日本にしかなく、日本語に基づく日本人しか信仰しない土着宗教である。そのためその性質は日本の内側からのみの視点、あるいは外側からのみの視点で論じることは困難であり、複数の視点が必要である。
 そもそも日本人はこれまで、西欧人に神道について尋ねられた際に神道を言語化してこなかったことから誤解が生じ、神道は普遍主義的ではないとか国家主義と結びついたとか、一方的にネガティヴ評価されることが多かった。しかし国独自の宗教文化はこのような外国製の国際的基準という尺度で測ることは困難である。
 神道の特徴は教祖がなく島国に自然発生的に成立し、経典教理より祭祀儀礼が重要視され、そもそもが天皇家の宗教である。本書では外国人が神道をどのように理解又は誤解してきたかを述べたい。

ー感想
 確かに古事記や日本書紀の個別エピソードは知識としてはあるけれど、それが総体としてどのような宗教かというと僕も言語化できないことに気が付く。
 例えば『須佐之男命が天照大御神の部屋に馬を投げ込んだ』とかいうエピソードと『神道とは何か』が直接つながらない。そもそも神道自体が(戦時中に組み込まれた特殊な事象を除き)対個人に具体的な何か(教義経典の行使)を求めたりはしない。いわゆる国家神道はさておき、神道の印象は宗教というより、考え方の指針とかに近い気はする。

『世界は神道を何の類推で理解したか』について

ーまとめ
 昭和二十年に国家神道解体令が出されたが、これは神道が国家主義に利用されたからである。しかしアメリカでも軍はキリスト教の神に祝福されて出征する。このように国家と神の関わりというものは、当然ありうるものだ。
 ところで欧米は、大戦中の日本がドイツと同盟国であり、当時の西洋人は日本に無知だった。そのためユダヤ人種絶滅政策を行ったナチスドイツを基礎として神道を類推した。ナチスはゲルマン神話に基づきアーリア人種の優越を歌い、日本は日本神話を利用して天皇を神格化した。つまり神道はナチスドイツに類似したものと認識され、現在もこの認識は続いている。
 一方で神道の中に現れる『暁神』も『現人神』も、万葉集からある美辞的表現にすぎない。八紘一宇も戦時中は日本人の優位を示すものではなく、人類はみな兄弟であり、当時アジアの中で欧米に立ち上がれるのは日本だけだったから立ち上がったというのが当時の日本人の素直な実感である。このように不当な誤りも多いにもかかわらず反論する日本人が極めて少ないため、誤解が解消されることがない。

ー感想
 あっまじか。ナチスと比較されているとは考えたことがなかった。
 けど同じ勢力にいたからそう論じた方が説明としては簡単ではあったんだろうし、敵性を強調するにも丁度良かったのだろう。けっこう目から鱗だな。しそもそも外国人から神道がどのように見られているか、という視点はあまり考えたことがなかったかもしれない。
 基本的に復古神道は、平田篤胤とかが天皇を神格化するために、天照大神の孫瓊瓊杵尊ににぎのみことのひ孫である神武天皇からの万世一系であることを強調する目的で古事記・日本書紀との繋がりを強調してクリエイトした国家神道だけれど、側面としては国家神道的な一面だろう。
 そもそもそれぞれの神社によって祀る神は異なるし、キリスト教の影響を受けた復古神道が天之御中主神あめのみなかぬしを究極神とするまでは、地方神道はそれぞれの神との関連で存在する土着信仰的な信仰である。これを前提に考えれば、アニミズムに近い感覚な気はする。でもアニミズムにさほど詳しくないから自信がない。

『植民地化とキリスト教化』について

ーまとめ
 キリスト教教会は先住民族の宗教、例えば西欧においてもドルイド教等の他宗教を滅ぼして建てられる場合が多い。一方でドルイド教徒自体が地上からいなくなったことから非難する者がいなくなったとしても(滅んだから)、妖精の樹を切ると祟られる等の伝承は残っている。
 本邦でも仏教の布教過程で同様のことがあった。西洋の植民地化はキリスト教化と並行して行われ、総督府建物とキリスト教大教会、ホテルが必ずセットで建築された。ところがハワイに出雲大社が建てられた時、二次大戦勃発と同時に没収されて宮司は拘留された。

ー感想
 多少語弊があるかもしれないけれど、レールを敷いたもの勝ちという印象はある。西欧ではその三点セットの存在が植民地における当然となったけれど、極東の土着宗教ではその西洋システムの仲間に入れなかったのだろう。ダブスタのように見えるけれど、戦争を始めた以上滅ぼす対象の宗教なのだろうから戦時としては致し方ない気もする。
 思えば日本では基本的に混ぜに混ぜて最終的に天道思想になるわけで、そもそも他を廃そうという気風がない。ここは一神教との違いだなとも思うし、日本は何故あんなにごちゃごちゃ混ぜるんだという気は逆にする。

