本雑綱目 105 国立歴史民俗博物館研究報告 132 特集:民俗学における現代文化研究
今回は飯島建男監『国立歴史民俗博物館研究報告 132』です。
ASIN : B0DT4R6NSN
NDC分類では051。
前提知識必要度(民俗学):★★☆☆☆
このA3サイズの並の本より分厚い本を雑誌といっていいのかよくわからないけれど、とりあえず一律雑誌は雑誌分類。このシリーズは普通の美術館のでかい図録よりさらにでかくて重い。
そして今回結構長い注意。
↓132集はなぜか現在(2025.8.8)見れないんだけど、そのうち見れるかもしれない
これは乱数メーカーを用いて手元にある約6000冊の本から1冊を選んで読んでみる、ついでに小説に使えるかとか考えてみようという雑な企画です。時々恣意的に選んでいることもあります。
★図書分類順索引
1.読前印象:国立歴史民俗博物館研究報告 132
国立歴史民俗博物館、いわゆる歴博は千葉にある民俗資料の宝庫で、ここを儲からんから潰そうとかとんでもない、な施設なんだけど、いかんせん佐倉なのでちょっと遠くて実はいったことがない。あとこの集は歴博リポジトリでだいたい全文読めたりするから、正直購入して重量に耐えて筋トレしながら持ち帰る必要があるのかはわからないところ。重かったよ。
なお表紙に目次がバンとのっているけれど、それは次項に譲る。すぐバラすけどいい紙つかってるんだよね。
とりあえず開いてみよう~。
2.目次と前書きチェック
はい次項。
はじめに的なものはないけれど、本号のテーマは『民俗学における現代文化研究』で、その共同研究の概要があるので読む。
民俗学では1970年代から「都市民俗学」が提唱され、同時代の社会・文化を対象として研究がなされたが、既存の民俗学の枠組みのまま個別研究が行われたため上手く比較できないまま挫折した。1990年代後半から体系化には至らないものの「現代民俗」「世相解説」の名前で広い枠組みで取り組む動きが増え、この研究動向を踏まえて「都市民俗学」を脱却した新たな「現代民俗」の研究に具体事例を通して体系化を試みる。
なんとなく横断的な枠組み構成を目指す試みのようだが、部落とかジェンダーとか、混ぜたら危険なものがうまく混ざっているのかしら。ハテ。
目次は、『<生きる方法>の民俗学へ』、『戦後民俗学の認識論的変質と基層文化論』、『幽霊の変容・都市の変貌』、『フィールドにおける二つの語り』、『国家の装置としてのPTA』、『共有地利用の変遷と村の行方』、『<落差>を解く』、『部落解放運動の現在と被差別部落の民俗』、『映像と音』、『近代における遺影の成立と死者表象』、『明治・大正期における軽犯罪の制度的変化と社会管理の強化』、講演記録として『<私文化>をめぐる諸問題』、『民俗学運動と学校教育』。
『幽霊の変容・都市の変貌』、『映像と音』、『近代における遺影の成立と死者表象』、『明治・大正期における軽犯罪の制度的変化と社会管理の強化』を読んでみます。結構一杯。
いつも通り前段はまとめ、後段は感想・雑感。
3.中身
『幽霊の変容・都市の変貌』について
ーまとめ
我々は意識の中で「前現代」という時代を作り出しそれと現代を比較し、今は光り輝く高度経済成長の時代を神話のように眺めている。かつて柳田國男が研究対象とした「民俗」はすでに高度経済成長を堺に消え去った。幽霊は妖怪研究に比べて無視されてきたが、現代の怪異感や生活感覚を明らかにしたい。
高知市域で江戸時代の記録や現代の都市伝説の聞き取り調査を行いマップを作った。前近代では生活様式に応じ、山間部では山姥や天狗、河川部では河童や蛇・蟹・蟇の妖怪。山と城下町に挟まれた里では狸や狐が化けた妖怪が出没し、自然環境に応じたかたちで形象化しているのがわかる。一方でマチでは妖怪はなくほとんどすべてが化物屋敷を含む幽霊譚として語られた。
柳田国男の語る幽霊と妖怪の差異は属性ではなく、環境の差異によってもたらされる。ムラ暮らしは自然環境との戦いだが、マチでは多数の人間こそが恐怖の対象となり、人の引き起こす陰惨な事件に基づく存在として人の死霊が怪異として紡がれた。マチの怪異譚の多くが塀で囲まれた武家屋敷や豪商の家で生じるが、その生活は庶民には想像しがたく、その内側を暴きたいという秘密感が怪異譚として語らせた。
