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ボスとたまごたち

小学校での模擬教育実習。
教師を目指す学生や高校生にとっては貴重な修練の場でもあります。
ただ、教室の後ろから、授業の様子を観察しているだけでは、気が付かないことがたくさんあります。まあ、経験さえさせれば、学校現場を知ったことになると、安易に考えるのでしょうね。そこに本来の教育がありますか。
教育は、教え育てるだけでなく、その人がもつものを引き出すことだと考えます。だから、未だに、労働力として仕事をさせ、それが学校現場を知ることでもあり、教師育成教育になっていると、馬鹿な意見が横行しているのだと思います。学生にやらせるその仕事、本当に教師が行わなくて良いのですか。子どもを理解し、次の指導につなげることを、自分でしなくて良いのですか。それで安全が担保されるのですかと思います。きっと、学生はあくまで補助ですと返すのでしょうね。ここに露呈していますよね。教師教育ではないことを。
現在、模擬教育実習でお世話になっている学校は、単学級の小規模校です。
喉から手が出るほど労働力がほしいはずです。
ところが、子どもたちが怪我しないようにとグラウンドの小石拾いをしているのは、教務主任と体育主任です。学生に指示して学生だけではやらせません。草刈りを行っているのは、校長、教頭です。これも同じです。
しかし、それらを見ている大学生は、手伝いに行きます。
なぜか分かりますか。
手伝うことで、先輩教師から多くの実践的な示唆に富む話が聞けるからです。自分たちの学びがあると分かるからです。
単に任せて自分は楽をするとしか思えない、学校ボランティアとは、ひと味もふた味も異なりますよね。ボスも同じように、作業をで行ってきたからこそ分かります。最初は、学生たちに仕事を手伝うことの意味を伝え、そのように仕向けました。そして、そこで素晴らしい話が聞けたとなると、自分たちから行くようになります。彼らは、気が付かない高校生や学生に教えません。なぜなら、自分の学びが減るからです。自分で気が付き行動しなければ、単なるボランティアであり、学びに昇華しません。
彼らは、自ら考えて行動します。
今の大学4年生は、ここまでさらりとできるように魂を込めました。おそらく、ボスが育てた最後の教志になると信じています。
後輩たちは、先輩たちが苦労して今の位置にたどり着いたと想像できないだろうと思います。彼らは、ボスの指示を待ってます。ある程度は言います。
そこからは自分で考え、行動し、ボスにダメだしをされて身に付けていくのです。でもね、ここまで指示を待ち、その指示のとおり動き、成功体験を積んだ人たちです。無理だろうな。ボスも次年度も関われるなら無理するけれど、もういいかなと思っています。勝手に育てとまさに放牧の状態です。
そのような中でも、自分に足りないものに気付き、必死にそこを埋めようとしている学生もいます。ボスは、今、そのような学生と関わっています。
この時期に読む書籍を示し、その書籍について対話しています。教育についても語っています。その学生からすれば、来年以降は時間が取れないかもしれないと貪欲です。こちらも伝えるべきものは伝えています。明日の日曜日も研究室に来たいとか。ボスも火曜日の資料や、土浦三、水戸桜、公開講座の資料を作ります。だから、この時期、毎年、土日は研究室です。
そういえば、今の4年生も、一年生のときから、このようにしてボスに鍛えられました。それは、ボスが現場で、未だに、尊敬している教師から鍛えていただいたようにしています。そのときも、その先生からは、俺がいつまでもいると思うなと言われていましたね。今、一番お目にかかって、問いたいことがたくさんありますが、既に鬼籍の人です。残念です。もっと対話しておけば良かったと後悔しています。
先日、ある学生と大学時代に一番頑張ったことは何かと、話しているとき、自分は塾講師として、子どもたちから教え方が上手いと言われているので、模擬授業は一番頑張りましたと言われ、返す言葉もなく、今、自分が、魂をこめて関わった学生たちに、3年辛抱しなさい、そうすれば、時代はあなた方を求めてくるだろうなと、彼の言葉から確信しました。
分かりますか。ボスが返す言葉を失い、何を言っているのだと、突き放したのを。自分が行う授業に対して謙虚さ、素直さ、直向きさ感じられますか。
なぜなら、授業は、子どもたちと教師とが「創り」上げるものだからです。教師が一人で、独りよがりで「作る」ものではないのです。
ここの「創る」と「作る」の違い分かりますか。
「作る」という授業は、ボスがあきれた学生が行う単なる行為です。
「創る」という授業は、子どもたちを主体に考えるものなのです。
子どもたちは、つぶやきにならない声を発します。声にならない声のときもあります。声の代わりに表情で表すこともあります。
その声を拾うから、授業がいきたものになります。まさに教師と子どもが創りあげるものです。子どもたちは、いつも同じように授業に臨むものでもありません。中休みの後、給食の後、体育の後など、条件が様々であり、どの時間も均一にというわけにはいきません。
その時々に応じた声かけが大事です。
この声かけも、教師によって千差万別です。
教師が子どもたちと人間関係を築き、見付けたものだからです。
指導主事時代、他の指導主事は、管理職と教室の後ろにいて観察することが多かったのですが、ボスは机間指導よろしく、前の方まで進み、子どもたちのノートの取り方や、表情を見ていました。
あるとき新人の指導主事がボスに同行しました。
なぜ、あそこまで机間指導のように入っていくのかと尋ねられました。
子どもの視界に入るからこそ、本当の姿が見えると伝えました
担当教師が、同じように机間指導に入ると、その教師とは対角線上に進み、小声で子どもたちに尋ねました。
授業は面白いかい?
