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建築・街・都市 三殿台遺跡とゲルと大岡實

いかがお過ごしでしょうか?

今回は、タイトルからは分かりにくいですが、横浜でのお話が中心です。そして、三殿台さんとのだい遺跡からモンゴルのゲルを経て現代建築の話になります。最初に書いてしまいますが、三殿台遺跡はいろいろな意味で、すごい場所だと思いました!

詳しいことは、この後に書いていきますが、先にインデックス的に説明します。
・「三殿台遺跡」は、富士山と港湾施設が遠望できる横浜市磯子区にある縄文・弥生・古墳時代の遺跡です。これがどうしてなかなか!
・「ゲル」は、モンゴルの遊牧民の移動式住居です。中国語ではパオですが、最近はゲルという言葉が少し定着してきているかな。モンゴル語のгэрゲル(キリル文字)=gerゲル(英文字)→家(日本語)という意味。ある偶然から、この記事に登場。
・「大岡 實おおおか みのる」(1900-1987)氏は日本の建築家・建築史学者です。三殿台、横浜に縁のある、すごい技術家でもあります!
・そして、遺跡の所在地「岡村オカムラ」の話です。

この記事は、自分の専門でもある、建築関係のシリーズの第一弾として、できるだけ噛み砕いて、詳しく書きます!そして色々調べてると、別のところにあった話が、つながって、、どんどん芋づるの沼にハマります。(汗)そしてすみません。約7800字となってしまいました。

今回のつながりも、かなり濃いなぁ。三殿台遺跡関係と建築土木の話を書いていたのに、意図せず、端島はしまの新しい関連情報(これはかなりマニアックかも)にループしました。

この記事をシリーズの第一弾としたのは、ここは、時々訪れる大好きな場所でもあり、太古からの時の流れ、空間を超え、未来に対して示唆しさ的なことを感じられる場所だと思ったからです。訪れれば訪れるほど、そう感じられるのです。なので、シリーズの原点として記そうと。

この記事は、これからのシリーズ中、恐らく最も古い時代の話からとなるでしょう。そして、空間的には、一瞬、モンゴルにも話が飛びます。そして、話を三殿台に戻し、現代建築と余談的に日本初のオートマ車や、建土築木けんどちくぼくや端島、東京駅前広場(皇居こうきょ側)にも。なんせ、芋づる式なので。。それぞれ、別の記事にしてもイイくらいなんですけど、、、づるづるとつなげてみます。

では、時空を超えた好奇心の旅をどうぞ!
ご安全に!

三殿台遺跡は世界の古代文明と同じ頃。その辺りになると、建築史というより、もう人類史、考古学かと。それは、私のかなり専門の外ではありますが、ギリギリ建築土木関連ということでお許しください。それを大岡先生がグッと現代(1964年ですが)に引き寄せてくれます。また、建築土木関連で、こんなに古い時代の住居と現代の建築、そしてモンゴルの遊牧民の家、そして端島等を織り交ぜて書いているのはほとんど無いかも?


さて、はじめます。遺跡の説明から。
下方のそれぞれのリンク先は、それなりのボリュームがあるので後でじっくり見ていただいた方がいいかもしれません。

まずは、「三殿台遺跡」について

神奈川県横浜市磯子区の岡村(この地名は最後の方の芋づる式ポイントです!これで、ピンと来る人もいらっしゃる?)にある、縄文時代から弥生時代を経て古墳時代にかけての大規模な複合遺跡です。何しろロケーションが最高で、標高は55m。眺望が良く、見える景色が面白い!また、三殿台という名前は独特な感じがしたので、調べたら、どうも昔の字名あざめいらしいのですが、そもそもの名前の由来はわかりませんでした。。しかし、何かありそうな響きですね。きっとあるのだと思います。だから地名は面白い。「誰も覚えていなくても」地名だけに残っている、いにしえからの想い。そういうことだと思います。

三殿台遺跡の冬の写真です。
遺跡の復元住居(左)と竪穴住居跡保護棟(右)
そして、中央遠くに「富士山」!
実際は、この写真よりも近く大きく感じます。
画像をクリックして大きくしてみてください!
ここを歩き回ると、
京急上大岡駅の高層ビル群や
みなとみらいの超高層ビル群、
そして南本牧埠頭のクレーン群
も遠望できます。

大変清々すがすがしい場所で、いにしえの人々がここを選んだ理由がわかる気もします。富士山が遠望えんぼうできます。その頃の富士山を調べると、古富士と新富士の二つの峰があったそう。ここから、その恐ろしい噴火が見えたことでしょう!どういう思いで見ていたのか。

ここには貝塚かいづかもあります。調べると、この丘の裾野すそのまで海でした。下の地図で、古大岡湾と指されている先の左斜めちょっと下に三殿台(赤丸部)があります。

図は神奈川県立 生命の星・地球博物館HPより

当時はあちこち随分ずいぶんと海岸線が内陸に入っています。海水面が高かったようです。縄文海進じょうもんかいしん。三殿台は丘の両側が種類の違う海なので、採れる魚貝類の種類も多かったかもしれません。しかし、水は、、どうしていたのでしょう?細かい谷戸やと崖下がけした湧水ゆうすいでもあったのでしょうか。