次に多いのは無縁仏の怪異譚であり、仕事を求めてマチに来た者の多くは祀る者もなく無縁仏となり幽霊となって姿を現す。第三は、街は貨幣経済のもたらす欲望が集積する地であり、欲望が果たせなかった者の未練が生前の姿で幽霊となって現れる。高地では昭和初期、妖怪は現世に現れなくなり、怪異が幽霊が場所を問わず現れるようになり、怪異現象は妖怪ではなく幽霊が原因とされるようになった。
都市部では1900年ごろから交通網の整備や百貨店等の資本の象徴が現れ近代都市が巨大化していく。地方は日清・日露戦争前後から本格化したこの都市部の近代化が地方に波及した。これによって全国各地で地域的特徴を持たない非場所性の都市化の進行が浮き彫りとなる。
現在の幽霊は出現場所から「橋・峠・トンネル系」、病院や学校の「建物系」、PCやTVなどの「メディア系」があり、近年は場所と結びつかないメディア系が主流となる。
現在の高知の幽霊のうち「橋・峠・トンネル系」は市の周辺部の開発された場所に現れる。事故等の記憶や過去の怪異譚(昔墓地があったとか)と結びついて怪異の必然性が形成される。「建物系」は霊安室を供えた病院やかつて処刑場や墓地があった等いわくつきの人死と関連する場所であり、時には歴史と異なる背景によって作出される場合もある。これらの幽霊発生場所は学校や会社等の競争を余儀なくされる場所であることが多く、人間関係の摩擦を回避するために快不快を霊的なもので説明しようとしているのではないか。
「メディア系」は場所と関連することはなく近年生み出された怪異である。これはコンビニやスーパー等、ムラや都市を問わず全国的に同じ風景が作出され、場所のアイデンティティが失われたからと考えられる。スマホは通信手段としてのみではなく個人の関連性を内包するものであり、これを失えばあたかもかつての無縁仏となることと同義である。
近代の中で我々が得失したものを民俗学的に把握すべきである。
ー感想
場所性の喪失や世界の均質化、自己認識を土地からデータに移ったのはその通りだろうとは思うものの、僕の解釈は少し違っている。妖怪が昭和期には完全に失われたことには同意するが、それは環境が均質化したからではなく、単に妖怪の実在性が科学的知見の進展によって失われたからじゃないかと思う。何故ならマチに存在するべき朧車やぬらりひょん、一反木綿や毛倡妓も同様に失せたからだ。
妖怪は物理的に生物として存在しえない、これが端的に妖怪不在の理由だと思う。一方で妖怪がいたところを幽霊が埋めたというのはそれは一つの事実であるとは思うが、田舎で出る幽霊も現代では都市人の姿をしている。武士の幽霊が出るのは武士が存在し得た時代に卑近な時代だからで、そう考えると幽霊とは現在生きている人間群との関連で出てくるものだろうなという気はしている。今はギリギリ太平洋戦争のころの幽霊がたまにトンネルに出るくらいか。
さてメディア系は少し前に流行ったリングや着信アリ系のものだろうけれど、最近面白いのが因習村が流行っていることだ。幽霊とはあくまで個人であるとすれば、因習村って多分田舎というフォークロアにリバイバルしてきた妖怪なんだと思う。つまり田舎というもの自体が現在の都市人にとって理解不能なものになってしまったっていう。そう考えると一周回った感があるけど、結局どれだけ科学が発達してもヒューマンエラーがいつまでも発生するのと同じように、不可知の存在というのは人の頭からぬぐえないもので、名前はさておきそれを仮象するのが妖怪なり幽霊なりなのだと思う。
そう考えると人は何を枠組みとして恐怖を捉えるかという問題になり、昔は危険な川や山があればそれを妖怪化して警鐘をならしていたのが、昭和では人死にが出たような炭鉱やトンネル又は人間関係の悪化に基づく死(いじめとか)がありそうな場所に幽霊が発生し、現在は生活基盤自体が建物ではなくリモートによるSkypeやZoomに存在するとすれば、先取りしてその辺がホラーのテーマになっていくのだろうなとは思った。