先生は優しいのかい?
このクラスの良いところを教えて。
など、これ以外にもいくつかの質問を、複数の子どもに尋ねました。
子どもたちは、素直に応えてくれました。
保育者のたまごたちには、十四の心で聴くことを指導しています。
ちなみに、その十四の心はこれです。
・受容する心・ゆったりとした心・共感する心・誠実な心
・好意的な心・先入観のない心・興味を示す心  ・明るい心
・肯定する心・公平な心・優しい心 ・信頼の心・理解する心・感謝の心
これらの心をもつことです。まさに、授業中に子どもの声を拾うとき、この心がなければ拾えませんよね。たとえ、拾っても聴かなかったふりをするかもしれませんよね。今は良いのなど子どもを責めるかもしれません。
そのような場面、現場でたくさん見てきました。
模擬教育実習も、そのような場面に気が付き、そのときに
「今はどうなの」などタイムリーに、指導者が声を掛けなければ、過ぎ去る一瞬にすぎません。ただの観察です。現場にいるだけで、良い教師に育つのならば、日本国中全ての教師が素晴らしい教師のはずです。
そのようなことあり得ませんよね。だから、ボスは老骨にムチ打ちます。
そういえば、今の4年生と卒業生、保育園、幼稚園、特別支援学校と連れて行って、コーチングしました。最初、彼らは、このことがどのような意味があるのかと、ボスに食ってかかりそうな目つきでした。いつの頃からか、とげが抜け、素直さと謙虚さが見えるようになってきました。
教師経験が0年の学生や高校生が、ボスの視点や、思い・考えに気が付くのは無理だと思います。ボスは知る人ぞ知る幻の教科調査官ですよ。
学校現場に行っただけの学生(ボスはその程度の見方)から
「いまどき、あの先生のこのような指導は・・・」という言葉を聞きます。
その時間の、一瞬で判断できるほど経験があるのかと疑問に思います。
実は、ここが大事なのです。たとえその瞬間そのように判断したとしても、単元全てを見た訳ではないので、謙虚にその意図を、該当の教師にたずねるべきであろうと思います。
授業は、上手くなりたいと思い、様々に試行錯誤することで、ある程度上達します。しかし、子どもを惹きつけ、学習に前向きに取り組ませるようにするためには、それだけでは十分ではないのです。
そこまで理解して、他者の授業を批評するのは構わないと思います。
ただし、ボスは、被観察者に、
「今日の授業はどうでしたか。自分では、ここが課題だと思いますが・・・」と言われてから、思ったことを工夫しながら話していました。
その際も、全ての単元を見ている訳ではないので、この一時間の、ほんの僅かな部分だけの話なので、的を射ているか分からないということを伝えたうえで話しました。
それも、このあと、このような展開や、こうなったときにはこんな展開かなと想像したことを話しました。
なぜか分かりますか。自分で気が付かないと、子どもたちを惹きつけ、心に灯を点すような授業はできないのです。
ボスに、教採対策として模擬授業の指導を受けた学生たちは、他教科なのに、どうして授業の工夫をたくさん持っているのですか尋ねます。
これは、指導主事時代から、横浜国立大学名誉教授の髙木展郎先生の研究会に参加させていただいていたからだと思います。
先生は国語科教師です。
しかし、先生の研究会に集まり参加してくる人は、様々な校種、教科です。
共通であるところは「言葉で教育する」ということを大事にしているというう、一点です。だから、ボスは低学年の体育で鉄棒の指導で、その子どもの心に灯を灯したと思います。自ら挑戦することを芽生えさせるように。
ただ、その指導が大学4年生まで、逆上がりができなかった学生が、ボスが感覚的なことを伝え、言われたことを大事にだまされたつもりでやってみた結果、足があがり、逆上がりができた瞬間の彼の笑顔。
「こんなことだったのか。できました」
まさに魂の叫びを聞きました。いくつになっても「出来るようになる」ことは嬉しいものです。
ならば、「学校現場を経験させる=体の良い労働力」という考えやめませんか。その根底には、自分たちの教育という仕事は崇高なもので、素人である、学生や高校生を、学校に入れるのはどうなのかという、学校独自の傲慢さがあるように思います。教師が足りないと嘆くのならば、きちんとした手法で育てましょうよ。まさにそこに求められているのが「理論と実践の往還」ではないでしょうか。お互いに謙虚に、素直に、直向きであるべきだと思います。

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