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僕の”南方熊楠”推し

学生の頃は、まだ近所に独立系の品数豊富な書店がいくつかあった。僕が気に入っていた書店は、家から自転車で15分ほどの4階建てのビルの書店だった。1階は雑誌と趣味の本、2階は文庫・新書と小説や科学系の専門書、3階は学習参考書・問題集を置いていた。4階は書店の事務所で、たぶん店員さんを含めて10名前後の社員さんがおられたのだと思う。
まだ若者がわんさかといた昭和60年前後のことだ。
書店も今のように潰れる様子はなく、元気に経営していた時代である。

浪人の時代も、その書店は僕の御用達だった。主に3階の受験用の参考書や問題集を物色していたのだが、たまに気晴らしで2階の文庫や新書を手に取って眺めることもあった。
ある日、その2階の文庫の棚で何気に手に取ったのが、講談社学術文庫から発刊されていた鶴見和子の『南方熊楠』であった。
「なんぽう・くまくすのき?」と妙な題名が気になった。文庫は普段そんなに買うことはなかったが、珍しく興味をもって衝動買いしてしまった。
もちろん、最初の読み方は間違っている。南方熊楠、みなかたくまぐす。和歌山が生んだ天才的な奇人、博覧強記の人である。
普段、遠藤周作とか北杜夫などの軽いエッセイしか読んだことのない僕が、しっかりとした人物評伝を読んだのは、この『南方熊楠』が初めてであった。平凡な頭脳の人間にとって、天才的な記憶力、語学力、仏教や哲学など幅広い人文科学に関する深い造形、柳田国男からも一目置かれる民俗学の知識、昭和天皇も魅了した粘菌に関する知識、海外の学者達と堂々と論争し論破する迫力、そして一生職につかず酒造会社を営む弟に依存したニートで破天荒な人生。
これは、なんとも憧れであった。鶴見さんのその本は、繰り返し読んだ。

僕はもちろん、南方熊楠のように頭も良くないし、破天荒になれる度胸もない。それから数年経ち、大学に入り、大学生活を4年間過ごし、大学を卒業して、大阪に本社がある、社員数100名足らずの小さなコンピューター・ソフトウェア会社に就職した。
そこでしがないプログラマーになった。が、まったくプログラミングの才能もなく、努力も根気もないダメな会社員だった。入社から1年も経つと、すっかり会社のお荷物となっていた。
「まったく、おまえは新人類だよな」と先輩社員はよくぼやいた。
バブル期末期の僕たち新入社員は、年配者には理解できない「新人類」と名付けられていた。
とにかく仕事は面白くなく、先輩や上司との関係もぎくしゃくしており、仕事はヘマばかりして、周囲をあきれさせていた。だが、雑用ながらも仕事量は多く、月の残業時間は、多い時で100時間前後あった。
おかげ様で、心身ともに疲弊しきっていた。

そんな時、僕は浪人の頃に出会った南方熊楠のことを思い出した。彼が生きていた和歌山県には、南方熊楠記念館という博物館のようなものがあるという。なんだか無性に行ってみたくなったのである。
つまりは,現実逃避であった。
今のように、ネットやスマホがあるわけではない時代のことである。僕は久々に、浪人の頃に通っていたあの本屋に行き、和歌山県の旅行ガイドブックを手に入れた。
そして、会社に入社して1年半たった夏、僕は早速有給を取って、京都から和歌山・南方熊楠記念館への旅に出かけた。さすがに日帰りは難しかったので、ガイドブックに載っていた安いビジネスホテルに電話を入れて1泊予約を入れた。

