永井均『完成版〈子ども〉のための哲学』を読んで考えたこと
AくんやBくんが私であったらどうだっただろう?と考えることができるなら、犬が私であったらとか、蟻が私であったらと考えることもできるはずだ。じゃあ木や石や風が私であったら、とか、二等辺三角形や夕焼けや胸やけが私であったら、とも考えられるか?考えられないとしたら、その違いは何か。心があるかないかだろう。つまり、私というのは心に宿るものだ。心は体に宿り、私は心に宿る。世の中に無数にある心のうちのひとつが私であった、ということ。(これが、私が「私」の問題を考えるときにまず思い浮かぶことだけど、永井均はこれをどういうわけか「あまり重要な問題だと思えない」と書いている。(p119))
唯物論的な「世界」と独我論的な「世界」があり、私たちが見ている世界というのはこの二つが重なって存在している。唯物論の立場から見れば唯物論的世界の中に独我論的世界があり、独我論の立場から見れば独我論的世界の中に唯物論的世界がある。
私は独我論者だ。独我論の立場から見れば、「なぜ世界は「私」という一人の人間から見たものという形で存在しているか(なぜ他の人間だったり、動物だったり、あるいはそのどれでもない全く違った形式の世界ではなかったのか)」という形の問いがある。それ以前に、「なぜ世界はあるのか(=なぜ私はあるのか)」という問いもある。これらは私にとって自然な問いである。永井均は「私と他人たちのちがいはどこにあるのか」といったようなことを問題にしているようだが、それは独我論者にとっては問題にならない。私は世界の起点であり、唯一の視点であり、他人はそうではない、という明白な違いがあるから、ことさら問題にはならないのだ。そう考えると、永井均が私と他人というものをそもそもかなり似たものだと考えていることがわかる。全く異なった二つのものについて「違いはどこにあるのか」などと考えないからである。(犬とオオカミの違いはなんだろう、という問いはありうるが、胸やけと二等辺三角形の違いはなんだろう、という問いは普通、ありえない。)
43pに「他人と毛虫と冷蔵庫と太陽は、どれもみんな似たり寄ったりだ。ぼくだけはそいつらとぜんぜん似ていない。」とあるが、全くその通りだ。じゃあなぜ「私と冷蔵庫のちがいはどこにあるのか」と問わないで、「私と他人のちがいはどこにあるのか」とだけ問うのだろう?冷蔵庫も他人も本質的な違いはないはずだ。なのに私と他人とのちがいだけが問題になるのは、私と他人が似ているからに他ならない。あらゆる人間は姿形や振る舞いが似ているのに、私だけが私であるという点で決定的に違う。それが不思議に感じられる。思うに、これは私と他人の見かけがたまたま(どちらにも心があるといったような点で)似ているということに端を発する見せかけの問題にすぎない。本当は、見かけの類似性に惑わされないようにするために、むしろ「私と冷蔵庫のちがいはどこにあるのか」の方を問いとして掲げるべきなのだ。そしてその答えは先にも述べた通り、「私だけが世界の起点であり、唯一の視点であるということ。」そしてその先に問われるのが、なぜ私(この人間)が世界の起点なのかという問題、そしてなぜ世界は存在し、なぜ世界はこのような形になっているかという問題。それこそが本当に重要で答えの出ない問いだと私は思う。