この丘からは、現代の都会の風景が間近に見え、まさに人類史に想いをせるのにふさわしい場所だと思います。富士山と、港湾施設と、超高層ビルが見える縄文の遺跡は他にあるのかなぁ?空気の澄んだ天気の良い日、穏やかな曇りの日、いずれでも、こう、何か古来からの、また富士山や周辺の地形、街の空気からの静かなエネルギーのようなものを感じずにはいられません。(あくまでも個人の感想です。)荒天こうてん時は行っていませんが、、さえぎるものがない高台なので、風に関してはすごいことになっていそうな場所です。今度、あえてそういう時に行ってみようかな。

縄文と弥生と古墳時代の復元住居はしっかりできています。中に入ることもでき、原始的な住居で風雪ふうせつに耐えた古代の人々の感覚を想うことができます!ここには建築も土木も境目さかいめがありません。竪穴たてあな住居の床は土で、まさに土木です。屋根は柱梁はしらはりの架構で建築です。建築土木が幸せに共存していると思いました。→建土築木けんどちくぼく!?これは後に詳しく書きます。

そこにモンゴルのゲルがやってきた!?!

ゲルが!そこに!馬は?いない。

そこに、モンゴルのゲル(本物)がやってきました!2023年の秋のイベントです。イベントを知らずに、たまたま訪れてびっくり!!!縄文・弥生・古墳時代の竪穴住居と、遊牧民の長い歴史の中で進化したゲル!奇跡の1/1スケールでの対面に胸アツです。直径はなんと、一緒くらいでした!家族が暮らす最小の空間は、いつでもどこでも同じような大きさなのかな。このゲル、常設にしてほしいくらい。しかし、数ヶ月ごとに組み立て直す必要がありそうですが。。。ゲルは、建てたままで何年もの恒久的こうきゅうてきな耐久性があるかは??なので。

遺跡から話題がれています。
しかし、せっかくなので、ざっと、ゲルについて駆け足で書きます。ざっと、のつもりが、少々詳しくなってしまいました。(汗)

ゲルの中です。
ホントに暮らす時は、床には木の板を敷き並べています。
真ん中にはストーブを設置!
その燃料は、乾燥した牛糞(ぎゅうふん)!
草しか食べてないのと完全に乾燥してるので臭くない!
よく燃えて、火持ちが良い。
ゲルの中は、座ると意外と広いんですよ〜。
ここに、最大、家族8人くらい暮らしていたりします。
1ゲル1夫婦家族が基本です。
奥にいる子どもはモンゴルの民族衣装
デールを借りて着てますね。
暖かい日は、ゲルの壁を覆っている布(フェルト等)の
下の方を捲(まく)って(写真のように)風を入れて換気します。
これが、天窓に向けてよく風が抜けるのです。
完璧な換気システムです。
折り畳まれた壁(ハナ)の部材と屋根の梁部材(オニ)。
花と鬼ではなく、それぞれモンゴル語です。
イントネーションは日本語のそれと逆になります。
壁部材の一部ですが、畳むとこんなにコンパクトです。

そして、昨年(2024)末に、「モンゴルの遊牧文化」がユネスコの文化遺産に登録されたようですね。おぉ!なんとタイムリーな話題!リンクを貼っておきます。(芋づるなので。)

で、下の写真はゲルの模型(モンゴルのお土産屋で昔購入)です!縮尺は、1/10くらい。ゲルは中央アジアの長い長い遊牧の歴史の中で熟成し、金物を一切使わず、現地で入手可能な材料で全てできています。つまり修理がどこでもすぐにできる!その随所ずいしょの工夫に感服します。基礎工事もなく、究極きゅうきょくのエコ住宅だと思います。

しかし、ほぼテント。モンゴルは気温+40℃以上-40℃以下と風速30m以上の砂嵐にもなります。過酷かこくです。最小周長となる円形平面で、熱が奪われる住空間の表面積を最小にし、その円形と低く流線形の屋根は強風を効率よく受け流し、また、壁と屋根は「しなる」ので、それで外力がいりょくを逃しているようです。過酷な環境に馴染なじみ、分解組み立てで移動できる、こうならざるを得ない合理的な理由があります。

ちなみに、遊牧って、勝手気ままに移動しているように思ってしまいますが、、家族ごとに、おおよそ夏と冬をメインに、特に冬の場所は岩影や山影の風や雪を防ぎやすい場所に決まっていて、そこに帰ります。そこには、1年後に戻ってくる時のために、羊のふんの土台(床下断熱材)を準備してから移動するということを聞いたことがあります。家畜小屋(覆い屋根?風よけ?)もあったりします。また、遊牧することで家畜のえさである草の回復ができるという、とても合理的なシステムなのです。

しかし、、、近年のカシミアのための山羊やぎは、、、草を根こそぎ食べてしまい、回復しにくいのだとか。そして砂漠化です。お金目当てにカシミア用の山羊を育てるモンゴルの遊牧民。その元凶は。。。。世界中が繋がっている話です。