京阪淀屋橋から大阪市営地下鉄でなんばへ。南海電車でなんばから終点の和歌山市駅に向かった。朝早く出たので、和歌山に着いたのは昼前。重い荷物を持ちながら、和歌山市内をぶらぶらと歩いた。昼飯はチェーン店の牛丼、なんら普段と変わらない食事である。
和歌山市内の繁華街(といっても広いものではない)を歩くと、数件のソープランドを見つけてしまった。数年前まではトルコ風呂と呼ばれていたその特殊浴場のけばけばしい建物に、僕の目がロックオンした。「はいってみたい。旅の恥はかき捨てじゃないか」とおもいつつも、勇気がなく入るのをやめてしまった。(今思えば、勇気を出して入れば、それは強烈な思いでとなっただろう)
その後も、街中をぶらぶらして、結局入ったのは映画館。上映していたのはスタジオジブリの『おもいでポロポロ』。
僕はなぜだか、和歌山を旅して、映画館でジブリ映画を鑑賞していたのある。
とは言いながらも、それなりにストーリーに感動して映画館を後にしたあと、街の定食屋のようなところで食事をして、ビジネスホテルにチェックインした。
ビジネスホテルは思った以上にこじんまりとしたところで、初めての一人ビジネスホテル泊まりにドキドキとしていた。まあ、どうと言う事のないホテルであった。

夜中に空腹で目を覚ますこと数度あり、眠りが浅いまま早めにチェックアウトして、近所の古い喫茶店でモーニングセットを食べたあと、白浜温泉行きのバスに乗った。バスは、白浜で海水浴にいく家族とカップルと、若者のグループで一杯だった。南方熊楠記念館を目当てにしていたのは、どうやら僕一人だけのようであった。
小一時間近くはバスに揺られて、南方熊楠記念館に着いた。
バスから降りたのは僕一人だけ。
バス停周囲には誰もいない海が見える町、晴天の夏の日であった。

記念館は岬の上に灯台のように建っていた。僕は階段をのぼり、町の公民館のような建物に入った。
そこには、南方熊楠に関する資料が数多く展示されていた。幼少の頃から東大予備門の時代のノートや化石などの蒐集品。粘菌のスケッチや観察ノート、かの有名な抜書きノート、長大で詳細に書かれた巻物のような履歴書、そして熊楠のデスマスク。
浪人時代に読んだ鶴見さんの本に登場する資料が目の前に並んでいた。
僕は2時間ぐらいかけて、他に入館者のいない記念館の展示を夢中に見ていた。

そのあと、同じく誰もいない記念館の屋上展望台から、和歌山の海を眺めた。晴天で、夏とは思えない涼しい海風が、吹き上げるように僕の体を通り抜けていく。
その海風に乗って遊ぶように数羽のトンビが、気持ちよさげに飛んでいる。
日頃の憂さも吹き飛ばしてくれるような気がした。

さて、僕の白浜・南方熊楠記念館訪問の旅はこれでおしまい。
そのあと、そそくさとバスでJR白浜に戻り、そこから特急に乗って京都駅に向かった。
他に印象に残っていることと言えば、その特急の車中で、女友達5~6名とワイワイと楽しそうに話す女子高生たちの会話だった。彼女らの姿は見えなかったが、座席の向こうから聞こえてくる彼女らのキラキラとした青春の会話が楽し気であった。
「あ~これで、私たちの楽しい青春の旅行はおしまいね」と話していた。
当時の僕は、まだ二十四五の若造だったけど、彼女たちの友だちと楽しい時間を惜しむ気持ちが痛いほどわかった。
「ほんま、社会人になると、しんどいことばっかりやで」と独り言ちた。

あれから、30年経った。
南方熊楠記念館もきれいな建物になって、その後は訪問者も増えていることだろう。特急の中で話していた女子高生たちも、いまや四十ウン歳になっている。
僕も、しんどかったプログラマーの仕事は、その旅の後2年を経て転職した。その後もいろいろあったが、あの頃のような重苦しい思いはしていない。
ただ今も思い出すのは、南方熊楠記念館屋上から見た、胸がすくような海と空の鮮やかなブルーである。
空の上から、南方熊楠が「よう、あがのとこへ来てくれたな」と言ってくれてたような気がした。


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