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[日本史]徳川幕府第八代将軍「吉宗」、その政治的手腕に迫る!

#徳川吉宗 #享保の改革

徳川吉宗と聞くと、どうしてもドラマ「暴れん坊将軍」を思い出してしまう。このドラマは、1978年(昭和53年)にテレビ朝日系列で放送開始されたものだ。主演は、マツケンサンバの松平健。彼は若干23歳で八代将軍・徳川吉宗を演じた。 以後、2002年までに12シリーズが制作され、スペシャル版も多数放映されている。

物語は、将軍吉宗が「徳田新之助」と名乗り、庶民の暮らしを見聞しながら悪を成敗するという勧善懲悪の構成。 白馬にまたがり、町を駆ける姿は象徴的だった。殺陣の美しさ、主題曲の荘厳さ、そして「成敗!」の決め台詞が視聴者の心を掴んだと言えるだろう。
だが、この作品によって日本人の「吉宗」像ができてしまい、本当の吉宗がわからなくなったのは言うまでもないだろう。

*急遽、将軍にえらばれた吉宗!
徳川吉宗は、紀州藩主であった。 将軍家とは傍系の血筋になる。 七代将軍家継が幼くして病没してしまい、 幕閣は後継に苦慮した。 血統と能力を兼ね備えた人物が求められたのだ。

吉宗は、紀州において質素倹約を旨とする藩政をおこなっていた。 その実績が評価されたという。尾張・水戸などの有力大名も候補に挙がっていたのだが、幕府としては安定を優先する。また、 紀州徳川家からの選出は妥当とされたようだ。享保元年、吉宗は将軍職に就く。 以後、享保の改革を断行することとなる。

徳川吉宗が将軍に就任した背景には、幕府の存続を揺るがす深刻な後継問題があった。家継は七代将軍であり、六代家宣の子。幼くして将軍となったが、わずか八歳で病没。直系の男子は絶え、将軍家は断絶の危機に瀕したのだ。

幕府は、徳川御三家(尾張・紀州・水戸)から後継を選ぶ必要に迫られる。尾張は血統的には最有力であったが、当主・徳川宗春は享楽的で政治姿勢に難があるとされた。水戸は学問に秀でていたが、尊王思想が強く、幕府の統治理念と相容れなかったようだ。、

紀州藩主・徳川吉宗は、四男ながら兄たちの早世により家督を継いでいた。藩政では倹約と実務に優れ、領内の財政を立て直した実績があったのだ。幕閣は、安定した統治を望んだ。吉宗の実務能力、清廉な性格、そして御三家の中で最も幕府体制に忠実な姿勢が評価されたという。

これは、吉宗自身が将軍職を望んでいたわけではない。だが、幕府の要請に応じ、享保元年(1716年)に八代将軍として就任することとなる。

*後継者教育はうけなかった吉宗
吉宗は、将軍家の直系ではなかったのだ。紀州藩の四男として生まれたため、後継者教育は受けていない。 幼少期より山野を駆け、庶民の暮らしを肌で感じて育った。 その経験が、後の政治感覚に深く影響したとされる。

藩主としての吉宗は、倹約と実務に長けていた。 財政再建に成功し、領民の信頼を得たという。将軍就任に際し、紀州から約200名の家臣を伴って江戸入りした。 これは、幕府内の旧勢力に対抗する布陣だったようだ。
吉宗は、幕府古参の年寄りを遠ざけた。 代わりに「神君家康公の御遺訓」に従うと宣言した。 これは、家康の政治理念に立ち返ることで、正統性を示す意図があった。 同時に、個人的な派閥や私情を排し、公正な政治を志向した姿勢でもある。

享保の改革は、こうした理念と実務の融合によって始まった。 吉宗は、庶民の目線と為政者の責任を併せ持つ、稀有な将軍であった。
 
*将軍として吉宗のとった功績とは
吉宗は、将軍としての資質を実務と理念の両面で示している。目安箱の設置は、庶民の声を政治に取り入れる画期的な制度であった。 匿名で意見を投じることができ、身分に関係なく訴えが届く仕組みだ。 これは、封建体制下において極めて先進的な試みであった。

小石川養生所の創設も特筆に値する。 医療を受けられない貧民に対し、無料で治療を施す施設だった。幕府の公的責任として、福祉の概念を具現化した政策であったのだ。
さらに、飢饉対策としてのサツマイモ栽培奨励も吉宗の功績のひとつ。サツマイモは、痩せ地でも育ち、保存性に優れ、栄養価も高い。 農民の命を守るための科学的かつ実践的な施策であった。

これらの政策は、単なる善政ではない。 庶民の生活に根ざした視点と、国家の持続性を見据えた構想力の賜物である。 吉宗は、封建的権威に依拠するだけでなく、実証と改革によって信頼を築いた。
政治家として、一流であったことは疑いない。 その統治は、徳川幕府の中興を象徴するものである。

