「人が輝く時代」という絶望
「AIの急速な進化によって人の仕事が奪われる」、なんて言説が現実味を帯び始めてから数年。その言説の輝きは、早くも鈍くなり始めているように見える。
Open AIの創業者・CEOであるサム・アルトマンは、以前の自身の発言(AIが専門家を凌駕する、という趣旨の発言)の意図を問われ、次のように訂正した。
「当時こう言えばよかったと思っています。AIは44の職業における小さなタスクで、専門家を上回る。こちらの方がより正確です」
サム・アルトマン、「AIは人間を上回る」という自身の主張を修正
— チタロ (@PAGE4163929) June 2, 2026
「当時こう言えばよかったと思っています。AIは44の職業における小さなタスクで、専門家を上回る。こちらの方がより正確です」 pic.twitter.com/TVaEC8D9ez
この発言は、AIに対する過剰な期待に対する自制を促したり、急速に加熱したAIビジネスの競争に一種の鎮静をもたらそうとするものだと受け止められている。
Open AIはじめ多くのテック企業はAIを売り物にしているのだから「AIを使わなければ時代に取り残される」という謳い文句で消費者の射幸心や不安を煽り、自社の商品をより多く使わせようとするのは、ごく普通の宣伝あるいは営業活動だといえる。
程度の差こそあれ、老人に健康不安を吹き込んでマッサージ器や布団を売りつけたり、「これが流行だ」といって洋服や装飾品を流行らせようとするマーケティングと、同じようなものだろう。
だから「こんな宣伝に騙される大衆がバカだったのだ」と言ってしまえばそれまでだ。
しかし、この、いわば「AIブームからの揺り戻し」は、そう簡単に馬鹿にはできなさそうな、社会の価値観の変容をもたらすような気がしている。
ぼくが「揺り戻し」だと思うのは「AI時代には人間力が必要である」といった趣旨の言説だ。
AIがぼくたちの社会にもたらした成果のうち、もっとも大きなものの一つは、ホワイトカラーの多くの職種における単純労働の代替だろう。
書類の整理、リサーチ、議事録といった、従来は新入社員や新卒者、あるいは純粋な事務担当者が担っていた業務のほとんどは、AIによって代替可能だということが分かってきた。
だから多くの企業、とくにIT系や金融系の企業においては、新卒採用を削減あるいは停止したり、既存の労働者を大量に解雇する動きが活発化している。
また、LLMを手にした多くの人たちが気づいたように「知識を持っている/知識を披露できる」ということ自体には、ほとんど価値がないとみなされる時代になった。
Chat GPTやGeminiに質問をすれば、一般的には全く支障がないくらいには網羅的で正確な情報を、一発で、しかも自分に理解できるようにカスタマイズされた形で手に入れることができる。もはや検索すら必要なく、知識は「AIに聞けばわかる」ものだと思われるようになった。
「AI時代に残り続ける仕事は?」と問われたイーロン・マスクは、次のような発言を残している。
AIは手で仕事をする人たちの生産性を高める…例えば溶接、電気、配管工のように、物理的に原始を動かす仕事。料理や農業のような身体を使う仕事はこれからも残り続けるでしょう
知識を蓄えること、事務作業における正確性を高めること。いままでは「知的」だとされていた営みには、もはや価値がないと思われはじめている。
このような背景のもとに「人間力」の必要性を訴える言説は、日増しに強力になってきているように見える。
ぼくが一例だと思うのは、箕輪厚介の次のような発言だ。
AIによって能力格差が縮まって、ある意味で能力の民主化が起きて、個人個人が自分の個性を発揮できるみたいなこと言うこともあるんですけど、僕違うと思ってて。能力がコモディティになればなるほどその格差が生まれるっていうか、無価値になる、能力自体が。
てなるとすごく身も蓋もなくてレベルが低そうなんだけど、ぶっちゃけ名前だと思うんですよ。今までは「大きな流れにいるとフォロワーいても意味ないよね」「有名でも意味ないよね」っていう揺り戻しがつい最近まで来て、やっぱりちゃんとした何かができるっていうことに価値がある、名前とかっていうのはインフレ起こしてるっていうんだけど。
でも一周回ってまた戻ってきて、ぶっちゃけ「有名なやつ強い」みたいな、身も蓋もない時代になった。
ぼく自身は、持続的に知識を吸収してそれを他人に教えたり、正確で几帳面な仕事ができる能力そのものが、本当に無価値になるとは思っていない。
そのような能力は、これからも「知的」なものとして一定の価値を維持し続けると思うし、そのような人たちに対して、社会は一定のリスペクトを持ち続けると思う。
