誕生日とビールと男の世界
私には誕生日が年に5回ある。
それは年に5歳、歳を取るようでもあるのだがそうではなくて。
家族4人に加えて、近所に住む母がいるという話だ。年に5回、家族で誕生日を祝うのである。
けだし誕生日という奴は年に一度くらいの頻度であるから特別感も湧くのだが、考えてみると自分だけでももう40回以上の誕生日を迎えた。その上で年に5回の誕生日がある訳で、特別感というやつはだいぶすり減ってしまっている。
子どもは、明日も明後日も誕生日ならいいのに、などとのたまうが、大人からするとそれはそれで大変なのだ。
さて先日はカミさんの誕生日で、リクエストに応えて韓国料理にチャレンジした。手際がよろしくないので半日くらいキッチンに立ってキッチンドランカーになりつつ準備をするのだが、これが意外に面白かった。
明確に意図したチャレンジ、というのはさほど多くもないのだが、それをする機会であると考えると、誕生日が沢山あるというのも悪くない気がしてくる。年に12回くらいならあってよいかもしれない。いやそれは言い過ぎかもしれない。
そんな風にしてカミさんの誕生日を過ごしたのだが、皆んな誰かから何かを受け継いでいるのだという考えが浮かんでいた。単純に親から命を受け継いでいる。常識だのなんだのも、なかなかに家族から受け継ぐものが多い。子どもの時分に受け継いだそれらはあまりに当たり前になって、当人からすれば空気や水のようなものになりがちだ。
一方で、ある程度長じてから受け継いだとなるとまた意識のされ方が変わってくる。往々にして印象的なその出来事は、一つの物語にもなりやすい。
中にはこうした、長じてからの出来事がないという向きもあるだろうが、それは悲観するような話でもなくて、皆んな受け継いでいるには違いない。それをどの程度意識しているかという話であろう。あるいは受け継いだのではなくて、図らずも影響を受けたという話なのかもしれない。
いずれにしてもそれらは生き方の指針にもなりうるし、囚われにもなりうる。以前に読んだこの本について、
過去の記事で書いていたことなのだが、それが改めて思い出された。意外といいこと書いてるじゃないか、と読み返して一瞬思ったが、本の一節を要約抜粋したのだった。
出会った人が分けてくれたもの。誰かの役に立ちたいと思うこと。人によっては制約とみるかもしれないそれが、道を示してくれたこと。
ひととき、自分に与えられた制約がうとましく、かといって何をしても良いと開き直ったら何もできなかったことを思うと、温かく語られる制約が羨ましくも感じたものだ。
そしてそういうことはあったのだが、やはりそれは悲観することでもないと、今日も家族が寝静まった後にビールを飲んでいる。そう、何にせよ今日もビールを飲んでいるのだ。
ビールは人の思考を滑らかにする。水車小屋のネネの感想を書いたあの時も飲んでいたかもしれない。何しろ同じ記事の中で続けて、息子をJohnと呼んでみたいなどと綴っていて、それがタイトルにもなっているのだ。英語的な何かが伝わって世界が広がるという。訳が分からない。
もう一つ思い出したのはリンゴォ氏だ。ジョジョ第7部、S・B・Rのリンゴォ・ロードアゲイン語る男の世界。詳しくはジョジョを1部から全て読んでいただきたいのだが、「リンゴォと男の世界」をテーマに絵を描いてもらったらこうなった。

copiloto氏にもビールを飲んで、サムネのような画像を出していただきたかった。いやまて、こんなの描く方がもう飲んでいるとしか思えない。仲間だった。

ムスコをJohnと呼んでみようと思った記事