そういえば、、日本の建築家数名が1990年代の後半、モンゴルの建築家協会からの要請で、現代のゲルを提案されていました。ご存知でしょうか?そのお話もいずれ書けたらと思います。

で、ジャーン!!ゲルの模型です。当時100ドル(1万円)くらいだったかな。今だと物価上昇も含めて3万円くらいの感覚でしょうか。しかし、よくできています。もちろん手作り。今はもう売っていない様子😢

模型はなかなか大きいので、
狭い我が家には
常時この状態では置く場所もなく。
分解して収納しています。
壁の折りたたみ機構は本物さながら。
スムーズに動くよう、飛び飛びの交点で緊結(きんけつ)されていて、
また、それは金物ではなく、
穴に紐(ひも)を通して玉を作っているだけのため
ヌルヌルと動きます。
壁の写っている写真を拡大して見てください!
壁部材のつなぎ目等は本物同様に
差し込みと紐だけで接合します。
ちなみに大きな家具は後からは入れにくいので、
先に中に置いてからゲルを組みます。
箱に入れて収納。コンパクト。

さて、縄文からの生活のあとと現代。太古から変わることのない太陽。

ここは太陽が少しだけ近く、遮るものがない分、
そのパワーを強く感じられるような気がします!
横浜の中心部から数キロとは思えない光景!
遠くに見えるのは上大岡駅の高層ビル群。
縄文とモンゴルのゲルと現代建築!
なかなかシュールな、貴重な景色です。
右に見える庇、地味にいいのですよ。この後、説明します。

このシーン!わかる人にはわかる!?ほんとにすごい光景だと思います!!数千年の歴史が一堂に介している!話がそれつつも、、、ゲル、大地と架構かこうが共存しています!

閑話休題かんわきゅうだい

横浜市営地下鉄の弘明寺ぐみょうじ駅に、「昭和」感のある案内地図が出ています。

駅の案内地図。国指定史跡!
当時、ここで、この地図で案内されても
徒歩15分越えの狭い階段含む丘登り、
高低差50m程度(15階建て以上)で、
住宅地を抜ける道は覚えきれないかと!
昭和は、そうか。迷ったら人に聞くのか。。
そういう時代。
最近は道を聞かれることもほとんどないなぁ。

さて、遺跡について、詳しくは下記リンクから。

ここにある施設群!!これがまた、大変重要!

実は、今回のメインです。ようやく辿たどり着きました。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。引き続き、どうぞ。

まずは、いくつかの写真を載せます。曇りでよかったぁ!晴れている日は、青空がキレイに映えてイイのですけど、日差しが強いと陰影が濃くなり、、影の部分が見えにくくなってしまいます。なので、私は、曇りの建築写真が好きです!穏やかに見えますし。(晴天の気持ちよさにダマされないような気もします。)

アプローチから。
奥の赤い屋根が竪穴住居跡保護棟
左が考古館
手前階段部の屋根は、休憩所。

一見するとなんの変哲もない?!?!昭和感満載?の建物。
しかし、これがとても心地いいのです。

屋根だけの休憩所から竪穴住居跡保護棟を見る。

風景全体を見返す視点場してんば(今回は休憩所)を設けるのは、設計手法の一つだったりします。そして、この2棟が平行配置でないことも「いいなぁ」と思いました。平行ですと、そこの間に軸線が発生してしまい、なんだか、硬い空間になります。ちなみに設計する際の作図作業は、平行配置の方がはるかに楽です。当時は、それこそT定規ティーじょうぎ、平行定規というものを使って作図しますから。CADキャドも無いのでなおさらです。なので、一手間かけた意図的な配置と理解しました。ここが平行でないから、保護棟と休憩所のラインがずれて、少し空間が微妙にゆるむように感じます。

上の写真で、休憩所の軒先のきさきがギザギザにボヤッと光って見えるのは、折板せっぱん屋根と鼻隠はなかくしにほんの少し隙間があるからです。写真では不思議な効果が感じられますが、これは設計者はねらっていないでしょう。大雨で強風の際は、水上みずかみ側のそこから雨が垂れるかもしれませんが、おおらかなディテールで、なかなかいいと思います。屋外の吹きさらしの休憩所なので。

休憩所の柱の先端の方を細くしているのは、形態操作で、構造的な合理性があると思います。また、柱の角の面取りも細やかで気が利いています。全て面を取るのではなく、柱脚部や柱頭部にピン角を少し残しているところ!細かいですね〜!ピン角はシャキッとします。安藤忠雄さんのコンクリート打ち放しは全てピン角です。ピン角。やったことありますが、施工とその監理は大変です。コンクリート打設だせつのチームの全員が、全力で、気合いですね。もちろん緻密ちみつな準備も必要です。鉄筋・型枠の施工計画書、コンクリートの配合計画書や打設計画書は綿密めんみつにチェックもします。当日も打設に立ち合い、状況を確認し、質問します。全員、緊張しつつ、最高の仕事となるように。あぁ、それもいつか書こうかな。また、話がれました。。

そして、鉄骨の梁がその上にスッキリ載っているのは、これもなかなか気の利いた設計です。理由、わかります?休憩所に関しては、このあとの方でさらに説明します。スッキリの理由をここで気がつかれた方はすごいです。あとで答え合わせしてください。

奥に見える竪穴住居跡保護棟の換気用のむね部分(赤い屋根部)の妻面つまめんの軒先が斜めになっているのも、わずかながら形態操作です。そこには、復元住居の換気棟部と似た意匠いしょうになっています。さりげない心配り!