その場合は主人公のコミュニティが何を意味不と感じてるかを抑えないとダメなんだろうな。そして民俗学がなんなのかよくわからなくなった。っていうかこの学問は民俗という一定の風俗習慣を共通する人々の傾向を探る学問だと僕は思っていて、一律総均質化してしまうと存在意義がどんどん減っていく、のかしら。
『映像と音』について
ーまとめ
「映画をみる」というように、映画はまず見るものとして存在する。スクリーン上の世界は我々が生きる世界と同じではない。にもかかわらず虚像と知りつつ自己の身体が直接経験するような臨場感をもって経験することができるのはなぜか。
この問題はラカンの鏡の段階論から論じられることが多い。生後6~18月の幼児が鏡に映った自分が自分とわかるようになるには、自分と鏡像を同一化する過程が必要という。この同一化は自分と異なる者と自分の同一化であり、自己の形成の原点に外部の自分と異なる自己を必要とすることを意味する。これは視覚を中心とする表面的なものだ。
人に限らず、動く生き物は身体そのものに「向き」を備え、その象徴たる顔が向く方が前、反対が後ろとなる。人の視覚世界は人の視点を軸に前方に遠近法的に広がり、志向性をもって世界は展開する(パースペクティブ)。人は他人のの指向性をまなざしとして感じるが、相手がスクリーン上の登場人物でも同じであり、その向きを感じることができる。「私」が人と目を合わせる時、「見られている」、つまり相手の志向性を感じる。
相対する人間が同じ仕草を模倣しあう時、浜田は相手を「見たとおり」真似るのではなく「したとおり」まねると述べる。つまり当然に相手の身体の軸にパースペクティブを置き直し、相手の向きに自分の向きを重ねて相手の行うとおりに仕草をする。
鏡に向かって自分の姿を見たとき左右が反転しているように感じるが、光学的には反転しているのは前後である。浜田は鏡に映るのが人物の場合と物の場合とでは異なる処理がされると述べる。物の場合は鏡面近くからA.Bと物を置いて映せば様子を見る私の手前から鏡を挟んでB.A.A.Bと見える。つまり垂直軸を反転させる。並行にA.Bと置いた場合は鏡の向こうにはA.Bとうつり、鏡そのものに左右を反転させる働きがないことがわかる。
一方で人が映る場合、例えば右手に箸を持って食事する人が鏡に映る場合、左手に持っているように見えると認識することは少ない。視点の取り方を対象である相手、鏡の向こう側の視点に合わせるためだ。しかし鏡に映るのが自分の場合に左利きに見えてこないのは、他人の鏡像は目という視覚でとらえた像であるのに対し、自己の身体の場合は視覚と同時に姿勢や運動を筋肉や関節等に備わった自己受容感覚でとらえるためである。動作をすれば鏡像も動くが、同時に動作をする自分の体から感覚が意識に登り、右手が右手として感じられる。
バックミラー越しにバイクを見た場合、左右を取り違えることはない。吉村は運転時は車体の左右を含む実際の空間にいる自己の身体軸と、バックミラーに映った鏡像空間の座標軸を同一のものとしてとらえているので左右反転感が生じないという。運転を「する」感覚が前景に生じ、車体を含む現実空間の自分の向きが優勢となるため、前後左右の取り違えが起こりにくくなる。このように我々は視覚対象として「見る」というレベルと同時に身体で「する」というレベルをおき、状況に応じて対応している。
映画館では、映画を見る以外の「する」が意識の前景にならないように「見る」ことに没入すると、見る人の身体は映画の中の登場人物の「する」世界に参与すると考える。
つまり登場人物の「する」を「見る」ことで相手の身体が経験することを自分が経験するようになぞる。「見る」世界が虚構の世界として成立し、その背後におかれた「する」世界によって身体が参与する。
では視覚はどのようにして虚像と実像を区別するのか。浜田は鏡像を虚像としてとらえ実像との二重化が成功することの意味は、鏡像が実像を映しているという対応関係を理解し、鏡像が意味するものと、対応する実像が意味するものの記号的関係が成立していることを意味する。
我々は物を見る時、視覚のみならず外受容感覚を動員しており、「見る」を考察するときも見る主体の身体から切り離しての抽象化ができない。映像に引き込まれる時、身体は登場人物の表情や身振りに疑似的に同調するが、身体はスクリーンに向かって行動しない。このことから我々は実像と虚像の二重化が成立し、鏡像はあくまで虚像としてとらえ、身体の同調は内向化して被実践的な身構えが成立する。
