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島津忠久伝説は酒匂氏が作った?②

 薩摩島津家の初代、島津忠久が源頼朝の御落胤だったという伝説は、その後もいろいろな文献にあらわれる。
 前回紹介した「酒匂さこう安國寺申状」の次に古いのは、「山田聖栄しょうえい自記」で文明2年から14年[1470~82]頃の成立だという。「酒匂━━」では丹後局たんごのつぼねが住吉で出産した後に、惟宗廣言ひろことに嫁いだことになっているが、「山田━━」では、八文字民部太輔(惟宗廣言)に嫁いでから、そこで忠久が産まれたことになっていて、住吉神社は出てこない。

 15世紀後半というから「山田━━」と同じころに成立した、島津家の「御当家史書」には、前の二つにはない稲荷の狐火の加護の話が書かれている。また、忠久が産まれた時に大雨が降っていたことから、島津が戦に出陣するときに大雨が降ることは佳例とされたという。

 江戸時代初期の寛政18年[1641]、江戸幕府は「寛政諸家系図伝」の編纂のために、諸大名や旗本に対して系図の提出を求めた。島津家は頼朝御落胤を記した系図を提出した。「寛政諸家系図伝」にこれが載っているということは、御落胤説を幕府も認めたということになる。

 「寛政重修諸家譜」(寛政11年[1799]~文化9年[1812])では、忠久が誕生した翌日に、近衛基通が住吉神社を参詣し、丹後局親子を憐れんで京都へ連れて行ったというエピソードが加わっている。

 こうして形を整えていく御落胤伝説は、その後も薩摩藩の歴史書に何度も記されて定着していく。島津重豪しげひで(25代・薩摩藩8代)は「大日本史」にこの伝説を乗せるように働きかけて実現している。
 また、重豪は鎌倉の源頼朝と島津忠久の墓の整備を行って、藩主、家臣が定期的に墓参するようにした。頼朝の墓には島津の丸に十の字の家紋が刻まれている。
 大阪の住吉社の誕生石も、玉垣の整備や補修がされた。誕生石は元々は誰かが奉納した力石のようだ。妊婦が石を抱くという話の元は神功皇后の伝説からいただいたのだろう。

 伝説を補完するアイテムもまた重要。話にリアリティーが出るからだ。例えば頼朝から忠久に贈られた愛染明王の像や、頼朝の守り刀と伝わる脇差など。脇差は藩主が代替わりするときに継承される。

 じつは酒匂氏にも先祖伝来のお宝があるらしい。らしいというのは、筆者は実物を観たことがないから。
 それは島津家の守本尊と御母衣ほろと、頼朝公から拝領した行親の銘の入った太刀一振りだという。「諸家大槪」に、忠久公誕生の折の御母衣とあるが、母衣を産着の代わりにしたということだろうか。太刀の方は千日潔斎しなければ拝見はならぬと伝えられた名品だとか。待て待て、千日って三年だよ。見る前に錆びなきゃいいけど。
 これらの重宝は鹿児島の尚古集成館に収蔵されているらしい。
(「本藩人物誌」には、頼朝より拝領した太刀は行光と記されている)

 これだけしつこく島津は源氏と宣言しているのだから、きっと薩摩藩の人々にとって常識になっていたのではないか。疑うなんてとんでもないことだったろう。というか、藩主も心から信じていたかもしれない。
 私たち孫に丹後局の話をしてくれた祖母も、まったく疑っていなかったと思う。何しろ先祖が絡んだ話なのだから。

 実は祖母の実家にも丹後局と共に九州に移ったという話がある。祖母の実家は商家だったが、元々は武家で丹後局の侍女だった。鹿児島に丹後局ゆかりの神社があり、祖母の実家の女性が代々祭りごとだか、奉仕をしていたとか。随分前に一度だけ聴いた話なので、それがなんという神社か忘れてしまった。
 調べてみたところ、鹿児島市の花尾神社が祖母の話していた神社の可能性が高い。花尾神社は源頼朝と丹後局が祭神で、忠久公が創建したという。近くに丹後局の墓もある。きっと明治以前は別当寺もあったはずだ。

 この伝説の作者は島津家の誰かだけではないだろう。忠久の重臣として薩摩に下向した中に本田親恒や酒匂景貞がいる。これら関東から南九州に渡った人々の子孫が伝説を作る手助けをしたと思う。

 例えば本田親恒は前回紹介した大阪の住吉神社の誕生石の話に出てくる。
 局が住吉の松原まで稲荷の狐火に導かれてきたとき産気づいた。そこで家臣の本田次郎(親恒)が住吉の神に安産を祈ると、局は石を抱いて無事男児を出産した。このことを知った頼朝は本田次郎をほめたという。

 酒匂氏は伝説の成立にどうかかわったのか。前にも紹介した「小田原史談」にこんなことが書かれていた。

頼朝の愛妾丹後局とは実は大友氏の女(むすめ)で政子の為に一命危ういところを畠山重忠の機智で一旦厚木の奥の小野の里に隠れ、更に遠く九州鹿児島落ちの際、身重の旅路で相模国を立ち去る時、母親の妙法尼と千代の長立庵でしばしの別れを惜しみ酒匂川の下手に道を取り暗い闇路を歩いていた時、稲荷森(とうかの森、今の鴨宮より飯泉へ出る間)のあたりで沢山の狐火が現れて道を明るく照らし、白狐が途中まで守護したという。

「小田原史談」第41号 昭和40年3月15日発行
「小田原と九州」 内田武雄 

 狐火のエピソードが大阪ではなく小田原の出来事になっている。JR東海道本線の小田原駅の一つ東京寄りに鴨宮駅がある。酒匂のすぐ近くだ。 
 丹後局が大友氏という話はどこからの出た話なのか。千代の長立庵とは小田原市に千代という場所があり、その昔長立庵という寺があって、これが丹後局の母の比企局が出家して妙法尼となって入った所という。比企氏の夫は藤原親能で出家して寂忍と号した。内田氏はこの親能を大友氏だというが、藤原親能は大友ではないし、大友能直と混同しているのではないだろうか。また、藤原親能は京の公卿だが、比企局と結婚したという記録はない。

 それはともかく、この記事に出てくる小野の里に残る伝説に、酒匂氏の名が出てくるのだ。

                               つづく