竪穴住居跡保護棟。タイトルの写真はこれです。

そして、さらに、換気ガラリへの吹き込み防止として、庇の上の方の出を深くする役割りも持っています。さりげない形に、ちゃんと合理的な理由があるのがすごい!そして、緩勾配かんこうばい屋根とその先端の下面の処理(水平部)も、なかなかいいです!見れば見るほど、何の変哲へんてつもなさそうなデザインの中にある細やかな配慮がみます。柱頭ちゅうとうをつなぐ梁は壁状に薄くなっています。特に妻面。桁行けたゆきに対して梁間はりまの方のスパンが飛んでいますが、妻面の柱頭をつなぐ梁は、屋根勾配により、梁成はりせいかせげるのと、全体の柱割はしらわりとして、妻面中央の柱は神宮などに見られる棟持むなもち的になっています。

それによって、この建物の形態が地味にこの遺跡と親和性が高く、出しゃばっていないように思え、ニクイです!この古代の住居形態が、のちの日本の神殿、伊勢神宮に繋がっていきますから!!!地面の擬木ぎぼく杭による線は、発掘された住居跡の大きさを示しています。

妻面のアップです。

無駄のないりんとしたたたずまいを感じます。窓の天端てんばラインが梁の下端したばとして水平に一周通っています。妻面に梁がある場合、梁は通常は同じ断面で通すので、その下端は屋根勾配なりとなる場合が多いのですが、この建物の場合は、妻面の梁の下端が水平でかつ窓枠まどわく天端と揃っているので、それが梁だとは気が付きにくく、良いデザインだと思います。窓枠は、、今となっては貴重なスチール枠!細い!1964年10月竣工しゅんこうなので、61年前!前の東京オリンピックが開催された昭和39年!大切にメンテされていますね。全てほぼオリジナルの状態だと思います。

屋根の下!なんと、土!

この建築は、この住居跡の保存のための屋根なのです!RCアールシー壁部の柱型梁型はしらがたはりがたが内側に出っ張っていないのは、遺跡を見せるのに架構かこうが邪魔にならないようにするための配慮だと思います。また、遺跡への建築工事の影響を考えると建物の基礎構造は外周部のみのはずです。しかも、基礎は外側に張り出していると思われます。次の写真の犬走いぬばしり部分は、その基礎の上かもしれません。見学者が窓から覗くこの部分、歩く頻度も高く、雨宿りの空間にもなる。空間の使われ方、意匠いしょう・構造に無駄がありません。まさに土と架構の合体です。

そして屋根の鉄骨にも無駄が全くなく、軽く架けているように見えるのがすごい!部材の節約を考えたトラス構造なのでしょうけど、それによって材料の部材が細くなり軽く見えています。今だったらこのくらいのスパンであれば、制作手間のかかるトラスをコストの観点から選択しづらいでしょう。この浅い勾配も、当時の構造的な経済性(材料を少なく)を考えて、かつ軽く見せる工夫だと思いました。屋根の勾配がきついと体育館のようになってしまいますし、フラットな屋根形状は構造や水勾配みずこうばいに無理が生じます。そして、屋根面のブレース(面を固めるための斜材しゃざい)が、大きく入っていて、うるさくないのも細やかな気配り。考え抜かれているように思います。ブルーのメッシュは、、経年の傷みによる材料の剥落はくらくを防ぐためか?

おもむきは全く違いますが、土の床は内藤廣ないとうひろし氏の「海の博物館」の考え抜かれた収蔵庫しゅうぞうこを思い出します。それは木造船を保存するための土間どま。ここは、遺跡そのものの土の保存。温湿度について、保護棟も空調くうちょう設備は無いのでおそらく自然状態だと思います。

屋根庇の懐

屋根庇先端やねひさしせんたんの下面は水平にして、ふところへ誘い込むような、軒下がそのまま外へ広がっていくような。日差しが奥まで入って遺跡の土に悪さをしないように。。軒の先端の立ち上がりはわずかに斜めになって全体の形態のバランスを取って調停ちょうていしているようにも見えます。そして、コチラも柱は先細り。休憩所と同様です。さらに柱にといを埋め込んでいる細やかさ。柱の足元の、縦樋たてどいに直結する側溝そっこうもさりげなく、丁寧ていねいに考えられています。無駄がなく美しく見える納まりです。納まりの多少の荒さはその時代の中での許容範囲きょようはんいとしてください。

一見、無骨(ぶこつ)なようで、さまざまな配慮がなされた建築。

ローコストながら、構築する意思、architectureを感じます。とてもいさぎよいデザインだと思います。あくまでも個人の意見です( ^ω^ )右に見えるのは考古こうこ館です。これもイイのです!