聴覚によってとらえる世界は視覚によってとらえる世界ほど客観性を帯びているようには感じられないが、自己の外側の物音から「自己から離れたもの」として自覚できる中間的な性質を持つ。自分が誰かに声をかければ発した声が自分の耳にも入る再起という特徴を持つ。
視覚は自己の身体を離れて他者とパースペクティブの交換が可能であり、聴覚は自己の身体の内と外に同時に広がるが、この二つは相互に作用する。テレビ画面で人物がバストショットで写される場合、音は両端のスピーカから出ているのに人物の口から音が出ているように感じられるし、音の方向定位は視覚情報や音と映像の角度による影響を受ける。矛盾が生じたときは視覚優先傾向がみられる。空間知覚に関しては視覚と聴覚のみではなく、どちらが正面化を知覚する姿勢運動感覚を知覚する身体の向きが座標系となっている。
映画の世界ではスクリーンに映るものの音をオンの音、映らないものをオフの音と呼ぶ。つまり視覚外の音も耳に入り、情報として自然な音響となる。無声映画の時代に音楽を伴奏したのは映写機のノイズ音を隠すためで、意識から虚像性を消すことが映画音楽の役割でだった。視点を変えることはできるが聴点を変えることは不可能で、常に考慮され、オフの音が緻密に設計された作品はスクリーンの物語に立ち会うような臨場感を与え、外のものを対象化しにくい。
まとめれば、映画はまず見るものとして存在し、「見える」他者の背後にある「する」他者を一体として捉え、「する」自分のうしろに「見える」自分を一体のものとして捉える心的構造があるからこそ、臨場感を得る。映像に引き込まれる時、私達の身体は「見る」と「する」を往復して登場人物の表現や身振りに同調し、相手の変化から相手の情動を「理解」する。本質的に他者の内面は把握できない。自身の顔や背中を見ることはできないが、他者の身体は全容を見ることができる。自他ともに謎を抱えたままやりとりをしている。
一方、映画では登場人物が自身を見ることはなく、自分にとって見えない自身の顔を意識することはない。映画を見る主体は自分の視覚の謎を忘れた主体である。映画の構造や我々の近くの関与を検討することで自らの視覚や聴覚の空白について思考を可能にし、新たな思考が得られるだろう。
ー感想
えっと。そもそも論として僕は映画は映画に臨場感なぞ感じないのだが、一般的には違うんだろうか。臨場感とはなんぞや。そういえば僕は映像でなくても他人に共感したりはしないけど、そのせいなのかな。ひょっとしてしてもすぐ忘れるのかもしれないけれど。
さてそれはそれとして、これは人はどのようにして自他を認識しているのか、という話。鏡の見え方等、これまで僕が考えたこともなかったモノの見方が展開されてとても興味深いものの、この形而上な話は一度頭の中でバラさないと応用が効かなさそうである。そもそも論、他人の頭の中なぞわかるわけがないのだ。しかしそれを相手を視覚的に見ることではなくその行動(この文では「する」と表現されている)を自らの頭の中で自らに置き換えてトレースすることによって、相手の頭の中を推測しているわけである。
何かを認識する時、見たという資格情報だけではなくそれを自己に取り込む身体受容感覚というものが関与する。つまり相手と同じように自分の体を頭のなかで動かすことによって、相手を理解しようとする試み。まだうまく消化できてはいないのだけれど、話を書くときに心情を語るより共感しうる身体操作を大量に文中に投下したほうがより身体的に(臨場感を持って)理解できるのかもしれない。臨場感が何なのかよくわからなくなってきた。
結局、普段人はどのように物事を見て、見えない他人の中身を認識しようとしているのかについての生化学と認知的な機序みたいな話でとても興味深かったものの、これ系統の話はなかなかピンと来づらい。これを学問として検証するためには、自分自身の認識として当てはまるかという観点以前に、多数の人間において統計的にも当てはまるかという統計的な観点と検証が必要と思うんだけど、これについての優位な資料があるんだろうか。すごくきになるぞ。上手くいけば、不気味の谷的な論点に繋がりそうな。
