【ゆっくりと】#シロクマ文芸部
ゆっくりとした動きで手招くそれを私はじっと見ていた。
白い大きな手だった。
小学生である私の身長よりも、その指は長く思えた。
自分の手に比べると、指が少し長すぎた。手というより手に似た何かなのかもしれない。
でもそれが揺れる様は手招きのそれだった。
「見えるのかい?」
背後で不意に声がした。
黒い袈裟を着た背の高い男の人だった。
私は黙って頷いた。
男の人は一度それを見ると、私の顔を覗き込むようにした。
「アレに近づいたらいけないよ。振り返らずにここから去るんだ。いいね」
私は再び黙って頷いた。
男の人は私の背を押すようにして「行きなさい」と言った。
私は駆け出した。
言われた通り振り向かなかった。
「あれはここだったんだ」
記憶の中の風景にはこの鳥居はない。
まだ母が家にいた頃で、母方の親戚の法事か何かでこの地に来ていたと記憶している。
あれから30年は経っている。
だけど風景は鳥居以外はほとんど変わっていなかった。
あの奇妙な手の代わりにそこにあるような鳥居の前を、私はあっという間に通り過ぎた。
先日届いた古い書簡の解読を終えて、その資料を送ってきてくれた人に会うためにこの町に来た。
鳥居の前を通り過ぎると、道沿いにしばらく果樹らしきあまり背の高くない木が並ぶ。りんごだろうか?桃だろうか?などと思いながら、その木々を横目で見る。
私が住む町から、北におおよそ100km。目的地が駅から離れていたので、車を運転してきた。
目的地は古い寺である。
果樹が途切れて最初の交差点を左に曲がる。
道が細くなる。
今度は杉の木が道の両脇に並ぶ。
自分がスギ花粉症でないことにホッとする。
5分ほど走ると、寺の門柱が見えてきた。
「雲草寺」
30年前に来た寺ではなかった。
門柱の右脇、車が一台通れる程度の道を入る。
駐車場に繋がっているとのことだった。
駐車場までは一方通行、帰りは駐車場から門柱の左側に出るとのこと。
「入り口を間違わないよう、ご注意ください」
そうメールにあった。
駐車場は思ったよりも広かった。
平日の昼間に車が2台停まっていた。
そういえば来週は春彼岸だ。そんなことをぼんやり考えた。
本堂の向かって右隣にある庫裏を直接訪ねてほしいとのことだった。
玄関には普通にインターホンがある。
「どちら様でしょう」
女性の声がした。
「郷土史センターの百目鬼と申します」
「お待ちしておりました」
数秒後に玄関が開き、私とあまり変わらない年齢の女性がにっこりと微笑んだ。
「住職は中におります。さぁ、どうぞ」
通された部屋にいた住職を見て私は少し驚いた。
先ほどの女性ととても似ていたのだ。
「あれは双子の妹なのです」住職は言った。
聞けばいろいろとあってこの寺には住職兄妹とそれぞれの子どもの4人で暮らしているのだという。
そして、こちらに送った古い書簡らは、住職の亡くなった細君の父親の持ち物だったという。
「もしも自分に何かあったら、家にある古いものは捨てずに歴史的なことを調べたり残したりしているところに寄贈してほしいと言われていたのです」
自分たちの施設・研究所を選んだ理由を訊ねた。
「書簡の中にそちらの城主とやり取りしたものがいくつかあったからです」
と、まるで今でもその城主が生きているかのような口ぶりで住職は言った。
「実は…」
住職は一度そこで茶を飲んだ。
私とあまり変わらない年齢のようだが、時折ひどく歳上のような雰囲気になる。
今もそうだった。
年配者特有の、過去を思い出す間とでもいうべき空白が生じる。
「義父、正しくは妹の夫の父ですが、現在は行方不明の状態なんです」
私は何も言えず、2回瞬きをした。
「この辺りは昔からあるんです。神隠し」
「はぁ?」
住職はフッと笑った。
「ここに来る途中に大きな鳥居がありましたでしょう?」
「はい」
私はようやくはっきりした返事ができた。
「かつてはあの辺りで多くの神隠しがあったんですよ。でも30年ほど前でしょうかね?あそこにいるカミを封じてもらったのです。あの鳥居でね」
私は黙って頷いた。
「効力が薄らいだのか、10年ほど前から再び神隠しに遭う人で出てくるようになって、ついに帰って来なくなる人まで出て来たんです」
帰って来なくなったふたりめが、住職の妹の夫だったと、住職は言う。
「8年前のことです。結婚して一年ほど経っていたでしょうか。妹が妊娠して間もなくでした」
私は本当に神隠しなのか?などと野暮なことを言うのを止した。
「神隠しに遭う人に共通点があるんです」
その共通点を聞いて、私はドキリとした。
「あの鳥居の奥から伸びる手が見えると言うのです」
「手、ですか?」
私はようやくそう返した。
訊ねなくてもわかる。あの奇妙に白くて指の長い手だ。
私が見たのは30年ほど前、鳥居が建つ直前という頃だろうか?