考古館も地味で渋いです。

離れて。見ると、水平基調すいへいきちょうのシンプルな屋根と、鉛直えんちょくの柱。寄っていくと。。。

寄って見上げるとイメージが少し変わります。

庇の出、それを支える片持ち梁の先端を薄くしたり。屋根の樋も躯体くたい形状で処理?縦樋は当時の品質課題のためか、内樋うちどいとせず、外に出すもできるだけ目立たないよう頑張っている。それらを意匠いしょうかしていますね。保護棟に比べると良い意味で少しだけ饒舌じょうぜつに思いました。しかし、これも構築する意思です。

さりげないデザインが効いている綺麗な軒裏です。

寺院建築の庇を見ているかのよう。っています。さすが、日本建築史の大先生。鉄筋コンクリート造で、構造的にはここまで微細な形状にする必要はありません。この程度出幅の庇なら、片持ち梁は無くても、スラブだけでも大丈夫。型枠かたわくのコストが増えても、コンクリート量を減らすことと、その形状がねらいか?先生の設計思想によると、このような形状にも構造的な意味はしっかりと担保たんぽしているようです。飾り的な形状ではない、と。先生の設計した伝統的な形の仏教寺院も、飾りとしての凹凸おうとつではなく、構造的な意味がしっかりあるように設計しているとのこと。このような凹凸を飾りのように設計する方法や技術はありますが、木造ではないにしても、その本物感にこだわられていたことがわかります。

裏側は!

裏まできっちりしています。庇はシンプルになっていますが、角のめの45度のラインは、庇(片持ちスラブ)の厚さが先端に行くに従って薄くなっているためでしょう。均一の厚さなら、留めのラインは出ません。壁部の長押なげし形状が効いています。扉の真鍮しんちゅうのノブは当初のままかと。大切に使われていて、それもスゴイです。

そして、最初に戻って休憩所。

ぐるっと戻って外側から見た休憩所。

戻ってきて見た休憩所も地味にすごいことを再確認!折板屋根は、寿命的に更新されている可能性が大ですが、骨組みは超シンプル。ん!!!柱とその桁行けたゆき(=長手)方向に乗る梁のみ!!梁間はりま(=短辺)方向には梁は無い!!!つまり、この柱は地面から自立しています!なので、構造的な合理性からの先細りの片持かたもち柱!

もう一度休憩所の屋根下から。
屋根裏が見えるように、少し露出を上げてます。

おぉぉ!!折板屋根の下面がキレイ!スッキリしているのがわかりますか?∵梁間方向の梁が無いので。わかっていた方は答えは合っていたでしょうか。そんなところを見ている人はいないか( ;∀;)テラゾーの水飲みと左のコンクリートベンチも1964年かと。当時を感じられる簡素でいいデザインだと思います。

追記2025/06/28;この記事を書いた後、仕事で折版せっぱん屋根メーカーの三晃さんこう金属さんのカタログを見ていたら、なんと1963年に日本初の折版屋根が開発されたとの記載があり、なんとなんと、それは、この建物の竣工年の前年ではないですか!今では折版屋根は当たり前の技術ですが、当時の先端技術をこのような形で、さりげなく滑り込ませる設計者。改めて感嘆かんたんします。ちなみに、直近の東京オリンピックの国立競技場の屋根も三晃金属です。あぁ、芋づるで、この競技場の最初のコンペの雑感をいつか書けたらと思う次第。

一気に写真を載せましたが、改めてじっくり観察して、その静かなすごさに圧倒されました。そして、これを設計したのは、、、。答えは既に書いていますが。。。この下にあらためて書きます。その意外な経歴にさらに驚きました。自分は、、これまで、お名前は知っていたのに、、、詳しくは知らなくて、本当に勉強不足を恥じるとともに、今、知ることができてよかったです。偶然の巡り合わせで、こうして記事を書ける環境にも感謝。感謝。

その人は「大岡 實おおおか みのる(1900-1987)」氏

ご存知でしょうか?日本の建築家・建築史学者です。設計したのはこの方です。Wikipediaのリンクは下記です。これは記載がすごく少ないですが、、より詳しい記載はその下のリンクでどうぞ。どちらもリンク画像がないのが寂しいですが、「大岡實建築研究所 ホームページ」はリンク先が、写真と文章で、もう大変な情報量になっています。そちらに飛ぶとなかなか戻って来られなくなるので、先に簡単に説明します。

三殿台遺跡(S38)の施設についてのページは下記のリンクで詳しい説明をみられます。

大岡實建築研究所のホームページでその他の作品群を見て驚愕しました!
錚々そうそうたる寺院が!下手な建築作品よりも誰もが知っている建築です。もう、超有名な
浅草せんそう寺(S26)!(戦災復興。氏の最初のRC寺院。)
川崎大師だいし(S27)!
薬師やくし寺金堂復元(S45)!
増上ぞうじょう寺(S46)!
などなどなど、、、。極め付けは、
中尊ちゅうそん寺金色堂の
鞘堂さやどう(S40)!!!
これは三殿台の施設の翌年です!上記リンクの三殿台の項の下に、金色堂の新覆屋おおいや(=鞘堂)が紹介されています!薬師寺金堂復元は、もちろん奈良のあの薬師寺です!