最も興味深かったのが聴覚について。目に見えているものを前提とする音源とそれ以外のいわゆる背景音のバランスの話だ。小説で僕は目に見えるものを中心に描写しているけれど、もっと様々なものの描写バランスを考えないといけない気がしてきた。ところでこれって民俗学の話なのかな。そもそもの話。
『近代における遺影の成立と死者表象』について
ーまとめ
岩手中央部では江戸末から明治にかけて、不幸な死者供養のために、彩り豊かに来世の理想の姿が描かれた大型の絵馬状の絵額が盛んに奉納された。
遠野市立博物館の調査によれば現存する絵額は386点、多くが遠野市を中心とする。絵額が盛んに奉納されたのは明治20~30年であり需要を満たす絵師の存在が大きい。
絵額は「生活描写型」と「来迎型」に分類でき、前者は過去数年から数十年になくなった家の構成員が描かれ、後者は1,2人の死者が極楽浄土に赴く様子が描かれる。
木製の幅太の木額で黒縁がほとんど、板に直接もしくは紙を貼って鮮やかに彩色され、江戸時代の技法で浮世絵風の人物を中心に背景のふすまに花鳥が描かれる。多くは床の間のある座敷で豪華な家財や料理等を前に座っている。特徴は複数人の場合が多いこと、夭逝又は中年までの天寿をまっとうしない死者が多く、夭逝者を期に老壮の死者を描く傾向があり、夭逝以外には死者が続く等、家にとって不幸な状況であるという傾向が見られる。還暦をすぎた老人や、明らかに老人だけの絵額は少ない。目的が死者供養のためという点を除けば絵額は形態から絵馬と区別がつかない。後生の後生安楽をいのうという点では現世のモチーフを基礎として来世の理想像を願いとして描いたものといえる。
描かれる内容は故人の嗜好や趣味というより年齢や性別である程度パターン化されていたようだ。民俗学的には異常死の範疇のものであり、多くの祖霊化しない死者たちに対して特別の供養として行われたと考えられる。これら絵額の絵師らは大正期以後減少する。
明治中期以降は兵士や洋風化した風景が描かれるようになり、絵額と写実風の肖像画の技法が混在した額が登場する。明治37年に写真と肖像画が同時に登場し、軍人に顕著だが、絵額が肖像画や写真等の遺影に変化する。肖像画はモノクロ写真のように明暗をつけたものや油絵の具で描かれたものがあり、上半身像や胸像で正装し、写真をもとに描かれたものと考えれる。これら写実風の肖像画は写真とともに成立したと考えられ、一般の肖像画も写真に似せることが求められた。
長泉寺の場合、日清戦争出征兵士の絵額は異質で、軍服姿であり、明治の元勲の姿である。軍人の肖像写真は幕末維新期から死を前にした武士や軍人に流行し、特に日清戦争では雑誌で戦死者の肖像写真が掲載されて広く一般の目にふれた。浮世絵的な人物表彰から写実的な肖像への移行は、軍人だけでなく一般の死者に及んだ。兵士の夭逝は供養すべき不幸であるが、国家にとっては名誉の戦死であり顕彰(功績を称えること)すべき存在となり、不幸を強調することはできなかったため、死者の顕彰、つまり現世の組織に力点が置かれるようになる。
肖像写真の初出は明治37年の死者であるが、その次に現れるのは大正期で以降次第に増加する。初期は日常の写真を引き伸ばしたもので、随分後に礼装となる。
昭和20年代までは擦筆画が大部分をしめ、死者の多くが子どもから中年までの夭逝した人々であるが、天寿を全うした者も散見されるようになる。昭和6年以降は軍服姿の遺影写真が増加し、昭和30年代以降になると奉納される死者のほとんどが還暦を超え、夭逝者の写真が少なくなる。絵額の伝統から一つの額に複数の死者の写真を並べるものもある。
明治期までの絵額と肖像画や写真の遺影の決定的な差異は、遺影が生前の現身であることからも、死者のイメージが来世でなく生前の姿に変化したことだ。絵額では死者を死後の世界の時間に位置づけていたが、遺影では過去の生前の記憶という現世に変化した。昭和30年代までの夭逝者の中に老人の遺影が増えるのは、顕彰の視点が加味されたためである。昭和30年代以降は夭逝死者が医療の発展によって減少する一方、往生し社会的に貢献した人に対する顕彰装置と捉えられるようになり、高位戒名が増加した。一方で写真は生前の記憶と直結するため、顕彰のみならず追慕を深めるために有効となった。つまり死者はいま、ここにいる。
