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「まぐだら屋」の暖簾の奥にいた人たち —— 針須、石工、流河、蓼尾という名の“福音”

『まぐだら屋のマリア』を読み返していると、私は時々、原田マハさんが実際には書かなかった「もう一つの人物録」を夢想してしまう。

もしあの北の果ての町「尽果(つきはて)」に、さらに数人の常連客がいたなら——。

彼らはきっと、大きな奇跡を起こす人ではない。

けれど、誰かが壊れてしまわないように、見えない場所でそっと支えている人たちだ。

そして不思議なことに、その名前には、どこか新約聖書の残響がある。

針須さん —— 傷を縫う人

針須(はりす)さんは、吹雪の日ほど早く店へ来る。

誰も頼んでいないのに、入口の雪を黙々と掻く。

常連たちは、
「あの人、昔は神父だった」
などと勝手な噂をしているが、本人は否定もしない。

酔客が人生の失敗を吐き出し始めると、針須さんは、鍋の湯気の向こうから静かに言う。

「人間ってのは、
壊れたから終わるんじゃない。

壊れたところから、
人の痛みが入ってくるんですよ」

「針」という字が入るせいだろうか。

この人は、誰かを“治す”のではなく、
破れた心を、黙って縫い合わせる側に見える。

まるで、正教会の「ハリストス(キリスト)」が、
北国の居酒屋で古びた防寒着を着ているみたいに。

石工さん —— 崩れた場所を直す人

港の石蔵を修繕している男を、町の人は「石工さん」と呼ぶ。

本名は知られていない。

ペテロ——「岩」を意味するその名のように、
彼は、決して器用な人間ではない。

怒鳴る。
逃げる。
酒で失敗する。

だが、吹雪のあと、
誰より先に崩れた階段を直しているのも彼だ。

若い漁師が、
「なんで、そんな誰も見てない仕事するんです」
と尋ねた時、石工さんは肩をすくめた。

「見てなくても、
落ちたら困る奴がいるだろ」

その言葉には、
説教ではなく、
長く後悔してきた人間だけが持つ重みがある。

“礎”とは、
立派な人間のことではなく、
崩れたあとも、なお支えようとする人のことなのかもしれない。

流河さん —— 壊れる気配に気づく人

流河(るか)さんは、いつも文庫本を持っている。

元看護師だとか、
昔、東京の病院にいたとか、
噂だけは多い。

けれど本人は、自分のことをほとんど話さない。

酔って眠った客に毛布を掛ける。
泣きそうな顔の人に黙って熱い茶を置く。

それだけだ。

ある夜、若い男が尋ねた。

「なんでそんなに、人のこと分かるんです」

流河さんは、しばらく黙ってから笑った。

「分かるんじゃない。

昔、自分が壊れた時、
誰にも気づいてもらえなかっただけ」

聖書のルカは医師だったと言われる。

けれど本当に人を癒やす人とは、
“治す人”ではなく、
壊れる寸前の沈黙に気づける人なのかもしれない。

蓼尾さん —— 苦味を知っている人

蓼尾(タデオ)さんは、店のいちばん隅に座る。

話をまとめるわけでもない。
誰かを導くわけでもない。

ただ、
会話が途切れた頃に、
ぽつりと妙なことを言う。

「苦かった記憶ほど、
あとで身体の一部になるんだよ」

皆、よく分からないまま頷く。

「タデオ」という音は、
聖書の“もう一人のユダ”、
ユダ・タダイ (タデオとも) を思わせる。

裏切り者ではない側のユダ。
目立たず、
忘れられがちな弟子。

だからだろうか。

蓼尾さんには、
「赦された人」ではなく、
“赦される途中にいる人”
の気配がある。

ある夜、
若い客が怒鳴った。

「赦される奴と、
赦されない奴の違いって何なんですか」

蓼尾さんは熱燗を飲み、
少し笑った。

「違わないよ。

違わないから、
みんな苦しいんだ」

その瞬間だけ、
店の湯気が、
祈りみたいに見えた。

「福音」は、説教ではなく湯気の中にある

『まぐだら屋のマリア』が特別なのは、
キリスト教文学でありながら、
“神学”ではなく“体温”で救済を描いている点だと思う。

赦しとは、
立派な言葉ではない。

熱い汁を黙って差し出すこと。
吹雪の前に「今日は早く寝なさい」と言うこと。
崩れた階段を、人知れず直しておくこと。

そんな、
おでんの湯気みたいな福音。

もし尽果という町が本当にあるなら、
針須さんも、
石工さんも、
流河さんも、
蓼尾さんも、
きっと今夜、
まぐだら屋の隅で静かに飲んでいる気がする。

そして誰かが、
「もう駄目だ」と呟いた時だけ、
ぽつりと、
人を生き延びさせる言葉を置いていくのだろう。

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