薬師寺の金堂は厳命げんめいによる木造での復元としつつも、本尊ほんぞん周りは、あくまでも鉄筋コンクリート(=RC)で「火災から守る」という方法を採用しています。

ホームページを見て、大岡先生は大変真摯しんしに、寺院建築を現代の材料で作る事、防火という性能を最重要視すること。また、正しく新しい伝統様式等を考えておられたこと、プロポーションの調整等がよくわかりました。増上寺の設計については、隣に見える、東京タワーとプリンスホテルの関係も考えての建物全体のボリューム感まで検討されていた様。

金色堂の新覆屋は、鉄筋コンクリート造で、在来工法の木部に相当する部分をあえて鉄筋コンクリートのままの色として、写真でも透明感がハンパありません。実物をまだ見ていません。見に行きます。あくまでも金色堂が主役で、それを覆う。全ての自然現象から金色堂を守る。しかし、木造ではないことの賛否はやはりあったようです。その状況で、コンクリートを隠さない!!しかし、性能をしっかり確保し、鉄筋コンクリートでなければできなかった表現にまで高まっていると感じました。

これらの有名な寺院建築は、専門誌等ではないところ、一般メディアへの露出は大変多いと思います!観光案内とか、年末年始のTVとか!なので、何らかで見たことある人がほとんどなのでは!行ったことのある人も多いと思います。これは、建築家の名は一般的には知られていないけども、歴史に寄り添った建築という印象です。寄り添う建築。そこに関わった建築家がどんな哲学・知識・経験を持っていたか。そこで考えていく中で発現するより良い空間・性能。それに尽きるのではないでしょうか。結果としてそれが美しいのかもしれません。

そして、その金色堂の鞘堂について、大岡實先生のホームページ載っていた曽野綾子氏の新聞コラムが全てを表していると思います。「愛の真髄」と。建築家名は無くとも、見る人が見ればわかる。これぞ建築家冥利みょうりに尽きる、と思います。しかし、、名が売れなければ仕事は来ませんから大変なことです。その新聞記事への直接リンクですが、開けますか?しかし、大岡先生は、その路線でものすごい仕事量を仲間と一緒にこなしておられます。

http://www.ohoka-inst.com/sone_kiji.html

さて、大岡先生の年表でいちばんドラマティックな部分は下記になるでしょうか。

昭和21年07月~昭和24年03月 法隆寺国宝保存工事事務所長
昭和22年05月 国立博物館保存修理課長昭和24年03月文化財保存研究委員
昭和24年07月~昭和27年05月 法隆寺金堂火災事件のため休職
昭和27年06月文部教官、横浜国立大学工学部教授

大岡實建築研究所ホームページから

法隆寺金堂火災(保存工事中)の際の現場の責任者として、責任を取らされ?干され?50歳頃という貴重な時に休職(ほぼ3年!!!)を余儀なくされたようで、しかし、歴史的な社寺建築物への愛情は深く。その後、横浜国立大工学部建築学科(当時)の建築史教室の初代教授として活躍されます。

追記2025/06/28;この記事を書いた後に知ったのですが、文化財防火デーは毎年1/26だそうです。ひょんなことで、それがその日となった理由を知ってびっくりしました。1949(S24)/1/26に法隆寺金堂の火災が起き、それが契機となったようです。先生としてはどのようなお気持ちだったでしょうか。

そして、その火災の件からか、以下のような言葉を残されています。

「人々の浄財によって造られる宗教建築が一度の火災によって烏有うゆうし、又々巨大な財力を集めなければならないという様な事は技術家としてなすべきではない」

大岡實建築研究所ホームページから

技術家として」という部分に先生の矜持きょうじを感じます。建築家ではなく、技術家。まさにエンジニア。いい言葉だと思います。どうも、私は建築家という言葉にアレルギーがあるようで、、、。定義が明確ではないまま、独りよがりな表面的な流行を追いかける建築デザイナーという悪いイメージもあり、そうでない方もいらっしゃいますが、悪貨によって良貨が駆逐くちくされているようにも思えます。私も、建築家とは何かを考え、そもそもはエンジニアであることを念頭に、微力ながら、生まれてから死ぬまでの全ての活動を空間として支えることについて考えていきたいと思う今日この頃です。複数の某大先生の著作等からの影響大。