ー感想
このまとめにはカットしたけど原典には214点に及ぶ絵額、肖像、写真についての種別や性別、年代、服装等が記載されていて、資料として興味深い。
内容は前後しているところも多いが、簡単に言えば死者を祀る絵が現在の遺影に変化した背景と意味を探る試みだ。来世の幸福への祈りが現世での顕彰に変化したというのは文化的にとても興味深いところだが、おそらく科学の進展によって来世が見えづらくなったのと、あと時間の感覚認識の変化によるものだと思う。時間にとって『先のこと』がいつを指すかは近代以降大きく変遷している。今の人間にとって先のこととは将来のことだが、昔の人間にとって先のこととは昔のことだ。先の大戦とか先の戦とかいう言い回しは少し前まで使われていたし、現在も先月や先週という言葉に残る。先という言葉は現在から少々距離がある時間の地点を指すのだろう。
ところで愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶという言葉がある。ようはこの学ぶという方向の変化が起きている。昔は世界の原理の解明(一般化)が進んでおらず高度な演算処理に基づく未来予測はできなかった。だから未来を予測するためには現在に続く過去を振り返って先人の教えや類似の事象を古書などから発掘したわけだ。ところが現在では科学技術や統計学なんかの進展によって個別事例をいちいち紐解くこともなく、つまり後ろを振り返ることなく未来の方を向いたまま未来を計算することができるようになった。
ところで来世とはある意味異世界と呼べるけれど、未来にはない。そこで生者と死者とは並行世界的に違うルートの世界を歩むことになる。後ろを向いていた時代はその先を見れば先祖がいるわけで、そこに合流することが供養とかいう単語に繋がったけれど、現在と未来を見るようになると、結果的に過去、つまり先祖をみることがなくなる。人の目は大抵一方向しか見えない。だから死者の弔いというよりは顕彰のために死後現在を讃えるようになった。最近は墓じまいとか簡単な葬儀が流行っているけれど、これは信仰や経済的理由というよりは、過去を見なくなったからじゃないかなと思っているのだけれど、僕は民俗学者じゃないのでよくわからない。
ところで東北で絵馬というと山形のムサカリ絵馬のイメージだが、ムサカリ絵馬の現存資料の最古は江戸末くらいだから、この項目を読んで改めてみると夭逝した男子(不幸)に来世での暮らしにきちんとした家族を残したいという感覚と近似しているのかなと思った。
『明治・大正期における軽犯罪の制度的変化と社会管理の強化』について
ーまとめ
明治・大正の軽犯罪を対象として法規制や警察の社会管理の変化と犯罪件数の関係について調査した結果、殺人や傷害等の重い罪は戦後の貧困や社会混乱があっても検挙件数にさして影響はなく、時代の価値観のや法体系の変化によって範囲が異なる軽犯罪の増減が見られた。
近世まで原因不明の犯罪を神隠しや狐憑きと説明することで個人責任の追及を免れ、特に精神障害は狐憑きとされ犯罪を犯す者と認識されなかった。近代以降は刑法によって犯罪の原因を個人の性格等に求められ、「犯罪者」という人間が発見された。
精神科医は明治30年以降『狂気』と犯罪を同一視し、精神障害者を精神病院に収容し社会防衛をしなければならないと叫んだ。従来の民俗学は『民俗』を近代化に伴い消滅するものと位置付け『終わった問題化』しようとするが、柳田民俗学は民俗は現在の社会問題を解決するために必要な知識であるとし、伝統を根拠に都合の良く正当化しようとする世論形成を歴史的変化実体を示すことによって否定し、各地方の史実を正しく学ぶことによって社会問題の原因を追究する。
新たな社会規範や法律を作る際、政治家や官僚、マスメディアが必要性を創出する。彼らは日本帝国統計年鑑や内務省統計報告等のデータで裏付けを作る。本稿は正しく犯罪実体を検討するために当該データを参照する。対象は明治・大正の日本であり、重視するのは軽犯罪に関する法制化と犯罪感の変化である。
