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きのふけふとは-がん執行猶予中?-(9)-3 Cogitoに始まる

(2026.4.24)
週末に保険の更新手続き。今加入しているかんぽ生命の10年養老保険が5月に満期なので、終身型のプランに乗り換えようとしているのだが、どうも難しいようだ。

というのも、「がん」にり患した経験があると、加入資格で大幅にマイナスになる。そのほかにも外科手術は特約払い戻り金が大きいので、胃のほかにも5年前の耳鼻科の手術が減点材料になるらしい。

確かに2度の入院でどちらも全身麻酔の手術を受けたから、病院の窓口で払った金額の8割くらいは特約払い戻り申請で戻ってきた。2度合わせると2年分の保険料くらいにはなる。保険会社から見ればこの先また何回特約使われるか分からない高リスク客ということになるだろう(大腸ポリープ切除も減点材料だが、入院は一晩だけだったので通知しなかったのはむしろ幸いだったか。あれも組織検査でがん細胞あったし)。

高リスクだから保険料を吊り上げるという商法をしないのがかんぽ生命の良いところだが、保険料払い込み期間が済む前に死なれてはこちらが損をする、という計算は無論あって、高リスクとみなされると入れるプランはどうしても満期までの期間が短いものになる。

その理屈は重々分かるので、望みのプランに加入できなくても文句を言うつもりはないが、久々に「執行猶予中」が意識に上ると気分が下向きになる。もう生活上に不都合はないし、仕事場でもそういうことではもう誰にも気を遣ってもらわなくてよくなっているのに。


でお仕事話。

生成AIはやはり怖い。
このところ仕事でCopilot(リモートワーク御用達のグループウェアについてくるやつね)を使うようになったが、とにかく速い。こちらが3日かけて作ったレポートとほぼ同じ内容のものが15分で出てくる。キーワードは英語で打ち込むことが多いので回答も英語だが、仕事場で導入した翻訳ソフトはプロンプト調整したら格段に「業界適応」が良くなったので、そちらで翻訳をかけて若干の文体調整をすれば、ちょっとした照会案件などは半日でできてしまう。

こちらの仕事はそれこそ「AIが得意」とされる調査や分析なので、今や定年までにリストラ、どころか組織そのものが消滅の危機にさらされているわけだが、かといって「生成AIの使い方さえ分かれば自分の頭に知識を蓄えなくてよい」というのは極論に過ぎるような気がする。

私はおおむね事前に調査した事柄の検証とか、統計処理でCopilotを使っているが、情報ソースには気を払う必要がある、といつも実感している。資料を指定したうえでキーワードを選ぶ場合、あるいはこのキーワードならこの資料から引いてくるはず、と見当がつく場合はよいが、ある程度調査内容についての背景知識がないと、情報ソース欄に出てきた資料が信用に足るものであるかが確認できない。

AIを使って業務資料を作成するとき、それは何をするために作るのか、どのような情報が役立つのか、信頼性の高い情報は何かを知る経験を経ずに、ただ「○○をして」と頼めば答えが出てくる、と考えているとトンデモなソースからトンデモな回答を拾ってくる可能性なきにしもあらず。

こちらの乏しい経験では、AIはどうしてもそれを使う人間に似てくるから、AIが信ぴょう性の薄い回答を出してきたら、それはプロンプト設定をした人間の無知や偏見を写している、という気がする。人の介在がなくても業務をこなすAIエージェントにしても、一つの会社で動かしていたら、その会社の「社風」を吸収して、人間の社員と同じリスクを背負うようになるのではないか、と思われる。

私はだから、AIを使いこなす人がよくやるという「対話」はしたことがない。問いを入力するのが私である以上、どうしても回答は私の視野の範囲に留まり、反論を期待しても想定外のものは出てこないような気がする。

むしろ、これは集団で作成資料を見せ合う環境があってこその面白さなのだが、同僚が作成したものを見ていると、いかにも「●●さん」らしく、かつ「目からウロコ」の回答があって感服する。

数日前の例。グループで「放送局の公益性」について論議をしていた。そこで我々は「ネット上でフェイクニュースが蔓延する中で、住民の誰にも事実に基づき党派的な偏見のない報道を行う」のが「公益性」であるという了解を得たのだが、ではそれは一般に通用する見解なのか、とメンバーの1人がCopilotに尋ねてみた。

すると、我々の規定には「住民の誰にも」という「公共性」と「偏見のない(誰にも等しく有益な)」という「公益性」が混在している、両者は重なり合うものではあるがひとくくりにはできない、というなかなかに深いアドヴァイスが戻ってきた。

そこで改めてAIの怖さを実感したわけだが、私にはまだAIは人間以上の能力を発揮するものではあっても、人間の頭脳とは質的に異なるものと感じられる。

というのは、やはり生身でない存在には「Cogito」が感じられないから、としか言いようがない。「Cogito(デカルトが言う「われ思う、ゆえに我あり」)」は「世界の何もかもが虚妄だとしても、私は自分がここで何かについて考えていることだけは疑えないし、それ故に自分が存在していることも疑えない」と解説されている。私がそういう「存在」を感じるのは、例えば数学の問題がどうしても解けずに、何日も試行錯誤して、やっと解法を見つけたとき、「ああこういうことなんだ」という了解したときなのだが、その「分かった」感覚は他の何にも代わることのできない「私」のものであると同時に、私がそこに存在している世界とのつながりを示しているように思われる。それはまた一種の身体感覚で、何度も練習した結果、やっと跳び箱が飛べた、といった状況でも現れる。

今のところAIに身体はないから、彼(彼女?)は試行錯誤(をものすごい速さで)の末に解答を導き出すプロセスを人間と共有しても、解答が出たときに「Cogito」を感じることはないだろう。

デカルトは「心身二元論」の祖と言われているけれど、彼の発想の原点は案外「身体性」の意識にあったのかも、などと妄想してみたくなった。

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