それでも箕輪氏の発言はとても的を射ていると思う。「何をやったか」ではなく「誰がやったか」が重要になる。この価値観の変化は、大勢としてはおそらくは不可逆的なものだろう。
アメリカのトランプ大統領がホワイトハウスの美しい庭園を撤去して、格闘技興業のためのスタジアムを建設している。
格闘技興業の主催者はトランプ大統領の有力な支持者として知られ、2024年の大統領選挙ではこの格闘技興業の有名コメンテーターのPodcast番組がトランプ大統領の当選に寄与したと評価されている。
だからこれは、大統領とその取り巻きたちによる、権力の私物化そのものである。
同じことをバイデン前大統領がやったら(絶対にやらないだろうが)非難どころではなかっただろうが、善し悪しの判断はべつにして「まあ、トランプだからな」と多くの人々が思っている。
ドナルド・トランプという名前が、アメリカ合衆国大統領の肩書以上の強い意味・価値・力を帯びているのだとみることができるだろう。
個人がのし上がれる時代。実力主義の時代。学歴が意味を持たなくなる時代。
そのように表現すれば、なにかポジティブな響きを感じられる人もいるのかもしれない。
宮台真司はかつて、このような発言を残している。
小室直樹先生が15年前に言われました。「社会が悪くなればなるほど人が輝き作品が輝く。宮台くん大丈夫だ。社会はもっと悪くなるから」
小室直樹先生が15年前に言われました。「社会が悪くなればなるほど人が輝き作品が輝く。宮台くん大丈夫だ。社会はもっと悪くなるから」RT @lovesydbarrett: @miyadai 宮台さんはこれからポップミュージックにダイナミズムはこのまま起こらないと思われますか?それとも
— 宮台真司 (@miyadai) April 8, 2010
「人が輝く」。たしかにそうだ。
だけどぼくは、このような時代の趨勢に、あまり希望を感じていない。
ある人が「輝いている」と判断するのもまた人である。人が人を判断する。しかも「キャラクター」や「面白さ」のようなきわめて属人的で、客観的には不明瞭な指標で判断する。
「面白さ」は必ずインフレする、過激化する。「もっと面白く」の競争になる。くだらないネットの炎上で「まずは有名になる」ことがコスパの良い立身の手段だと考える人も増えるだろう。
金銭や人脈などの「力」を持ちたいと思う人々はみなインフルエンサーを目指し、インフルエンサーは実業や政治を目指す。反対に実業家や政治家は、自信がインフルエンサーであることで影響力を強めようとする。
たしかに下克上的で、カオスで、人が輝く時代になった。
けれど、ぼくたちは、本当にそういう社会に生きたかったのだろうか?
学歴を磨き、経歴を磨き、性格を磨き、外見を磨き、自分のキャリアがいかに素晴らしいものかをプレゼンし、他人に面白がってもらえる、可愛がってもらえる能力を磨く。その競争はAI時代にますます激化する。
「この人なら仕事を任せられる」、「この人の話を聞きたい」と思われることのハードルは、これからどんどん高くなっていくだろう。
そして、グローバル化はそのハードルをより一層引き上げる。日本人も、外国人と同じ土俵で闘わねばらない。おそらく日本人が最も苦手であろう外国語の習得やディベート能力も「人」を判断するときの大きな指標になりうる。
「人が輝く」。その言葉は美しい。
けれど、他人の目にまぶしいと感じられるほど輝ける人など、世の中にはそれほど多く存在しない。
多くの人々に「輝き」を求める社会は、良い方向に向かっているとは思えない。
ぼくは、こんな時代はいやだ。だけど多かれ少なかれ、そういう社会になってしまったのだ。ぼくらは、そんな時代に合わせて生きていかなければならない。
SF作家のカート・ヴォネガットは、新約聖書に描かれる「山上の垂訓」を愛読した。
「山上の垂訓」は、キリストが山の上で弟子たちに語ったとされる教えのことだ。「汝の敵を愛せよ」や「右の頬を打たれれば、左の頬を差し出せ」といった、キリスト教の代表的な教義の多くが、このエピソードからきている。
ヴォネガットはこう言っている。
わたしは、あらゆるアメリカ人の先祖たちにこう言いたい。「イエスの言葉が気が利いているだけじゃなく、本当に素晴らしく美しいものだったとしたら、彼が神であるかどうかは関係あるのか?」
世の中には善い行いがあり、美しいものや作品がある。
善さや美しさに「誰が言ったか」、「誰がやったか」なんて関係なかったはずだ。善いものは善く、美しいものは美しい。
そうだ。
世界の真実はほんとうはこっちにあるのだと、ぼくは思いたい。