開国後、外国人から好奇の目で見られた日本的な肌を見せる等の旧習は為政者にとって文明化の遅れを象徴するもので、悪として排除すべきものだった。しかしこれらを取り締まることを目的とするといわれる軽犯罪法の前身である東京都違式詿違篠例(以下「本条例」という。)の罪目追加には野蛮な行為を取り締まるための条文列挙が意図的に回避され、法制課と社会管理強化をすすめる教部省のせめぎあいで、特に問題とされた項目に限られた。
本条例は時代の変化に伴う新律綱領(様々な法令)を適用できない近代化によって生じた新たな問題や公衆迷惑、個人トラブルに対処する雑多な法律である。雑多なために犯罪と非犯罪の境界がわかりにくく、犯罪と知らず逮捕されるものも多く、人々は本条例を口実として逮捕されることを恐れた。地方に適用される際にはその状況にあわせて加除され、村落生活の生きる規範をそのまま継承したものといえる。1881年に検挙者が増えた原因は松方デフレによる米価下落のあおりを受けて貧民が無断で山林伐採を行ったことが原因だ。
1880年に本条例は刑法に組み込まれた、刑法の犯罪枠組みの拡大とともに行政的な色彩を帯びる代わりに刑法全体は従来より刑罰が軽くなった。刑法は被害者のない行政的な事件も対象とし、博打や神仏への不敬を含む被害者のない事件の囚人は全体の25%を占め、庁府県定規則違反を含めると50%に達する。罪目が増加して取締対象が拡大したことは、警察の管理体制の強化につながる。警察と司法による社会管理の強化が進められ、警察署が急増し、一警察署あたりの管轄人口は1882年の24995人から1891年の3135人に急減した。
その結果検挙者が増え、犯罪者数は1880年代中頃以降急増した一方で殺人罪の検挙者数が大幅に減ったことから、日本は急速に安全な社会へと変貌したことがわかる。
1885年の違警罪検挙者上意は健康保護及び伝染病予防規則違反(衛生)、売淫、違法営業(工商)、酩酊等のモラル違反は減り、浮浪者による徘徊、インフラ不整備による道路妨害が急増している。重い罪が減ったことは庶民のモラル改善として刑法改定と警察の社会統制によるものと評価できるが、生活困窮者の検挙を増やし、当該検挙数増加により、違警罪は社会規範として浸透していく。
違警罪目制定と同時に違警罪即決例が定められ、警察は裁判に寄らず自ら刑を科せるようになった。被告人の裁判権を著しく損なわれ、不当逮捕の実体の隠ぺいも容易となった。同時期に犯罪者総数が増加したが、社会が荒れたのではなく即決例の利用が増えたためである。
即決例における裁判に移行するための3日以内の異議申し立ては市民には困難であり、警察の言い分をそのまま認める悪法となる。特に「公然と人を罵倒嘲笑する罪」のように物証がなく非犯罪との境界も曖昧で、庶民の警察への不信感は高まった。1909年は即決例の乱用が問題視され、帝国会議で違警罪は7,8割が不当逮捕であるという意見が出された。別件逮捕への利用も横行していた。
1880年の刑法は刑名を罪の軽重と行為の種類で区分し、裁判所があまり裁量を持たず、警察に検挙された時点で被告人の罪状と刑罰の軽重が決まった。1907年の刑法では違警罪が廃止・刑法に統合され、それまで違警罪で処罰された軽い暴力(暴行)も裁判を受けることになった。刑法で裁かれる対象の変化を意味し、実態の変化がないまま刑法による検挙数と重い犯罪の種類を増加させた。この結果、傷害罪が急増した。統計上件数は変わらずとも凶悪化を示すものとしてメディアに利用されることもある。刑法改正以前は喧嘩は江戸の華として愛嬌をもって迎えられていたが、厳罰化により社会の見方が変わったとも考えられる。即決例自体は残ったため、警察の権限も縮小されなかった。
1906年以降に傷害が増加するのは日露戦争後の社会混乱によるもので、1909年以降の急増は当該刑法改正を原因とする。
刑法改正とともに違警罪はなくなったが、乱用禁止の通達とともに即決例は残った。1910年から1913年までは一応おとなしくして即決事件は減っているがその後倍増し、本来軽犯罪への刑罰の言い渡しを簡略化する目的だった即決例が適用範囲を違警罪から特別法や庁府県令へと拡大し、ますます乱用されるようになった。