大岡先生の企画展示@川崎民家園のパンフのページがありました。ダイジェスト的に大岡先生を知るにはとてもイイと思います。リンクを貼ります。ん?うまく表示されない。まぁ、飛んで見てください!これは一瞬で見られます。

https://www.nihonminkaen.jp/wp/wp-content/uploads/2021/09/日本民家園だよりvol.79.pdf

そして、大岡先生が、この三殿台の縄文時代から現代に引き戻し、建築(土木)=構築する意思の未来を指し示してくれているような、そんな気がしました。土木と建築と人間の生活と未来を逆照射しているかのような三殿台遺跡。是非に一度、行かれ、全ての感覚を研ぎ澄まして、壮大な時間と空間を感じられることをおすすめします。日によって、天候によって、感じることは大きく変わるので、度々の訪問がおすすめです。夏にはここでキャンプできるイベント(確か、抽選?)もあるようですが、毎年やっているかはわかりません。それも、今度、行ってみようかと。夜や早朝は通常(営業時間は9時から夕方)は体験できませんから。

さて、、、私の記事の定番の余談。蛇足?を四つ。

ゆず

岡村といえば、、「ゆず」ですね。ね?遺跡の隣の岡村小学校の出身だそうで、そのアルバムの冊子に、ここで撮った写真が使われたそうです。

これです。保護棟の色は今と違いますね。
今の色の方がいいなぁ。
オリジナルはどんな色だったのでしょう。

オカムラ

もう一つ、岡村といえば、岡村製作所!→2018年に社名変更した、あの家具の「オカムラ」は、ここ岡村が発祥の地です。ご存じでした?

そして、家具だけではなく、その昔は飛行機や車の開発も!日本初のオートマ車はオカムラから。その証拠写真は、これです。

輝かしいですね。画像は「オカムラ」HPから借用。
左の方に「箱根湯本から頂上までギヤーの入替なし29分」と、
謎のキャッチフレーズが。ギヤの入替、そんなに大変???
まぁ、気持ちは分からないでもないですが。。
要は「アクセル踏むだけ」を言いたいわけですね。
画像は「オカムラ」HPから借用。
ミカサのネーミングは、、、
三笠(御笠)??これも戦艦つながり?

そしてここに、ある写真の載っている記事をリンクします。
リンク先を読んでいただくとわかりますが、記事内の写真にミカサの開発者と奥様と御子息が写っています。開発者は、ある建築家のお父様です。リンクの画像でめっちゃネタバレしています。恐るべしオカムラ。岡村。

建築家、内藤先生は、今、2025/7/1〜9/30、紀尾井清堂(先生の設計)で先生の手帳の展覧会をやっています!!!ご自身が設計した、超絶美しい建築で、自身の手帳で展覧会を開ける人って!!!もうすぐ渋谷の展覧会も始まります。そして8/18は有料ですが席が確保できる講演会です!行きます!!行きましょう。下記、その展覧会、講演会のリンクを貼ります。

本当に、私が一番尊敬する建築家です。ますますのご健康とご活躍を祈っております。先生は著作も多く、また立ち上がった建築物からは勇気と元気をいただいています。そのうち内藤先生についても書きたいと思います。既に私の記事のあちこちにチラホラと書いていますが。

三殿台から、まさに今の内藤先生まで話が広がってしまいました。直上の太字部、記事改訂2025/7/9

そしてオマケ。手作り?ネーミングがイイ!探さないでください。@岡村

お散歩がてら見つけました。
何だかニヤッとしてしまいます。
いいネーミングです!
「浦安鉄筋家族」という漫画があったような。
読んでいませんが。。
このマンションは鉄筋コンクリート造なんですけどね。
「鉄筋」(テッキン)という音がいいですね。
そこに「三殿台」がつくと、、最強かも!
建物の意匠的に1970年代築に見えました。
綺麗にメンテされています。

そして、もう一つ、地理院地図(航空写真)の考察!

1945-1950の航空写真です。丘の上の三殿台はまだ発掘前の畑で、右下の谷戸に岡村製作所が写っています!大岡先生のいらっしゃった横浜国大工学部は当時は三殿台からはとても近いことがわかります!そして、おお!国宝→重文の十一面観音のある弘明寺から門前町である商店街、国大、三殿台が一直線に並ぶのは偶然にしても面白い!

地理院地図1945-1950から

当時の岡村製作所の場所探しは。ホームページに載っていたこの写真から、、

「オカムラ」HPから借用

先の航空写真から、、、発見!!!

オカムラHPの写真は左斜め上の丘から撮影しているようです。

次に1961-1969の航空写真ですが、三殿台は発掘前夜です!岡村製作所は移転したのか、岡村中学校になっています!丘の上は高度経済成長期の象徴。絶賛大造成中(土木工事)です。

地理院地図1961-1969

次は1974-1978の航空写真です。三殿台は発掘されて、各施設や建て替え後の岡村小学校が建っていますね。丘の上の開発、土木の大造成も完了し、住宅が建ち並んでいます。三殿台遺跡がちゃんと、ちゃんと残されて良かった。

地理院地図1974-1978
「鉄筋マンション」も写っています!
やはり、この頃にできたんですね。

三殿台にまつわる、
時空を超えた多角的な考察になったでしょうか?( ͡° ͜ʖ ͡°)

この先の記事はかなり本題からは離れますが、デザートがわりにどうぞ。

そして、「海眠」の記事で触れた下記の本をこの記事を書きながら読みました!大変素晴らしい本でした!そしたらば、この記事に通ずる事や、「海眠」の記事に戻って通ずる事が、書いてあって、びっくり‼️