*享保の多岐にわたる改革とは
吉宗のおこなったその他の改革を見ていこう。
①まず実学の奨励だ。漢訳洋書の輸入を緩和し、西洋の科学・医学・天文学などを積極的に導入した。 蘭学の基礎を築き、青木昆陽らにオランダ語を学ばせた。
②薬草調査と朝鮮人参の国産化をはかる。全国に「採薬使」を派遣し、薬草の分布を調査。 高価な輸入品だった朝鮮人参の栽培に挑戦し、ついに国産化に成功したのだ。
③法制の整備をおこなう。 「公事方御定書」を編纂し、裁判の基準を明確化。 「相対済まし令」により、金銭争いは当事者間で解決するよう促した。
④人材登用と足高の制。 身分に関係なく有能な人物を登用した。足高の制を導入し、家柄に関係なく役職に就けるようにもする。
⑤都市政策と防災対策に力をいれた。町火消制度を整備し、江戸の火災対策を強化。 広小路や日除け地を設け、延焼を防ぐ都市設計を進めたのだ。

*改革の「負の側面」もみると!
❶米価政策の失敗。 吉宗は「米将軍」と呼ばれるほど米価の安定に執着した。 米価を上げるために買米政策や流通制限をおこなったが、逆に米が過剰供給されて価格が下落。 庶民の生活は苦しくなり、農民の不満も高まった。
❷貨幣改鋳による混乱。元文元年(1736年)に金銀の含有量を減らした貨幣改鋳を実施した。通貨供給量は増えたが、物価も上昇し、庶民の購買力が低下。 財政は黒字化したが、生活への影響は深刻だった。
❸目安箱の限界もあった。庶民の声を聞く制度として評価されるが、実際には住所・氏名の記載が必須であり、匿名の投書は破棄された。 将軍の権威強化の手段としても機能し、幕閣批判の抑制に使われた面もある。
❹倹約令の過剰な適用。贅沢を禁じる倹約令は、武士や町人の生活文化を圧迫した。 衣食住にまで干渉し、反発を招く。 経済活動の停滞にもつながった。
❺側近政治と幕閣の分断。紀州藩出身者を中心に側近政治を展開し、幕府の古参勢力を遠ざけた。 これは権力の集中と効率化を狙ったが、幕閣との軋轢を生んだ。

*吉宗の晩年はどうなったか?
徳川吉宗の晩年は、将軍職を退いた後も「大御所」として幕政に強い影響力を持ち続けた時期である。
延享2年(1745年)、吉宗は将軍職を長男・家重に譲る。 しかし家重は病弱で言語も不明瞭であり、実質的な政務は吉宗が握っていたのだ。 表向きは隠居であっても、政策決定には吉宗の意向が色濃く反映されていた。

晩年の吉宗は、質素倹約の姿勢を崩さず、生活も簡素であった。 政治に対する責任感は衰えず、病を得ても執務への意欲を失わなかったという。
延享3年には中風(脳卒中)を発症。 右半身麻痺と言語障害に苦しみながらも、江戸城内を歩くなど回復に努めた。 しかし再発後は容態が悪化し、寛延4年(1751年)6月20日、江戸城で死去。 享年68(満66歳)、当時としては長命だったといえるだろう。
吉宗の死は、幕府にとって大きな節目であった。 享保の改革を通じて築いた統治理念は、後の将軍たちにも影響を与えた。

*まとめ
徳川吉宗は、紀州藩の四男として生まれている。しかも将軍家の直系ではなく、後継者教育も受けていない。幼少期は山野を駆け、庶民の暮らしを肌で感じて育ったのだ。家継の死後、幕府は後継に苦慮し、吉宗を八代将軍に迎えた。享保元年のことだった。

吉宗は紀州から200名の家臣を伴い江戸入りし、幕府古参の年寄りを遠ざける。政治理念として「神君家康公の遺訓」に従うと宣言し、派閥を排した。そして享保の改革を断行し、倹約・実務・庶民目線を軸に統治を進めたのだ。

目安箱を設置し、庶民の声に耳を傾けた。小石川養生所を創設し、貧民に医療を施す。飢饉対策として甘藷の栽培を奨励し、薬草調査や人参の国産化にも尽力した。法制整備、火災対策、実学の奨励など、施策は多岐にわたる。
一方で、米価政策や貨幣改鋳は庶民生活に負担を与えた。倹約令の過剰適用も反発を招く。晩年は家重に将軍職を譲るも、実質的な政務を担い続けた。病を得ても政治への意欲は衰えず、68歳で没した。
吉宗は、庶民の目線と国家の構想力を併せ持つ、稀有な政治家であったのだ。まさに自ら行動する「真の政治家」だった。

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