1916年から1919年に物価は2.2倍に増加し、この間検挙者が66000人増加した。殺人・傷害は横ばいであるが窃盗や賭博が増加しており、この時期の検挙者増加分の7割以上に達する。第一次大戦は重化学工業化を進展させ、農村から都市部への移住者を大量発生させたが、仕事にあぶれたものが賭博を数少ない娯楽とした。戦後の警察は経済困窮した人々を検挙して隔離する役目を担っていた。当該時期の検挙者の増加は退廃や外来思想の影響ではなく、物価上昇による経済困難とこれを社会的に隠ぺいする警察の管理体制にある。1919年から1921年にかけて検挙者が激減したのは、1922年以降に増加に転じるのは労働争議の増加と沈静化による。
このように統計データを一見すれば、明治後期から大正にかけて犯罪が多発したように見える現象の中身も違って見え、問題は犯罪の原因を個人に求め、それらを管理する体制にあった。
本条例はこれまで外国から見た野蛮行為を禁止するものと考えられてきたが、実態は新法を適用できない新たな諸問題等に対応するための雑多な法律であり、雑多ゆえに一般から犯罪か否かの境界が不明確であるため故意ではない事件で逮捕されることもしばしばあり、庶民は逮捕の危険性と警察への不信を抱いた。
第一次大戦後は物価上昇によって実質賃金が低下したため、窃盗や賭博の検挙者が急増したが、殺人等の銃犯罪やモラルに関する軽犯罪は増えなかったことからも、経済困難や失業によって窃盗や賭博が増えてもこれによって社会全体の凶悪化やモラルの低下が進行するわけではない。
ー感想
これ話が行ったり来たりしてるのを無理やりまとめたので、ちょっと変な感じになっててごめんなさい。
そもそもこれはパッと見の統計結果が実は実態を反映していないという統計の誤謬的な話だけれど、ある程度の刑法の知識がないと意味が半分くらいしか理解できない気はする。
近代刑法の大原則は罪刑法定主義であり、罪は法律で明らかでなくてはならないというものだ。だからそもそも、この罪に当たるかどうかが曖昧という現象自体が刑法系の法典として欠陥がある。ここにも書かれているけれど、警察のさじ加減で捕まるようでは近代法治国家とはいえない。しかしそれは建前で、実際はごく最近まで違警罪がなくなっても別件逮捕が横行していた現実はあるし、今は一定以上の犯罪が全件録画になって取締りの可視化がされているけれど、実際に全ての取締り画像をチェックする人的リソースがあるかというと悩ましいところ。
さて、確かに僕も大正時代は犯罪率が増加しているというイメージはあった。賭博と窃盗の増加が社会モラルの低下につながらないと言い切る論にはいささか同調しきれはしないけれど、江戸川乱歩あたりが作出した猟奇殺人の温床みたいなイメージは実体と乖離するらしい。異常殺人が増加したかどうかについては、この論の冒頭に触れられていたように、江戸時代と西欧化した明治では処罰感情というものはそもそも大きく異なる気がする。この論はあくまでも明治から大正にかけてのスポット的なもので、その前の江戸時代とは文化的に大きな変転があるので、その辺は気になるところ。
まとめ
全体的に、各論的にはとても面白かった。他の部分も読んでみたい。さすが歴博感はある。僕はこの界隈の論文の書き方については寡聞にして存じないところが多いのだけれど、どうも論旨重複が多い気がして、でもまあ論文だからそんなものかと思いつつ、肝心の論点が一部よくわからないところがあるのが残念だった。ところで映画の視覚の話は民俗学とは関係ない気がするんだけど、どうなんだ。
小説に使えるかというと、概念としては使える部分はそれなりにはあるものの、これを小説にわかりやすく使うのはなかなか悩ましい感じ。
4.結び
まとめのまとめなので、ちょっと短くする方法に失敗した。かといって結論だけ紹介しても必要なのはその結果を導いたものが何か、なので、なかなか悩ましいな。まとめの仕方は一考の余地がある、とても。
次回は桑原隲蔵『中国の考道』です。
ではまた明日! 多分!
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