『神道に対する二つの相反する評価』について

ーまとめ
 明治六年に来日したチェンバレンは西欧一の日本通で、明治十五年には古事記を英訳した。著作『日本事物誌』の中で、神道は経典も道徳規範もなく空虚で実質に乏しいため宗教の名に値せず、愛国制度として維持しようとする当局でさえそうであると述べた。神道の性格は初期段階の宗教ともいえる。
 一方ハーンは、社の前に立てば数千年もの間、数百万人が連綿と先祖を拝み全国民が今なお信じている。これ前提にすれば表敬の念を取らざるを得ないと述べる。

ー感想
 原始的な宗教の形といえばそんな気はしてきた。
 西洋の一神教は神が絶対正義であることを前提とする。それと対比すれば自然と他の宗教、特に特定の何かに祈らない異なる形態のものは原始的だという評価となることは、考え方として仕方がない気はしなくもない。
 それはそれとして原始宗教の定義問題にもなるけれど、やはり神道は特定の神に祈りを捧げるものではないので、宗教という枠組みに置くことがそもそも無理がある気がしてきた。つまり無理やり西洋の宗教という枠組みに組み入れるから不自然になる気がする。
 ところでキリスト教は神と神の子という二元論(イスラムは神直帰の総平等なので一元論)に立つとして、祖先信仰というのはすでに神に上書きされて存在しない観念なのかな。最後の審判で先祖も一緒に復活すると考えれば、ある意味世界を分け隔てて(相対化して)特別に祈る対象にそもそもしないということなんだろうか。宗教にはまると沼すぎそうなのであまり近づいてはいないんだけど。

『God-Emperorへの反感』について

ーまとめ
 大戦中、天皇はGod-Emperorと訳され反感を買った。西洋人にとってのGodは全知全能の絶対者且つ創造主として全ての人間や生命を創った存在であり、これを天皇が自称するのは許しがたいことである。
 一方で日本で天皇を天の皇、国民を神の子と呼ぶとすれば、それは純粋に自然(神)が生み出した末裔という意味であって、そもそも創造主だとか全知全能という意味は付与されていない。

ー感想
 単純に神は神として認識していたけれど、絶対唯一の一神教の神と全てに神が宿る多すぎる神教な日本では神感が違うのは当然で、というか他の章でも書かれてあったけれど異なる文字をあてるべきであったんだろうな。米一粒一粒に神がいるという概念は、西洋人にとって同じ神という言葉では理解はできないだろう。
 そう考えると、もともと悪意をもった訳であったとしても、初期段階で大きなすれ違いが生じていることは間違いない。思ったより乖離は深い。

『ハーンによる日本人の霊の世界の発見』について

ーまとめ
 盆に祖先霊を祭るという習俗は、幼少期にハーンが過ごしたアイルランドの風俗に似ている。ハーンは宗教こそが日本を説明する鍵だとしてチェンバレンと意見が対立した。
 ハーンはこの霊の問題は①盆等における日本習俗の行事上について、②怪談等の霊の世界について、③祖先霊が神としてまつられることによって日本人の行動を道徳的に規制していることについて、を指摘する。

ー感想
 万世一系とは太古からのつながりを示す言葉で、天照大御神から始まる子孫の系譜が天皇家である(事実の問題ではなく)。この『昔から繋がっている』という部分自体に価値が見いだされている。最近はあまり聞かれないが、『ご先祖様が見ている』という風習は比較的最近まで残っていた。
 そうするとこの先祖との断絶をもたらしたのはやはり基盤としての地方の衰退、というか祖先との分離と核家族化なんだろう。そう考えると現在の日本にこの意味での霊はすでになく、祖先霊がもたらす道徳規範が失われつつあるわけだなといわれると、なんとなく納得できてしまう不思議。

『ハーンの先行体験』について

ーまとめ
 ハーンは来日前、西インド諸島マルティニークで暮らした。そこの宣教師はアフリカ渡来の黒人は完全にキリスト教化していると述べたが、民話を集めれば黒人は以前と変わらず精霊を信じていた。
 同様に日本でも仏教渡来以前の土着宗教である神道は生きていると考える。日本では神道は仏教化したが、仏教も神道化していた。ハーンはこれを日本の仏教関係者以上に認識していた。