「あ」
思わず私は声をもらした。
あの時の黒い法衣を身に纏った男性がそのカミを封じたのだ。そう思った。
「義弟、タケヒトも言っていました。私にその話をした3日後、タケヒトは帰って来ませんでした」
妹さんの一家は30年前の神隠しのことを知らなかった。
この町に越して来たのが25年ほど前。
理由はわからないが、父親は最初は中学の臨時講師として勤め始めたが2年後には採用試験に合格して、定年まで中学の社会科教師をしていた。
母親はひとり息子のタケヒトが高校を卒業した年の夏に病気で亡くなった。
「近所だったこともあって、私たちの母がタケヒトたちのことを心配して。それまでも行き来はあったのですが、親密な付き合いとなり、妹たちは10年ほど前に結婚しました」
どちらの親たちも遅くに持った自分たちの子どもをとても大事にしていた。そういう共通点もあり、単なる近所付き合いというより親戚か何かのようだったと住職は言った。
「タケヒトが手の話をするのを聞いて、私の父が『鳥居に近づいてはいけない』と30年ほど前の神隠しの話を聞かせたんです」
10年ほどの間に8人が消えた。
最後のひとりが消えたのが31年前。交番勤務の警官だった。
「当時、私はまだ子どもできちんとしたことは聞かされなかったけれど『座頭神社の宮司がカミサカイの里に相談して、モチヅキを呼んだ』と父が話していたのを覚えています」
鳥居にはカミがこちらに出て来れない呪がかけられていて、人が鳥居の中に入ることがなければ、カミは人に触れることはできない。
「あの鳥居から向こうはカミサカイのミタライという人が買い取って、立ち入り禁止になっているし、なんだか気味が悪いのもあって、この辺の人は誰も近づかない」
10年前にとある女性が姿を消した。
親戚の家を訪れた女性だった。
その女性が行方不明になった時、親戚から女性が鳥居の下に手が見えると言っていた、という証言があった。
30年前の神隠しを知る者たちが一斉にざわつき始めた。
「カミの復活」
それが決して良いことではないということを皆が理解するのは、2年後舞上岳仁が消えてからだった。
住職の父から30年前の神隠しの話を詳しく聞いたタケヒトの父は「息子を連れ戻す」と何度も鳥居の奥に入って行ったが空振りに終わっていた。
何もない雑木林をただグルグルと歩き回るだけだった。
タケヒトの母はタケヒトが消える5年前に病気で亡くなっていた。
住職の両親は身重の娘を案じて、出産まで実家に戻ってくるように言った。
そしてひたすら息子を探し続ける舞上のことも、心配した。
「妹が出産した翌月くらいでしょうか。舞上の父が『手が見えたような気がする』と言い出したんです」
孫の誕生も、舞上の息子探しを止める理由にはならなかった。むしろ以前よりも熱心に探していた。
そして遂に「タケヒトを取り返してくる」と言って、舞上は家を出て行った。
「それが最後でした」
住職の父が、舞上から遺言状を託されていたのを知ったのは、その父が亡くなる少し前、舞上が消えて1年ほどが経っていた。
「自分が帰って来なかったら7年後には失踪宣言をして家を閉じてほしいとあったんです」
住職の父が亡くなって間もなく、住職の妻が出産後に亡くなった。そして1年前には住職の母も亡くなった。
住職の両親は遅くに子どもを持ったので、亡くなっても早すぎる年齢ではなかったと住職は言った。
「不思議なことに舞上の父が消えた後は、ピタリと神隠しは止みました」
すっかり冷めたお茶を私は飲んだ。
「先日、舞上の父の失踪宣言と共にタケヒトのも出したんです」
住職はふと窓の方に目をやった。
「いるような気がするんです。あの鳥居の向こうに」
「ご住職」
思わず声をかける。
「行きませんよ。私は」
住職は私を見てにっこりと微笑んだ。
「子どもたちを育てなければなりません。誰に呼ばれても、私も妹もあっちには行きません」
そう言うとまた住職は窓の方に視線を向けた。
今あの鳥居の向こうから手招くのは、ただの白い手ではないのだろう。
私は再び通るあの鳥居のある道を思ってそっと息を吐いた。
