【ぶら近所】北辰一刀流玄武館道場
善福寺公園下の池や東京女子大学にも近い住宅街。車通りも少ない静かな通りに看板が掲げられている。
北辰一刀流劍術 北辰一刀流本部
そしてその看板にしたにバレエと書かれた小さな看板も下がっている。

時折小雨もぱらついたが、久しぶりにほんの少し暑さもやわらいたので
散歩に出かけると・・・
道路から奥まったところに道場はあるようだ。木製の看板には千葉氏の家紋「月に星」が描かれていた。
(東京都杉並区善福寺二丁目28-6)

北辰一刀流といえば千葉周作が編み出した剣術の流派。玄武館道場といえば神田お玉が池・・・じゃなかったっけ?
実はお玉が池の道場は現在はなくて、跡地は公園になっているようだ。明治時代に宗家の血脈が途絶えて道場は無くなったらしい。現在あるのは師範(弟子)の開いた道場だ。
ここ杉並に道場が開かれたのは戦後の昭和20年[1945]。戦前に北海道にあった小樽玄武館の師範代小西重治郎氏が、シベリア抑留から帰国した後にこの場所に道場を開いた。(小樽道場は小西氏が戦地にいる間に閉鎖。道場は売却されていた)
最初は建物もなく野天で稽古していたとか。屋根がある本格道場ができたのは昭和25年のこと。持ち物といえば竹刀と彩管(絵筆)のみの文字通り裸一貫でのスタートだったというが、荻窪警察署で出げいこ、警察大学で指導するなどして道場を今のように育てた。現在は重治郎氏の息子さんが後を継がれているようだ。
かなり昔のこと、テレビでこの道場の稽古の様子が紹介されたのを見たことがある。床に大豆を撒いてわざと足場を悪くして稽古していた。とても実践的なのは剣術だから。剣術とは刀剣を使う技術(武術)のことで、流派によって違う型がある。(剣道は剣術を基に競技化したもので、心身鍛錬を目的としている武道である)

小西氏は千葉周作から数えて五代目
剣士というだけでなく画家でもある
この本は千葉周作の一代記を絵と文で書いている
守の巻は最初の巻で続きがあるようなのだが、筆者が手に入れたのはこれのみ
北辰一刀流についてごく簡単に紹介すると、開祖千葉周作成政は幼名を於寅松といい、寛政六年[1874]正月元旦に仙台藩の気仙郡気仙村(陸前高田市)に生まれた。平千葉之介常胤の後裔と称していた。
父、忠左衛門成胤は藩の隠し目付だったが、訳あって一家は気仙村を出奔。栗原郡荒谷村(宮城県古川市)の見回り役、千葉幸右衛門を頼った。同じ千葉氏なので親戚なのだろうか。
この幸右衛門という人は北辰夢想流の二代目で、周作は幸右衛門から夢想流を伝授された。(幸右衛門の義父吉之丞から伝授されたという説もあり)
その後下総国に移動して小野派一刀流中西道場の浅利義信に入門を許される。のちに義信の婿養子になり、浅野姓を名乗る。
周作は北辰夢想流と小野派一刀流を合わせて新たに北辰一刀流を創始し、文政5年[1822]最初に日本橋に玄武館道場を開いた。のちに神田お玉が池に移る。名も千葉周作に改めた。なお、周作という名は幸右衛門の息子の名と同じで、一説にこの名を名乗ったのは父忠左衛門が気仙村から出奔したのと関係があるのではともいう。本名を名乗れなかったのだ。
江戸の玄武館道場は大いに繁盛し、多くの弟子を輩出した。普通十段ある位階を簡略にして三段にした。当時は昇段するにも金がかかったから、北辰一刀流は安く昇段できると評判になったという。もちろん、だからといって簡単に免許皆伝させてくれるわけはないのだが・・・。
北辰一刀流が輩出したそうそうたる有名な剣客たちについてはここにいちいち書くのはやめておく。