シリーズの初回なので、字数は過去最長。。勢い余って紹介します。もちろん、私は建築意匠設計の専門ながら土木構築物も大好きなので。

建土築木

建築家なのに、東大の土木の教授をやっておられた内藤さんの本です。土木と建築をくっつけるとてもいい本だと思います。127頁なので、すぐに読めます。「建土築木」は内藤さんの造語で、コチラには黒部川第二発電所が載ってました!戦艦陸奥の話も!!わぉ。書きましたね。記事『「海に眠るダイヤモンド」を何度も見返している その8(余韻)』で!しかし、内藤さんの文章の方が遥かに素晴らしいです。ぜひ、読んでください。

ここに載っている場所は全て訪れたいと思います。いくつかは偶然に行きました。特に、この本に載っていた熊本の建築「草地畜産研究所」は、かなり好き。設計者のトムさん流に言うとLoveですね。牛と馬のための空間。1994年の日本建築学会賞受賞。約30年前に、フェリーを使っての九州北半分ツーリング(知人(妹島事務所勤務)から譲り受けたVespa GS200角目!前後キャリアに荷物満載。若かったなぁ。)で見に行きました!気軽に入れる施設ではないので、道路からの見学でしたが、やはりその景色に合っていて、素敵な建物群でした。まさに、この本に書いてあるようなイメージです。見た後に、いい気持ちになって、牧草地帯の脇道に入ったのが命取り!当時は、地図だけが頼りだったのですが、牧草地帯!網の目のように張り巡らされた道。丘の中でそこそこアップダウンもあり視界はなかなか開けない。さしたる目標物もなく、雨も降ってきて、日も暮れて。。。完全に迷いました。あの時は焦った。。宿(ユースホステル)には掟破おきてやぶりの夜中到着。。。あ、また、話が脱線。

この本は、構築する意思を考えるには最高の本だと思います。内藤さんの言葉遊び(??)は毎度面白い。建築と土木をくっつけた、「建土築木」。映画の「シェルタリングスカイ」からの「シェルタリングアース」(雑誌の特集)とか。「維新精神か?鰹節か?」(高知駅)とか、「素形」とか「素景」とか。(三殿台は素形も素景もあると思いますし、付け加えると素系も祖系も。。。。その心は、「構築する意思」かと。それは生きる意思かとも思います。もう、「建築」=architectureの定義はやはり「構築する意思」でいいではないのでしょうか!誰か定義して!その昔は「造家」と訳されたことも。あの、ジョサイア・コンドル先生は、明治の東大の造家学科の先生ですね。architecture=造家???????=そして、、建築。。。)

さて、続きはコチラで、様々な川の話です。載っていた三島の源兵衛げんべい川!これはもう日本一の清流だと思います。何度も行きました。とても心地いい空間です♪そしてこの本に書かれている空間は全て行きたい!

源兵衛川。
三島の街なかにあって、
富士山の伏流水からの清流の上を歩けるのです♪
癒されます。
しかし、ここがドブ川になっていた高度経済成長期。
それは人間の業の深さかと。
そして、その復活!

芋づる式の醍醐味だいごみ

そしてなんと!この本のコラム的なところで、内藤さんは、学生時代、横浜元町の裏の川に浮かぶダルマ船の設計事務所にアルバイトに行き、なんと!なんと、軍艦島特集をする雑誌のための、端島はしまの図面(ブロックプラン)を描いたとか!とか!わぁあ〜!!!\\\\٩( 'ω' )و ////こうやって書いて、読んで、端島に戻ってきました。犬も歩けば、、なのか、いろんな棒に当たって、どっちに転がるかわからん状態です。しかし、これこそ、芋づる式の醍醐味!

コレら二つの本、それぞれの話が深いと思いました。

そして、、東京駅前広場の話!端島の30号棟と同時代の東京駅。そしてその駅前広場の再構築!これも、建土築木ですね。東京駅前がこんなに凄い歩行者空間になったのは、未来永劫、世界に誇れると思います。内情は色々と大変なご苦労があるようでしたが、よくぞここまで!できたものには私は納得しています。感銘を受けました。端島が朽ち果てていくのは、仕方ないですが、同時代の東京駅前、皇居側はその鏡として。そう見るとものすごい時代の流れのダイナミックさを感じます。

三殿台から大岡實先生、余談を挟んで建土築木と東京駅前広場、、話は脱線しつつ最後にたどり着きました。かなり話が拡散してしまったので、まとめるのも難しいですが、、、、キーワードとして、「三殿台遺跡」と「大岡實」先生、「ゲル」「オカムラ」「建土築木」「東京駅」「端島」「内藤先生」がみんな繋がっているということです。これぞ「芋づる式」!ここまで安全にたどり着いていただけたでしょうか?あぁ芋づる。いつ終わるのか?しばらく終わらないと思います。私がボケて世間に興味がなくなるまでは。

また、次の記事でお会いできれば。

それまで「ご安全に!」

ありがとうございます

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