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【ぶら近所】井草八幡宮

 久しぶりに井草八幡へ散歩に行った。(東京都杉並区善福寺1-33)

 ここは幼いころから、というか赤ん坊の時からよくお参りに来た神社。もちろん、その頃は親に抱かれてだ。
 ヘッダー画像は本殿の前にある回廊と神門。

 井草八幡は広々とした敷地の緑の杜で、社殿も立派なのだが、最初は春日社を祀っていたという。創建年は不明ということだ。
 境内からは縄文時代の遺物も発掘されている。土地が安定していて近くに水辺(善福寺池、善福寺川)があり、住むに適した良い土地なのだ。

 文治5年[1189]源頼朝が奥州藤原氏征伐の際に戦勝祈願のためにここを訪れた時から八幡神を奉斎したというから、八幡宮としては830年以上の歴史がある。
 そのとき頼朝一行は水を求めたが、日照りのために水が枯れていた。そこで頼朝は自ら弓で地に穴を穿つと七度目にようやく水が湧いてきた。水の出があまり遅いので「遅の井」と名付けたという。もちろん、これは伝説。
 これが現在の善福寺池なのだ。遅野井は江戸時代頃にはこの辺りの地名で、この八幡宮も遅野井八幡と呼ばれていたらしい。

拝殿
周りを回廊に囲まれているのが特徴

 本殿は奥高家の今川氏堯(うじなり)によって寛文4年[1664]に改築された。17世紀以来この辺りは今川家の領地だったのだ。(杉並区には今川という地名もある。)本殿は杉並区最古の木造建築だが、拝殿の奥の覆殿に収められており、外からは見えない。

楼門
内側から見たところ
楼門
外側

 頼朝由来の八幡宮だから、その後も源氏に尊崇された。太田道灌は文明9年[1477]に、豊島氏の石神井城を攻める際にこの神社に参拝しているし、徳川三代将軍家光は朱印地六石を寄進している。今川氏も源氏だ。

 青梅街道に面した大鳥居から長い参道が伸びている。ここでは五年に一度、流鏑馬が行われる。

流鏑馬が行われる東参道
奥の大鳥居が流鏑馬のスタート地点
参道わきに流鏑馬の的を立てる目印の石
三の的まである

 流鏑馬は何度か見にここに来たが、なかなか興奮するものだ。一の的に当たる確率は高いが、二の的、三の的となると疾走する馬上で矢をつがえて構えて射つのは、なかなか難しい。
 馬上の射手は時代がかった衣装で凛々しくかっこいい。毎回かなりの混雑で、見物は大変だが。
 

大鳥居
流鏑馬を真後ろから見られるのがここ
ただし近づきすぎると馬がはね上げた小石の直撃を受ける
かなり離れる必要がある

 東参道から楼門へ向かう角に高さ3mほどの石灯籠が二基、道の両側にある。富士講の信者が寄進したものだ。竿の部分に正八幡宮と富士浅間宮と刻まれている。

 この辺りの富士講はマルに遅野井の「を」で、「丸を講」という。杉並(上・下井草村、上荻窪村)、練馬(上・下石神井村)、西東京市(保谷村、田無村)、新宿(成子町、内藤新宿)とかなり広範囲なメンバーで構成されていたようだ。
 この灯篭は上井草村先達の登山三十三年を記念して寄進されたという。

 もちろん浅間神社があり、富士塚もある。しかし、灯篭とは離れた神社の境内の外。バス通りを越えた北駐車場の隅にあるため、あまり知られていないのではないだろうか。少なくとも筆者はここにお参りをしている人を見たことがない。

浅間神社
背後にある草におおわれた小山が富士塚
昇ることはできない
右手は神社の駐車場になっている

 筆者もバスの車窓からみえる小山を長年、勝手に古墳かなにかと思っていたが、江戸時代に築かれたものだった。しかも、元はこの場所ではなく昭和の時代に境内から移転したのだという。そういえば確かに子供の頃は何もなかった。

北鳥居と大灯篭
青梅街道と善福寺池に向かう道の角にあり、この大灯篭は非常に目立つ

 そういえば北参道の大灯篭だって、昔からあったわけじゃない。あるとき、すごい派手なもんが建ったと思ったものだ。いつ頃のことかもう思い出せないくらい昔。こちらは歳をとってあちこちガタがき始めているが、八幡様は古くなっても清いままだ。