ー感想
 基本的にキリスト教は土着神を悪魔化して残す。特に北欧やアイルランドあたりでは色濃く信仰が混ざって残っているイメージ、というかキリスト教は教会の方針としてそうしたんだと思ってるんだけど、末端司教の認識ではそうでもないんだろうか。
 そもそも日本に入ったザビエルの作ったキリスト教はすでに結構独自色を持つし、日本人が魔改造するのは昔からと考えれば、そこから個別の要素を切り分ける方が難しい気がしてきた。仏教導入して百年経たずに本地垂迹するし反本地垂迹もする国だから。

『富士山に対して覚える畏敬』について

ーまとめ
 ハーンは日本海上から二度富士を描写した。一度目はスケッチ風の描写でその美しさを讃えたが、二度目は富士を通して日本人がもつ精神的意味を示した。クローデルも富士を最も偉大なる祭壇と呼び、富士が持つ霊的意味を把握した。

ー感想
 この章は他と違って誌的な話で、考えるな感じろ的な表現が散見している。思ってたのとちょっと違ったけれど、とりあえず基本的な西欧人にとって山とは物理であり霊性はなく征服するもので、頂上でシャンパンで祝杯をあげて祝砲を打ち鳴らしたオールコックが典型なのだろう。モース先生はきっと中間なのかなとも思う。
 ところで富士山って言語化できないのかな。たしかにここに引用された描写は言語化といえるものの、その普遍性(不死身性)というのは今のところ詩で表現するしかない。その手法は適切かもしれないが、やはりそこを文章として言語化したい。
 なんとなく自分の中の富士山があんまり言語化されていないのを感じたけれど、そもそも僕はオールコックやチェンバレンと同じような感想しか持ち得てないのかもしれない。昔登頂したけれど、残念ながら神性は感じなかった(個人の感じ方なので怒らないで)。

まとめ

 結局全部読んじゃったので、感想は上記項目外を含んでるかもしれません。
 全体的に、いろいろ目から鱗なところが多かった本。上記まとめ以外だと、宗教が言語化されるのは他国への布教の過程であるとか。確かに南蛮文学の本では辞書を作ったりの苦労がたくさん記載されていた。
 そもそも論として、『宗教』という言葉自体が開国後に入って来た言葉だ。それを前提とすると、いわゆる西洋にあるような『宗教』は日本に存在しなかったところを無理やり『宗教』に当てはめた、と考えるのが正しいのだろう。そのような西洋視点から書かれた近代以降の歴史書によって、あたかも日本に宗教があるような錯覚に落ちいっているのではないか、という気がする。
 今の日本人の無宗教的な宗教観は、四季折々や賭け事等の節目に、今風にいうと推し神に祈る風潮としてずっと続いていたのではないか。つまり今も人々は『宗教』とは西欧世界の考える宗教であると認識しつつ、従来寛容な信仰文化を持つ日本においては西欧宗教という概念のアミをかけられながら、なんか変だなと思いつつも排除するほどでもない呪縛に絡まっている、のかもしれない。とはいえそもそも現代人はここで書かれる明治の人間より更に、チェンバレンら西欧人の感性と視点に近い気はする。
 小説に使えるかというと、この視点はとても興味深くて是非書きたいところだけれど、これを今かいても理解される気が到底しない。この本自体は結構前の本ではあるんだけれど、宗教というのはその中心にいる人ほどプリミティブだからなかなか難しい。いや、というかこれこそが僕が富士山の話で書きたいところだ。

4.結び

 とても参考になったけれど、これこそ言語化するのが難しく、ここを言語化してこそ面白い話が作れるとは思うんだけど、やっぱり難易度高いループ。今のプロットVer5はバディもののライトな話によせちゃったからなぁ。テーマを見失わないようにしないと。
 そもそも論として、日本は神道を他の地域に広めようとする発想がない。だからこそ他の言語にする必要もなく、客観化して理解を求める必要もない。そのままずっと続いていたけれど、その大本(祖先霊)と切り離されてますます形骸化しつつ、なんとなく残ってる。これもきっと植民地化のために布教されたキリスト教と異なり、消す必要もないからだろう。この辺も書いてみたいけど、壮大すぎてちょっと難しいな。書くならSFだと思う。
 次回は窪田蔵郎『製鉄遺跡』です。
 ではまた明日! 多分!

★似たテーマの本
 戦国・江戸初期に日本を訪れた外国人がどのように日本人に布教を行うか、試行錯誤した本。

★一覧のマガジン

#読書 #読書レビュー #レビュー #うちの積読を紹介する #書評 #読書感想文 #note感想文  #読書記録


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集